知られざる17年・インドへ
第21章
1 南インド、オリッサの王子ラヴァンナはユダヤの祭礼のなかにいた。
2 ラヴァンナは富裕で、正義の人だった。バラモンの一団とともに西方の国で知恵を探し求めていた。
3 ユダヤ人の祭司のなかに立ち、本を読み、話しているイエスの姿を見てラヴァンナはたいへん驚いた。
4 そして彼は尋ねた、イエスとはだれなのか、どこから来たのか、と。祭司長のヒレルがそれに答えた。
5 われわれはこの少年を「高みから来た昼間の星」と呼んでいます。というのも彼は人々に光を、生の光をもたらし、人の行く道を照らしだし、イスラエルの人々をあがなったからです。
6 そしてヒレルはラヴァンナに少年に関するすべてのことを教えた。すなわち、彼に関する予言のこと、生まれた夜に起こった不思議なこと、マギ(博士)らの訪問のことなどを。
7 そして悪意のある人々から彼がどのように守られてきたか、エジプトの地への逃避行について、そしてナザレで大工としてどのように父に仕えたかなどを。
8 ラヴァンナはすっかり魅了され、ナザレへの道を尋ねた。神の子であるならば、そこへ行って敬意を表すべきだと考えたのだ。
9 そして彼は多くの従者を連れ、ガリレアのナザレへと向かった。
10 彼はおのれの調査の目的が、人の息子たちの住まいを建設することに関連していることがわかった。
11 彼がはじめてイエスを見たとき、彼は12段の梯子を登っていた。その手にはコンパスと定規と斧を持っていた。
12 ラヴァンナは感嘆した。おお、なんと素晴らしき天国の息子たちよ!
13 そしてラヴァンナは宿の前で町のすべての人のために祝宴を開いた。イエスと両親は特別ゲストだった。
14 何日間かラヴァンナはマルミオン通りのヨセフの家のゲストとして滞在した。彼は神の子の知恵の秘密を学ぼうとした。しかし彼には恐れ多いものだった。
15 そして彼は子供のパトロンになれないか尋ねた。つまり彼を東の国に連れて行ってバラモンの知恵を学ばせられないかと聞いたのだ。
16 イエスもまた東の国で学ぶことを切望するようになった。だいぶたってから両親も同意した。
17 こうしてラヴァンナとその一行は誇らしげに太陽の昇る方向へ向かって出発した。何日もかかってシンドを渡り、ラヴァンナ王子の王宮のあるオリッサに着いた。
18 バラモンたちは王子の帰りを歓迎した。ユダヤ人の少年もまた好意をもって迎えられたのである。
19 イエスはジャガンナート寺院の弟子として受け入れられた。彼はここでヴェーダとマヌ法典を学んだ。
20 バラモンの長老たちは少年の明晰さに驚いた。彼が法について説明すると彼らは舌を巻いた。
*インドの王子が知恵を求めてイスラエルにやってくる。彼は少年イエスを見て驚く。ナザレにいるイエスをあらためて訪ねる。この章で奇異な点、あるいは斬新な点は、イエスがコンパスと定規と斧を持って12段の梯子を登っていた、という箇所だ。イエスはフリーメーソンの開祖だったのか。王子はイエスにインドの哲学を学んでもらいたいと考え、彼を連れて故郷のオリッサに戻った。
ヒレルといえば、ミシュナーやタルムードの基礎を築いた律法学者大ヒレル(BC110?−AD10?)を連想する。生没年が正確にわかっているわけではないので、文中のヒレルがこの大ヒレルであってもおかしくはない。
マルミオン通りのマルミオンについてはよくわからない。神との合一を説いたコルムバ・マルミオン(1858−1923)からその名を得たのかもしれないが、年齢はリーヴァイよりも下である。あるいはスコットランドの詩人、作家のウォルター・スコット(1771−1832)のフロッデンの戦い(1513)をテーマとしたマルミオン卿を主役とした詩集『マルミオン』(邦訳の題はマーミオン)からヒントを得たのか。あるいは15世紀のフランドル派の画家シモン・マルミオンと関係があるのか。(ロサンジェルスにはマーミオン・ウェイという地名が実在する)
第26章
1 オリッサの町々でイエスは教えを説いた。川岸のカタクで数千人の人々が彼の崇拝者となった。
2 ある日ジャガンナートの山車が熱狂的な群衆によって倒された。イエスは言った。
3 見よ、魂のないものが通り過ぎていく。魂のない肉体。祭壇の火のない神殿。
4 このクリシュナの山車は空虚なものである。クリシュナはここにいないのだから。
5 この山車は肉欲のワインを飲む人々にとっての偶像である。
6 神は舌の喧騒によって生きているのではない。どのような偶像の神殿からも神へ通ずる道はない。
7 人が神と出会う場所は心の中である。そして神は小さな声で話す。また静かに聞く。
8 人々は言った、どうか教えてください、心の中で話す、小さな声の聖なる方をどうやって見つけ出すのかと。
9 イエスは言った、聖なる息吹を、また聖なる霊を、死すべき者の目で見ることはできないと。
10 神のかたちに人は作られた。人の顔を見るということは、心の中で話す神の姿を見るということなのだ。
11 人が人を尊ぶとき、彼は神を尊ぶことになる。人が人のためにすることは、人が神のためにしていることなのだ。
12 人が考えにおいて、また言葉や行為において人を害するとき、それは神に対して害しているのだということを心にとどめよ。
13 もしあなたが心の中で話す神に仕えたいなら、近親の者に仕えよ、近親でない者にも使えよ。門にいるよそ者にも、あるいはあなたに危害を加えようとする敵にも仕えよ。
14 貧しき人々を助けよ。弱き者を助けよ。だれにも危害を加えるな。あなたのものでないものを欲しがるな。
15 そしてあなたの舌でもって聖なる者は話すだろう。あなたの涙の向こうで神は笑みを浮かべているだろう。そしてあなたの表情を喜びに照らすだろう。またあなたの心を平和で満たすだろう。
16 人々は尋ねるかもしれない。だれに贈り物を持っていけばいいのかと。どこに生贄をささげればいいのかと。
17 イエスは言う。われらの父なる神は植物や穀物、鳩、羊などを求めているわけではない。
18 どの神殿でも燃やして捨てるのはよくない。腹をすかした口から食べ物をとった者は祝福を受けないだろう。
19 あなたがわれらの神に捧げものをするとき、穀物や肉を取り、貧しき者のテーブルに置きなさい。
20 ロウソクが天へ向かって立つだろう。それは祝福されてあなたのもとへ戻るだろう。
21 あなたの偶像を叩き壊せ。それらはあなたの言うことを聞かないだろう。犠牲の祭壇に火を加えて燃やせ。
22 あなたの心を祭壇に変えよ。犠牲を愛の炎で焼き尽くすがいい。
23 すべての人がイエスの虜になり、神として崇めるようになった。イエスは言った。
24 私はあなたがたの兄弟である。神への道を示すためにやってきた。あなたがたは人を崇めてはいけない。神を、聖なるものをのみほめたたえよ。
*ジャガンナートで教えを説くのは、ノトヴィッチの『イエスの知られざる生涯』と重なる。クリシュナ崇拝が高まるのはイエスの時代よりずっとあとだが、ジャガンナートは偶像崇拝の本拠地というイメージが19世紀後半にはあったのだろうか。
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