ホジャ・ナズィルが主張するアフガン人イスラエル起源説
アフガン人がイスラエルの子らの子孫であるという伝承は、古代のモニュメントや碑銘、歴史文書にも見出すことができる。とくに1317年にアブ・スライマン・ダウド・ビン・アブル・ファザル・ムハンマド・アルベナケティによって書かれた『偉大なる人々と血統の歴史における智者の庭園』は有用かつ重要な歴史書であるとホジャ・ナズィル・アフマドは言う。アフガン人の先祖はヤコブ(イスラエル)、さらにはタールート王(サウル王)にさかのぼることができるという。
『マジマウル・アンサブ』の著者メストゥフィは、アフガン人の首領カイスの31代前はサウル王、45代前はアブラハム、それよりずっと前にさかのぼればアダムに達すると述べている。
ブフタワル・ハーンは歴史書『世界の鏡』にアフガン人が聖なる地からアフガニスタンのゴル、ガズニ、カブールまで移動した歴史的経緯を描く。またハフィズ・ラフマト・ビン・シャー・アラムは『フラサトゥル・アンサブ』のなかで、ファリードゥド・ディン・アフマドは『リサラ・イ・アンサビ・アフガナ』のなかで、イスラエルの後裔であることを述べている。
もっとも重要な歴史書はつぎの2書だとホジャ・ナズィル・アフマドは言う。ひとつはムガル帝国朝廷書記のネマトゥッラが著した『アフガン人の歴史』(オリジナルは1612)、もうひとつはハフィズ・ムハンマド・ザディークの『タリフ・イ・ハフィズ・ラフマハニ』(1770)である。彼らの主張によると、アフガン人の先祖はイスラエルの子ら、すなわちバニ・イスラエル(バニ・アフガナ)である。
J・B・フレイザーもまた『ペルシアとアフガニスタンの歴史叙述』(1843)のなかで「彼ら(アフガン人)は伝統的に自分たちをユダヤ人の子孫だと考えている。イスラム化するまで彼らはその宗教の純粋さを維持していた」と述べている。
ホジャ・ナズィル・アフマドはじつに多くの歴史書から引用をしているのだが、ほとんどが19世紀までに書かれたものである。あらたな情報が出てこないせいか、あるいはイスラム教徒が元ユダヤ人であることとするのは心地よくないのか、論議されることもなくなった。しかしアフガン人ユダヤ起源説は死んだわけではない。
パタン人(パシュトゥン人、すなわちアフガン人)の決定的な書ともいうべきオラフ・カロウ著『パタン』(1958)は当然のことながらアフガン人の起源に触れている。
アフガンの歴史学者は、サウル王にはイルミア(エレミア)という名の子があったと主張している。イルミアにはまたアフガナという子があった。イルミアもアフガナもヘブライ語の文献には現れないのではあるが。サウルが死んだ頃、イルミアもまた死の床に伏していたのだが、その子のアフガナはダビデ王によって育てられ、ソロモン王の時代には軍隊の司令官に就いた。
バビロン捕囚の時代とは4世紀のズレがあるが、バフトゥンナサルの名が出てくるので、紀元前6世紀前半の第2次捕囚の話である。すなわち百年以上前のサマリアからイスラエル人を連れだしたアッシリアのシャルマネセル王によるものではなく、エルサレムからユダヤ人を連れだした話なのだ。もしそうなら、バニ・イスラエル、すなわちアフガナの子たちが失われた10支族と関係しているという仮説は成り立たないことになってしまう。それにもかかわらずアフガン人の先祖が失われた10支族であるという仮説の支持者は多かった。
総督ウォレン・ヘイスティングス(1732−1818 総督に就いたのは1773−1786)の時代、オリエント学のパイオニアであるウィリアム・ジョーンズ卿によって示唆されたのは、アフガン人が、預言者エズラが言及するイスラエルの失われた10支族であること、そして彼らが捕われていたところ(アッシリア)から逃げだしてアルサラスに亡命したことだった。アルサラスは現代のハザラジャトであり、アフガンの歴史家が言うゴルのことである。
このようにオラフ・カロウというパシュトゥン人研究の権威までもが、アフガン人の先祖がイスラエルの失われた10支族であるという伝説に触れているのだ。もっとも、それはあくまで伝説であり神話なのであり、言語学との整合性はなかなか取れない。パシュトー語はイラン語系の言語であり、ヘブライ語やアラム語とはまったく別物なのだ。王室だけがイスラエル10支族の後裔であり、彼らの言語だけがヘブライ語であったとするのならともかく……。
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