第7章 イスラム版インドのイエス伝説(2) 宮本神酒男
私はイエスと会った
ミルザ・グラーム・アフマドは「カシュフのなかで私は何度もイエスと会った」と述べる。アフマド自身の説明によれば、カシュフというのは「覚醒している状態で見る幻」ということである。イエスだけでなく、彼は多くの預言者と会った。とりわけ預言者ムハンマドとの出会いは重要だった。
それを胡散臭いと思う人もいるだろう。しかし私は、アフマドは偉大なミスティック(神秘家)なのだと考える。彼はイエスやムハンマドの幻影をはっきりと見ているのであり、夢や虚偽ではないのだ。
彼はまた死者と会うこともできた。
私は覚醒した状態で、死者たちと、彼らの墓やその他の場所で会った。そして彼らと話をし、握手をしたこともあった。こうした状態とふだんの状態とのあいだにそれほどの差はない。人はいまこの世界にいると理解する。おなじ耳、おなじ目、おなじ舌を持っている。しかしより深遠な思索からそれが異なる宇宙であることが導き出される。
アフマドは幻影のイエスと会っているので、自身がイエスの再来であると信じて疑わなかった。彼はつぎのように述べる。
イエスの再来に関して福音書がふたつの予言を有していることに留意すべきである。
(1)末日に彼がふたたびやってくるという約束。彼の再臨は精神的なものであり、預言者エリヤの再来と類似する。エリヤは彼の時代にすでに再臨していた。そしてイエスの名において再臨した約束したメシアとはこの私、人類のための奉仕者である。イエスは福音書のなかで私がやってくることを述べているのだ。
(2)イエスの再臨のもうひとつの予言は福音書のなかに述べられている。それは十字架を経験している間(磔刑の間)生命が残っていたことの証しなのだ。神はこの輝かしい下僕(しもべ)を十字架の死から救ったのである。
アフマドの言う福音書の予言とは、マタイ伝16章28節のことである。
よく聞いておくがよい。人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる。
難解な文章であり、同時に上手いとはいえない翻訳だ。人の子(イエス自身)がその国とともに来るのをその目で見るまでは、死を味わわない(死なない)者たちがいる、という意味である。これはイエスの再臨について述べられているのであり、だれかがイエスのかわりにやってくるのではない。しかしアフマドはイエスのかわりにやってくる者がいて、それが自分のことだと考えたのだ。
アフマドはまた、マタイ伝24章39節をもとに、再臨したイエスを名乗る者はイエス本人ではないと主張する。しかしこれは聖書の誤訳(ウルドゥー語訳)が生み出した間違った解釈ではないかと思う。
神の名において来たる者は祝福されるだろう、と言うまで、あなたは私を見ることはないだろう。
現在の訳はつぎのようになっている。
そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。
イエス(人の子)の再臨も洪水が襲ったときのように、間際にならないと気づかれない、ということを言おうとしている。残念ながらアフマドの読解力が十分ではなかったのだ。しかし彼のようなカリスマ的人物にとって、解釈が正しいかどうかというのはどうでもよかったのかもしれない。
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