不思議と当る死の予言               宮本神酒男 

 アティムがアフマドの言葉に恐れおののいたのには、十分な理由があった。アフマドが最初に発表した著作の内容は、ヒンドゥー教やキリスト教にたいして挑発的だった。しかし同時に論争好きのアフマドは他宗教との交流を好む傾向があった。

 1884年、アフマドはアーリヤ・サマジ派のパンディト(大学者)レーク・ラムをカーディアンに招待した。彼は25日間滞在したのだが、イスラムにたいする考え方を変えることはありえなかった。それ以来「顔を見るのもいや」と言うほどこのヒンドゥー学者のことが嫌いになったのである。

 1886年3月、アフマドは彼の友人や敵対者の未来に関する新しい啓示を得たと発表した。その一部は不愉快なもので、痛みを伴うものかもしれないと彼は言った。ひとつはレーク・ラムに関する予言だった。

「いまから6年後、すなわち1893年2月20日、この男は聖なる預言者への不敬の罪によって、激しい苦痛に襲われるだろう」

 1893年2月、レーク・ラムには何も起こらなかったが、アフマドが言うには新たな啓示がもたらされたという。

「けさ大きな部屋に友人たちといっしょにいると、ひどい身なりの、しかし体躯のいい男がやってきて、『レーク・ラムはどこだ?』と尋ねた。この男はレーク・ラムを懲罰するためにやってきたのだということがわかった」

 レーク・ラムはこの啓示のことを聞いて大笑いしたという。彼は自身も「予言」を試みた。「アフマドは3年以内にコレラにかかって死ぬだろう」

 3年後、アフマドは死ななかったが、レーク・ラムは悲惨な死を迎えることになる。

 1897年3月6日午前6時と7時の間、セキュリティーのしっかりしたレーク・ラムの屋敷に「ひどい身なりの、体躯のいい男」が突然現れ、短剣で彼の腹部を突き刺し、腸をぐじゃぐじゃにするほどかき回した。

 この殺人者は、アフマドの命令によってレーク・ラムを殺したのではないかという疑惑が生じるのは当然のことだった。しかしアフマドは否定し、殺人犯を厳しく非難した。レーク・ラムの死は神が定めた運命であり、彼に示した啓示なのだった。

 犯人は結局捕まらなかった。偶然殺されたのか、それともだれかが仕組んだ殺人だったのか、ついにわからずじまいだった。

 しかしヒンドゥー教の秘密組織が結成され、アフマドの暗殺計画が練られたという。もし殺害に成功すれば、3万ルピーという巨額の報奨金が払われるはずだった。



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