イスラムの陰謀? バルナバ福音書の謎       宮本神酒男 

 ミルザ・グラーム・アフマドが「イエスは十字架上で死ななかった」という論を展開したとき、根拠のひとつとしたのは、十二使徒のひとりとされるバルナバが書いた「バルナバ(バルナバス)福音書」だった。バルナバは、聖書の「使徒行伝」第4章にも畑を売って得たお金を使徒たちにささげたレビ人として描かれるが、通常は十二使徒に数えられることはない。

 アフマド本人が「この本は即座に否定された」と述べたように、「バルナバ福音書」は中世に作られた偽書であるとみなされてきた。福音書中にボニファティウス8世(在位12941303)に関する記述があることから、編纂されたのは14世紀前半と推定されたのだ。4世紀頃までに書かれたものなら外典とみなされるが、中世ともなれば偽書という烙印が押されてしまう。アフマドから見れば、この福音書のオリジナルは他の福音書と同時期にさかのぼることができるほど古い、ということになるのだが。

 「バルナバ福音書」のなかでは、イエスは磔(はりつけ)にされず、死ぬこともない。アフマドが言うには、ヨナが鯨のなかに三日間いたように、イエスも墓の中で、気絶した状態で三日間いた。これはじつはコーランで述べられることとおなじだった。「バルナバ福音書」はまるでイスラム教徒のために書かれた福音書であるかのようだった。宗教学者のペル・ベスコウも『イエスに関する奇妙な話』のなかで、1979年にロンドンのイスラム文化センターを訪ねたとき、この福音書が無料で配布されていたと証言している。「バルナバ福音書」がイスラム教徒のために著されたのは間違いなかった。

 18世紀はじめ、アムステルダムで、プロイセンの評議員J・F・クレーマーはイタリア語で書かれた「バルナバ福音書」を発見した。これをもとに、アイルランドの啓蒙主義者ジョン・トーランドが注釈を加えて出版したという。

しかし質の高い英訳版が出版されるのは1907年まで待たねばならなかった。この年、英国国教会牧師カノン・ロンズデール・ラッグが妹ローラとともに、ウィーンの国会図書館に保管されていた「バルナバ福音書」を翻訳し、編纂したのである。ちなみに『バルナバ福音書』の写本には、イタリア語で書かれたもののほか、スペイン語で書かれたものがあった。それらの最古の写本は16世紀のものである。

 スペイン語版の前書きによると、フラ・マリノという修道士が、教皇シクストゥス5世(15851590)がうたたねをしているとき、この福音書を盗み読んで感銘を受け、イスラム教徒に改宗したのだという。このように真偽云々以前に、ここでもイスラム教への改宗を誘う意図が見え隠れする。

 2012年になって、アラム語(シリア語の一種でイエスが話した言語)で書かれた5世紀頃の「バルナバ福音書」の皮製写本が発見されたというニュースが流れた。じつは2000年に密輸捜査の際に発見されていたのだが、その重要性が認識され、武装した護衛兵に守られながらアンカラの民族博物館に運ばれたのである。

 この福音書に関し、イランは「キリスト教に終わりをもたらすだろう」という声明を発表した。なぜならこの真正な福音書に「イエスは磔にされていない」「預言者ムハンマドが到来する」とキリスト教を根底から揺るがすことが述べられているから、というのである。残念ながら、イランがそうした声明を出すことによって、かえって真正性に疑問を投げかけることになった。ただ、この写本がきわめて古いことはたしかである。本来なら国際学術プロジェクトを発足し、写本の内容の解明に取り組むべきなのだが。

 さまざまな見方があるけれど、初期のイスラム教徒によって作られた偽書であるとするなら、これもダン・ブラウンばりのサスペンス小説のネタにできそうである。実際ルーク・モンゴメリーの『死の偽装』(2012)は、「バルナバ福音書」を基本モティーフとする国際的な陰謀を描いたベストセラー小説である。(『マギの聖骨』など歴史を題材にしたサスペンス小説をつぎつぎと送り出すジェームズ・コリンズを彷彿とさせる)

 


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