ドルポから来たブッダ

サイラス・スターンズ 宮本神酒男訳

 

5 時代の寵児となった他性空

 最初の「他性空宣言」のあと、ドルポパはそれを説明するためにいくつもの論文を書いた。しかしターラナータによれば、これらの論文が出回ったものの、ドルポパの使った一般的でない仏教用語(chos skad)のため、多くの学者は理解することができなかったという。

 容易に慣れたカテゴリーに分けることのできない著作物を目の当たりにして、学者たちは疑いなく従来の自信を揺るがされていた。とはいえターラナータの別の書によると、ドルポパが「他性空宣言」をしたとき、すべての人が幸運に感じ、勇気づけられ、喜んだという。

 サキャ派、ゲルク派、カダム派、シャル派、ボドン派の支持者が他空観の哲学(grub mtha’)について聞き、心をつかまれる(snying gas)、あるいは魂を揺さぶられる(klad pa ’gems pa)のは、さほどあとの話ではなかった。

 およそ三百年後、サキャ派高僧ジャムゴン・アメイ・シャプ(Jamgon Amey Zhap 1597-1659)は、ドルポパがサキャ派開祖の教えと矛盾する他空観を教え始めたとき、裏切られたと感じたサキャ派の学者たちは激怒したと主張した。

 思い起こさなければならないのは、チョナンはサキャ派の支部のように考えられていた点である。ドルポパはサキャ派の僧として教育を受け、この時点までサキャ派の伝統的な教えを受け入れていたのだ。

 アメイ・シャプはすべてのサキャ派の学者がドルポパを拒絶したと主張するが、あきらかに誇張である。彼自身の祖先であるティシュリ・クンガ・ギェルツェン(Tishri Kunga Gyaltsen)、彼のふたりの息子ダ・エン・チューギ・ギェルツェン(Da En Chogyi Gyaltsen 1332-1359)とダ・エン・ロド・ギェルツェン(Da En Lodro Gyaltsen 1332-1364)、ドンユ・ギェルツェン(Donyo Gyaltsen)と彼の兄弟ラマ・ダムパ・ソナム・ギェルツェン(Lama Dampa Sonam Gyaltsen)はみなドルポパに教えを説くよう要請したのだから。

 17世紀のチョナン派のリーダーであるターラナータによれば、ジョナン寺に来てドルポパと論じ合った人々はみなその理論に確信をいだき、ドルポパを信仰するようになったという。

 いっぽう反対意見や拒絶を書いて送った人々は、ドルポパからの申し分ない返答を受け取り、理解を示したという。

 非常にはっきりした例が、ドルポパとプトゥン両者とともに学んだバラワ・ギャルツェン・バルサン(Barawa Gyaltsen Balzang 1310-1391)である。バラワは、ドルポパが「世界の基礎の智慧(kun gzhi ye shes)」と「世界の基礎の意識(kun gzhi rnam shes)」とを区別している点について、いくつか疑問を持った。そしてそれらを書いてドルポパと弟子たちに送ったのである。彼は弟子たちから返答を受け取ったが、疑問は解けなかった。

 のちにバルサンはドルポパ自身から返答を受けたが、それらは満足いくものだったものの、弟子たちの意見とは異なっていた。

 最終的にバルサンはサキャ・チュサンの隠棲所でドルポパと面会した。ドルポパの説明は書面に書かれたものとおなじだった。バルサンはドルポパの教えの重要性をはじめて理解した。

 このようにさまざまな学者と論議を重ね、ドルポパはついに彼の代表作、『了義の海:山の法(Ri chos nges don rgya mtsho)』を著した。

 

つづく ⇒ 6 カーラチャクラのチョナン派版解釈i