ドルポから来たブッダ

サイラス・スターンズ 宮本神酒男訳

 

4 大仏塔建造と他性空

 何年も前、チョナン寺の創健者クンパン・トゥクジェ・ツォンドゥ(Kunpang Tukje Tsondru 1243-1313)は弟子のヨンデン・ギャンツォに語った。

 

<この私の隠棲所に、息子よりすぐれた孫が、そして孫よりすぐれたひ孫が来るであろう。将来ひ孫はサンデン(Zangden)上部で法を教え、サンデン下部に大きなストゥーパを建てるであろう>

 

 彼の師であるヨンデン・ギャンツォが1327年に逝去したとき、ドルポパはトプ(Trophu)の大ストゥーパの前で祈った祈祷のことばで満たした記念碑塔を建てた。このストゥーパはもちろん師の恩への感謝の気持ちを表したものである。

 それからまた彼はこのストゥーパは、勉学や黙想、瞑想などの機会に恵まれない人々の崇拝の対象となるべきだと感じていた。そうすることによって人々は徳を積むことができるだろう。

 大きなストゥーパは1329年春、サンデン上部に建てられたが、すぐに倒れてしまった。1330年春、サンデン下部に巨大ストゥーパを建てる基礎プランが提出された。ドルポパのまわりのだれもが、ストゥーパがあまりに大きすぎ、この野心的すぎるプロジェクトは失敗に帰するだろうと考えた。

 彼らは土と石の廃墟だけが残り、他者からの嘲りのもとを作るだけではないかと本気で心配した。ドルポパはつぎのようにこたえた。

 

<私がはじめて伝法の旅に出たとき、トプ訳経師のストゥーパを見た。それを見ると、おびただしい祈りのことばが出てきて、より強い信仰心を持つようになったのだ。またもし巨大な仏像やストゥーパを建てたなら、その人の徳と智慧は成就されると、数え切れないくらいの顕密経典が述べている。世界の本性を想念するのは、徳の基礎中の基礎である。もし生きるものの条件を考えるなら、私はそれらにたいし無限の慈悲の心をもってしまう。疑いなく、このストゥーパを見、聞き、触るものはみな解放されるであろう。自由の種が植えられ、他者への厖大な恩恵が生まれるだろう。それに反対する人々はあとで後悔することになるだろう>

 

 ストゥーパの建築は信じられないほど活気あふれる雰囲気のなかで進んだ。たくさんの熟練した工匠や労働者が偉大なる事業に貢献しようと、チベット中から集まってきた。建築資材や食べ物もあらゆる方向から集まってきた。台所や休憩室が何百人もの労働者のために用意された。彼らはマニのマントラを唱え、グルたちの名を呼びながら肉体を動かした。

ドルポパ自身も土や石を運んだり、ときには壁を作る作業に加わったりした。彼はストゥーパの西側に傾斜路を作らせ、ロバが塔の本体に土砂を運びやすいようにした。南側と北側にはもっと長い傾斜路を作らせた。それによってたくさんの資材を運び入れることができた。工匠たちは何度もストゥーパの周囲をまわったが、すこしでも列を乱すと崩壊し、また建て直さねばならなかった。

 ドルポパのプロジェクトは広く知れ渡り、チベット中から金、銀、銅、鉄、絹、茶、布、薬などが寄進された。

 この頃までにドルポパは数多くの行者、学者、訳経師を集めていた。たとえばクンパン・チュータク・バルサン(Kunpang chotrak Balzang)、マティ・パンチェン・ジャムヤン・ロドゥ(Mati Panchen Jamyang Lodro 1294-1376)、ロツァワ・ロド・ベル(Lotsawa Lodro Bal 1299-1353)、そして偉大なる座主チョレー・ナムギェル(Choley Namgyal 1306-1386)らである。

 彼らはみなストゥーパの建設に加わった。ニャウン・クンガ・ベル(1285-1379)もおそらく参加していた。というのもストゥーパが奉献される1333年より前にチョナンにおいて、ドルポパの『仏教総釈(bsTan pa spyi ’grel)』のための序論を書き上げているからである。

 ストゥーパの建築という肉体労働によって、ブッダの教えの究極的意味についての講義が生まれたといえるだろう。その様子をつぶさに見たクンパンによると、ストゥーパの真ん中に長い柱が置かれた1330年冬に先立ち、ドルポパは集まった聴衆に向かって『三菩薩釈』を講義した。この機会に、ドルポパははじめて、自性の空(rang stong)の相対性と他性の空(gzhan stong)の絶対性について明確に区別した。

 しかしながらターラナータによれば、ストゥーパの基礎が完成し、サンデン上部で伝法位に就いたあと、ドルポパははじめて十人ほどの聴衆に他空観を説いたという。それは『仏性についての十の経典』を解釈する過程であきらかにしたものであった。

 いずれにしてもストゥーパを建てる最中にドルポパは悟りに達し、はじめて他性空やそれに関連する考えを公にしたのである。

 チョナンのストゥーパは、ヴィマラプラバー(Vimalaprabha)の描写に沿って注意深く建てられた。つまりブッダがはじめてカーラチャクラを教えた月の御殿の光栄のストゥーパ(dpal ldan rgyu skar gyi mchod ldan)とおなじものが造られたのである。

 ドルポパによれば、チベットでは知られていなかった他性の空の絶対性を悟ることができたのは、彼の師たち慈悲によるところが大きいという。また彼が三宝とその象徴するものに身を捧げたからであり、仏法の恩恵のために彼がすべきことをしてきたからである。

 伝記作家のレー・ギャルツェンによれば、ドルポパが絶対的真実性を悟ったのは、師、ブッダ、菩薩、そして偉大なるストゥーパ(sku ’bum chen po)といった驚くべき三宝の建設がもたらしたのである。

 他性空の悟り、カーラチャクラ・タントラの教え、そしてチョナン・ストゥーパのあきらかな関連性について、ドルポパはつぎのように歌っている。

 

ああ、私の幸福の取り分はすくないけれど

この発見は幸福以外の何者でもない

 

この発見が愚か者にもたらされるなんて

カルキン帝の祝福だろうか

 

わが肉体がカラーパ(Kalapa)の庭に着いたのではないけれど

カルキン帝がわが心に入ったということなのか

 

わが知性は三宝のなかで洗練されていないけど

須弥山を建てたことにより海が迸り出た

 

師、ブッダ、カルキンに敬礼します

その本質は高貴な者にも理解するのが難しい。

ストゥーパも同様だろう

 

 巨大なストゥーパの建造に関して言われた「須弥山(メール山)を建てる」と、祝福と覚醒した力から流れる「海」とは、ドルポパの代表作『了義の海:山の法(ダルマ)』(Ri chos nges don rgya mtsho)のことである。

 日時は明記されていないが、ドルポパの『仏教総釈』の序論に言及されていることから、この論文は1333年11月30日のストゥーパ奉献よりも前に完成していたとみられる。序論は1330年の5月か6月の30日に弟子ニャオン・クンガ・ベルによって書き上げられているからだ。

 このように偉大なるモニュメントの建造は、ドルポパにとって、内なるプロセスについて深く考えさせる契機となった。これ以降ドルポパは無数の意味深い作品を著わしたのだった。

つづく ⇒ 5 時代の寵児となった他性空