ドルポから来たブッダ

サイラス・スターンズ 宮本神酒男訳

 

3 チョナン寺へ

 1321年、29歳のとき、ドルポパははじめてチョナン寺を訪ねた。のち彼はしばしば弟子や伝記作家のレイ・ギャルツェン(Lhey Gyaltsen)にこの訪問のときの経験について語った。

 

<どんなに多くの学者が集まろうと、私は引け目を感じたことはなかった。私の自信は増すばかりだった。ところがはじめてチョナンに来たとき、すべての男も女も真剣に瞑想をしていて、瞑想によって真実性を理解しているのを見て、どうしようもなく引け目を感じた。彼らには信仰心がわきあがり、純粋なヴィジョンが現れているようだった。>

 

 ジェツン・ターラナータによると、ドルポパはそれから中央のウー地方へ旅をした。ツルプ寺で彼は第3代カルマ派のランジュン・ドルジェ(Rangjung Dorje)に会い、仏教の教義について広く論じあった。

チョナンでのドルポパの初期の活動は、あきらかに触媒の役目を持っていた。1322年、30歳のドルポパはサキャを去り、師ヨンデン・ギャンツォ(Yonden Gyantso 1260-1327)と会うためチョナンにもどった。そして彼はカーラチャクラ・タントラと多くの究境の完成、すなわち六支ヨーガの伝授を求めた。

 ドルポパはそのときすでに彼自身大師として認められ、チョナンへ行くときも8人の侍従僧を伴うほどだった。サキャでは、ドルポパがチョナンに着く前夜、彼の師匠であるクンパン・タクパ・ギェルツェンは多くの僧に囲まれた観音菩薩が法の光に照らされながらチョナンに来る夢を見たという。

 またおなじ夜チョナンで、大師ヨンデン・ギャンツォはシャンバラの国王カルキン・プンダリーカがチョナンで仏法の勝利の旗を掲げる夢を見たという。

 この吉祥の夢を見て、ヨンデン・ギャンツォはドルポパに完全なカーラチャクラのイニシエーションを与える決心をした。また菩薩三論、六支ヨーガの深奥なことば(zab khrid)を伝えることにした。彼はまたカチュー・デデン(Khacho Deden)の庵室の使用を提案し、ドルポパはすぐにそれを受け入れ、瞑想の修行に入った。

 この瞑想修行のすぐあと、将来のドルポパの弟子で伝記作家となるクンパン・チューダク・バルサンがはじめてズム・チュールン(Dzum Cholung)の寺院でドルポパに会った。ここでドルポパはゾクチェンとナーローパの六法(na ro chos drug)の教えを受けていた。

 クンパンは即座にドルポパが特別であることがわかった。チョナンにもどると彼はドルポパをギプク(Gyiphuk)の隠遁所に招き、さまざまな教え、とくにカーラチャクラを伝授するよう要請した。彼は翌年ずっとドルポパのそばにとどまり、個人的な侍従のようになった。

 その年の春、師ヨンデン・ギャンツォはドルポパにチャナン寺で講義をするよう説得し、密教の教え、すなわち道果(ラムデ)や、グヒヤサマージャ・タントラやチャクラサムバラ・タントラのパンチャクラマ、苦悩の軽減(シジェ)、断(チュー・コル)などに集中するよう願った。

 同時にサキャのクーン家(Khon)のティシュリ・クンガ・ギャルツェン(Tishri Kunga Gyaltsen 1310-1358)からも招かれ、カーラチャクラのイニシエーションを行うよう申し入れがあった。

 チョナンにもどり、ドルポパはカチュー・デデンで、新たな厳しい一年間の六支ヨーガの瞑想に入った。この瞑想中、彼は六支のうちの最初の四支を理解きわめた。クンパンはこの瞑想の結果をつぎのように述べる。

 

<個人的な撤退(プラティヤーハーラ pratyahara)と精神的安定(ディヤーナ dhyana)を基本として、師は数え切れないブッダと浄土を見ることができた。呼吸のコントロール(プラーナーヤーマ pranayama)と保持力(ダーラナー dharana)を基本として、師は祝福すべき精神的ぬくもりによって格別な経験と覚醒を得ることができた>

 

 他空観(Zhentong)の考えが最初にドルポパの心に現れたのは、この瞑想中のことだった。しかしジェツン・ターラナータのカチュー・デデンの隠棲所への指南書によれば、ドルポパは六支ヨーガのうち最初の三支をきわめたにすぎない。

 瞑想をするとき、すべての対象から感覚器官を離すためには、完全な暗闇が必要だった。ドルポパが庵室(ムン・カン mun khang)を使ったのはまちがいない。ほかの著書でターラナータはこの環境について述べている。

 

[ドルポパは]六支ヨーガの教えを経験に変えた。特別な講義のとき以外は、ドルポパはカチュー・デデンの隠棲所にこもり、だれとも会わなかった。ドルポパがプラティヤーハーラとディヤーナの経験と覚醒を得る前、師(ヨンデン・ギャンツォ)は「急いで教えを与えなければならない」と述べたが、ドルポパは慎重に導いてくれるよう頼んだ。瞑想するとき、ドルポパはカーラチャクラ・タントラが説明するように、プラーナーヤーマのしるしを得ることができた>

 

 のちにおなじ著書のなかでターラナータは意味深いことを述べている。

 

<カチュー・デデンにいるとき、他空観という特別な考えおよび瞑想法を得たにもかかわらず、ドルポパは数年間ものあいだ、そのことをだれにも話さなかった>

 

 この瞑想修行はドルポパの精神的発展において中核を成すものだった。しかしながら5年以上ものあいだ、彼は他空観について人と話すことはなかったのだ。

 1325年、瞑想修行が終わると、師ヨンデン・ギャンツォはドルポパに、法統を継承し、チョナン寺の伝法位に立つよう促す。このことは、ドルポパの希望とは相反するものだった。ドルポパは、寺院の高位につくことで派生する責任や規則に縛られず、人里離れた隠棲所で瞑想に集中したかったのだ。

 1326年春、決心する前、彼はラサへ行った。ジョカン寺を訪ね、観音菩薩像に、さらなる瞑想に励むべきか、チョナン寺のトップに立つべきか、そのどちらが仏教に貢献することになるかを聞こうと考えたのである。

奇跡的に、菩薩像の胸から蓮の花飾りのかたちをした光線が射した。そして像はチャナン寺の伝法位に就き、仏法に寄与せよと歌ったのである。

 1326年の秋、ドルポパはチョナンにもどった。ここにドルポパは正式にヨンデン・ギャンツォの後継者として伝法位に就いた。これ以降彼はチョナン寺で前任者の生活様式を引き継いだ。夏と冬のみは瞑想修行を行った。そして秋と春には僧らに教えを与えた。

 ドルポパがとくに教えたのは、カーラチャクラ・タントラ、三菩薩釈(Sems ’grel skor gsum)、必要三義(sNying po’i mdo)、了義の五つの経典(Nges don mdo)、マイトレーヤの五論(Byams chos)、ナーガールジュナのいくつかの著作、さまざまな密教の教えなのであった。

 興味深いことに、カルキン・プンダリーカによるカーラチャクラの注釈とあわせるように教えたという。

 

つづく ⇒ 4 大仏塔建造と他性空