聖トマスの骨の行方

 1498年、ヴァスコ・ダ・ガマがインドのカリカットに来たとき、彼はそこがクリスチャンの町だと思い込んだ。20万人のキリスト教徒がいて、祈りをあげたヒンドゥー教寺院も教会だと勘違いしていた。1502年にマラバル海岸に戻ってきたとき、シリア教会の代表団と会って、キリスト教が少数派であることを知ったのである。

 キリスト教徒たちはヴァスコ・ダ・ガマに会ったとき、ヒンドゥー王国を倒すよう要請している。ヒンドゥー教の支配者はキリスト教徒にある程度の自由と権利を与えていたので、いささか裏切り行為といえなくもない。

 しかしカトリックのポルトガル人たちは次第に彼らを異端的な一等低いクリスチャンとみなすようになる。シリア教会はネストリウス派の流れをくむ教派であり、ネストリウス派ははるか昔に異端の烙印を押されているのだから、当然のことだった。

 150年後の1653年にはゴアで異端審問が開かれ、シリア教会の司教が火刑に処せられた。この異端審問はフランシスコ・ザビエルその人が1世紀前にインドに導入したものだった。

 この時期にトマス伝説を作り上げていったのは、むしろポルトガル人だった。彼らはどうしても受難した聖人が必要だったのだ。聖トマスがインドにやってきて、この地で殉教者になったという証拠がほしかった。

 広く読まれている『トマス行伝』によれば、上述のようにトマスはインドで殉教していた。十字架の上で死んだのではなく、兵士たちに槍を刺されて死んだのだった。

 1521年、マイラプールのシヴァ寺院の敷地内で二つの墓が見つかった。ひとつの墓からは「黒い骨」が出てきた。それにはチョーラ王の銘が刻まれていたが、ポルトガル人たちは聖トマスの弟子と認定した。

 もうひとつの墓からは「白い骨」が出てきた。それはユダヤ人、すなわち聖トマスと考えられ、鑑定のためゴアに送られた。しかし決定的なことは何もわからなかった。

 1523年、マイラプールの建築家ディオゴ・フェルナンデスは第三の墓を発掘するよう命じられた。彼のチームはなかなか発見することができなかったが、ようやく大腿骨の入った土の壺を見つける。しかしそれは1500年前のものとは思えない血に濡れた壺だった。そのなかから槍のヘッドも見つかった。また木の柄も奇跡的に残っていた。これらは聖トマスが殺されたときの状況と類似していた。とうてい紀元前後の昔のものとは思えなかったが。

 槍で殺されたことは意味深かった。「槍で」をシリア語で「be ruhme」といった。これは「Brahmin」(バラモン)と音がよく似ていた。これらから聖トマスはバラモンによって(槍によって)殺されたということになっていく。言葉遊び、あるいは印象操作みたいだが、なんとなく聖人のトマスはヒンドゥー教のバラモンによって殺されたかのようなイメージを我々は持つようになったのだ。

 しかし『トマス行伝』には、トマスは死刑の執行者である兵士たちに槍に刺されて死んだと書かれている。バラモンによって殺されたとは書かれていないし、埋葬された遺体や骨も出てきていない。

 それもそのはずで、聖トマスの骨は1258年に運ばれて以来ずっと、イタリアのオルトーナの聖堂に安置されているのだった。(もちろん中世において偽の聖遺物がいかに多かったかを考えると、これも本物とは断定できない) 

 

 


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チェンナイのトマス・マウンド