ドルポから来たブッダ

サイラス・スターンズ 宮本神酒男訳

 

 1309年、17歳の新米僧が現ネパール領のドルポの家から逃げ出した。ムスタン(ロー)地方への悲惨な旅路を耐えたのも、偉大なる精神的グルを求めてのことだった。

 そのときだれが想像できただろうか、20年もたたないうちに、彼がチベット・ツァン地方のチョナン寺の座主に就くことを。そこに彼はチベットでもっとも大きな寺院塔(クンブム)を建て、チベット仏教界を揺るがすいくつもの論文を書くのである。論文のなかで彼は真実の本性について独自の見解を示す。

 ドルポパの考え方と影響を理解するには、まず彼の生涯と彼がすごした文化的環境をあきらかにしていく必要がある。幸運なことに、二つの決定的資料によってたしかな情報をわれわれは得ることができる。

 それらはドルポパの弟子のふたり、ガルンワ・レイ・ギェルツェン(Gharungwa Lhey Gyaltsen 1319-1401)とクンパン・チューダク・バルサン(Kunpang Chodrak Balzang 1283-1363?)が編纂した伝記である。彼らは多くのできごとの生き証人であり、人生や経験についてのドルポパ自身のことばを彼らは記した。

 ジェツン・ターラナータ(Jetsun Taranatha 1575-1635)やマントゥ・ルドゥプ・ギャンツォ(Mangto Ludrup 1523-1596)らがずっとのちに記したものも、興味深く貴重な資料ではあるが、しばしば初期の資料と合致しないことがある。

 

 

1 天才僧は家出少年だった

 1292年、ドルポパはニンマ派の密教を実践する一族に生まれた。その一族はとくにヴァジュラキラーヤ(Vajrakilaya)を信仰し、彼は少年ながらその専門家といえるほど精通していた。

 1297年、5歳の彼は赤のマンジュシュリのイニシエーションを受けた。瞑想のなかで彼は神のヴィジョンを見た。この神から彼はすさまじい力を授かったといわれる。

 1304年、出家したとき彼は12歳だった。そのとき彼は超越的知識の完成、すなわち般若波羅蜜(プラジュニャーパーラミター prajnaparamita)と論理的認識法(プラマーナ pramana)の論考について学びたかったが、故郷の地域にはそのための研究施設がなかった。

 これらの論題はサキャ派が得意としていた。しかしこの地域では、サキャ派はニンマ派ほどには盛んではなかった。この頃までに彼はインド人大師アバヤーカルグプタ(Abhayakaragupta)の「三種の数珠」(’Phreng ba skor gsum)などの教えを、サキャ派のギドゥン・ジャムヤン・タクパ・ギェルツェン(Gyidon Jamyang Trakpa Gyaltsen)から教えてもらっていた。あるいは密教の灌頂を受けていた。このサキャ派の僧は、もっとも重要な精神的な師のひとりとなった。師の信仰心の深さに圧倒され、ドルポパはギドゥンについてムスタンへ行きたいと考えた。しかし彼にニンマ派を学んで欲しい両親の反対にあい、目論見は潰えてしまう。

 1309年、17歳になったドルポパは親の許可なく、ひそかに家を飛び出し、困難な旅をへて、ムスタン上部の師ギドゥンのところに至ることができた。彼はそこで数多くの教えを授かった。たとえば超越的な知識の完成、すなわちプラジュニャーパーラミター(般若波羅蜜)、論理的理性の指南、すなわちプラマーナ、あるいは宇宙論、心理学、すなわちアビダルマの経典などであった。

 一ヶ月の集中的な学習だけでドルポパは、各仏教のジャンルに関連した法のことば(チューケ chos skad)をマスターし、討論に参加することができた。これが人目を引いた最初のできごとだった。

 その頃ギドゥンは彼の叔父シャキャ・ブムから緊急のメッセージを受け取った。シャキャ・ブムが教えているツァン地方のサキャ僧院にギドゥンが来るべきだというのだ。ギドゥンはムスタンの支援者や生徒たちに、すぐに戻ってくると約束し、サキャへ向かった。サキャは当時チベットにおける輝かしい学問の中心地だった。そのあいだドルポパはムスタンでふたりの熟練した僧のもとで勉強をつづけた。

つづく ⇒ 2 サキャ大僧院での勉学