ドルポから来たブッダ
サイラス・スターンズ 宮本神酒男訳
2 サキャ大僧院での勉学
二年後、ギドゥンはムスタンへの帰郷の準備をはじめたが、叔父のシャキャ・ブムやほかのサキャ寺の教師たちはそれを許そうとしなかった。彼は使者をムスタンに送って説明し、ドルポパにはサキャに来るよう誘った。
ドルポパがサキャに着いたのは1312年、23歳のときだった。ふたたび以前の教師のもとで学び始めた。この時点ですでに彼はもっとも早く高みに達した生徒だとみなされていた。彼は超越的な智慧の完成(般若波羅蜜)、論理的認識法(プラマーナ)、そして宇宙論および心理学(アビダルマ)の学習に専念した。
彼の学友らはこのアプローチの仕方に反対し、ひとつのテーマに集中するようすすめたが、彼はそれを無視し、それどころかあらたにボーディチャーリヤーヴァターラ(Bodhicaryavatara)、そしてヴァジュラーヴァリータントラ(Vajravalitantra, rDo rje ’phreng ba’i rgyud)やブッダカパーリタントラ(Buddhakapalitantra, Sangs rgyas thod pa’i rgyud)などの密教経典を加え、学習にはげんだのだった。わずか一年半で、彼は上記の大乗経典やその注釈をマスターした。
この集中的な学習のあいだ、ドルポパはなおも根本的な先生であるギドゥン・ジャムヤン・タクパから特別な教えを授かりつづけた。ドルポパの早期の進歩に関わったこの教師については、ほとんど何も知られていない。ギドゥンはロンパ・シェラブ・センゲ(Rongpa Sherab Senge 1251-1315)とチョクデンという訳経師のもとでカーラチャクラを学んだ。彼が重きを置くようになるタントラはこのカーラチャクラだった。
サキャで、ドルポパは無数の教えを授かった。そのなかでも、もっとも重要だと思われるのは、『ボーディサットヴァ三論(Sems ’grel skor gsum)』『仏性に関する十の経典(sNying po’i mdo)』『了義に関する五つの経典(Nges don mdo)』そして『マイトレーヤの五法(Byams chos)』だった。これらは後半生においてドルポパがつねに教えた経典や論考だった。彼は論議を呼んだ彼自身の理論のために、それらから引用することが多かったという。
ギドゥン自身は顕密すべての主題の申し分ない専門家だった。それは関連した瞑想についても同様のことが言えた。本物の教えであれば、偏見を介すことなく褒め称えることができた。とりわけ彼が賞賛を惜しまなかったのが、カーラチャクラとその瞑想の仕方だった。とくに彼は六支ヨーガ(シャダンガヨーガ)を崇めていたので、繰り返しそれを賞賛した。
このことからじつに多くの学問的な僧がタントラ的な瞑想を実践するようになった。教師のこの特別な瞑想法への傾斜は、若いドルポパに甚大な影響を与えた。ギドゥンからすべてのイニシエーション法、経典の解釈、カーラチャクラの口伝を授かり、ドルポパはこの伝統の専門家となった。そして実際何年間か、彼はギドゥンの助手を務めたほどだった。
この時期ドルポパはまた、ほかの偉大なる高僧、たとえばサキャ法王ダクニ・チェンポ・サンポ・ベル(Daknyi Chenpo Zangpo Bal 1262-1323)やギドゥンの叔父シャキャ・ブムなどから多くの教えやイニシエーションを授かった。またクンパン・タクパ・ギェルツェン(Kunpang Trakpa Gyaltsan 1263?-1347?)からは、プラジュニャーパーラミター(般若波羅蜜)やプラマーナ(論理的認識法)、アビダルマ(宇宙論および心理学)の経典などを学んだ。
しかしもっともドルポパにとって意義深かったのは、カルキン・プンダリーカ(Kalkin Pundarika)によるカーラチャクラ・タントラの注釈を学んだことだろう。ドルポパはすでにギドゥンのもとで学んでいたのだが。
サキャのシャルパ家(Sharpa)のふたりの高僧もドルポパにとっては重要な教師だった。それはドルポパにプラマーナを教えたセンゲ・ベル(Senge Bal)と道果、すなわちラムデ(Lam ’bras)を教えたクンガ・ソナム(Kunga Sonam)の兄弟だった。ラムデはヘーヴァジュラ(Hevajra)のタントラ群と並ぶサキャ派の重要な教法である。
このようにドルポパはマハーヤーナとヴァジュラヤーナの双方をサキャで集中的に学び、この分野の専門家になった。とくにプラジュニャーパーラミター、プラマーナ、アビダルマは深く理解した。
1313年、ドルポパ23歳のとき、家出をしたことを許してくれた両親が、寛容にも彼に喜捨をした。はじめての公衆を前にした講話のためである。ジェツン・ターラナータが記すところによると、デビューの準備をしている頃、ドルポパはダナクの寺院に行き、3ヶ月滞在し、さまざまな修練法のほか、『マイトレーヤの五論(Byams pa’i chos lnga)』を師リンチェン・イェシェ(Rinchen Yeshe)から学んだ。
これはとても興味深い。というのはターラナータの先任者であるジェツン・クンガ・ドルチョク(Jetsun Kunga Drolchok)によれば、ブドゥン・リンチェン・ドゥプ(Budon Rinchen Drup)は、ダナクのリンチェン・イェシェによって確立されたチベット哲学がドルポパによって高められたと感じていた、というのである。他空説のようなドルポパの後期の思想体系にこのような影響がありえるのか、はなはだ疑問ではあるが、それについては第2章で扱いたい。
サキャに戻ったとき、ドルポパは師のシャルパ・センゲ・ベルの招きによって、四つの大きなテーマによる講演を行うことになった。四つのテーマとは、プラジュニャーパーラミター、プラマーナ、アビダルマと僧院の規律である。
朝、プラジュニャーパーラミターとアビダルマを教え、正午の茶のあとプラマーナと規律を教えた。彼の講演は聴衆から絶賛を浴びたが、一部は一度に扱うにはテーマが多すぎるとして批判した。
この時点でドルポパはサキャ派における有望な若手学者だった。彼のサキャ派の学者としての将来は明るく輝いているように見えた。
1314年、24歳のドルポパはツァン地方やウー地方の寺院めぐりをはじめた。それは彼の学習の総仕上げであり、チベットのほかの地域のすぐれた学者たちと会うためだった。
ドルポパは多くの学者たちと討論を重ね、話を聞いた。学者たちもドルポパの頭のよさと学習能力には舌を巻いた。彼が将来偉大なる僧になることは約束されたようなものだった。
この時期彼は有名になり、遍智(クン・ケン Kun mkhyen)と称されるようになった。というのも彼はシャタサーハスリカー・プラジュニャーパーラミター(Satasahasrika prajnaparamita)、すなわち般若波羅蜜十万頌をマスターしていたからである。ドルポパは終生この遍智という名で呼ばれることになった。
この旅のあいだにドルポパはチュールン寺院の住持ソナム・タクパ(Sonam Trakpa 1273-1352)から受戒を授かった。ソナム・タクパは若い頃ブドゥン・リンチェン・ドゥプ(Budon Rinchen Drup)から受戒を授かり、のちにはサキャ派大師ラマ・ダンパ・ソナム・ギャルツェン(Lama Dampa Sonam Gyaltsen)、その長男のドゥンユ・ギェルツェン(Donyo Gyaltsen)に受戒を与えていた。
ドルポパはまたそのとき、終生屠られた肉はたべないことを誓った。
ドルポパは旅のあいだに、カギュ派やニンマ派の教えを学んだ。断(チュー gCod)や苦悩の沈静(シジェ Zhi byed)も含まれていた。これらの教えの実践をしているあいだにも、彼はツァン地方やウー地方を旅していた。
彼はラサへ行き、チベットでもっとも聖なる寺、ジョカンに詣でて、祈りを捧げた。彼は悟りへの覚醒について書く一方で、ジョウォ仏への讃歌を作った。彼はまたジョカンでさまざまな供え物をしたが、それはそれ以降慣例となった。
おそらく旅の帰途、ツァン地方を通るとき、ドルポパはトプ(Trophu)の寺院に立ち寄り、供え物をし、大きな弥勒仏と大きなストゥーパの前で祈りを捧げた。これらはトプの訳経師ジャムパ・ベル(Jampa Bal)が建造したものだった。大きなストゥーパを目にして、ドルポパはこのような大きなストゥーパを、いやもっと大きなストゥーパを建てたいと願った。この願いはそう遠くない将来にかなうことになる。
ターラナータによると、この旅の終わりにドルポパは故郷のドルポに戻り、家族のもとで一年間過ごしたようである。それから彼はサキャにもどり、多くのイニシエーションと精神的な教えを与えた。それからヘーヴァジュラの隠棲を行い、ヘーヴァジュラと8人の女神のヴィジョンを得た。
29歳になる1321年までに彼は30人以上の教師のもとで学んだ。このなかでもっとも有名なギドゥン・ジャムヤン・タクパ・ギャルツェン(Gyidon Jamyang Trakpa Gyaltsen)は70ものイニシエーションと教えを授けたという。
つづく ⇒ 3 チョナン寺へ