ドルポから来たブッダ

サイラス・スターンズ 宮本神酒男訳

 

6 カーラチャクラのチョナン派版解釈

 1334年、チョナン派の隠棲所デワチェンに滞在中、ドルポパは弟子のロツァワ・ロド・ベルとマティ・パンチェン・ジャムヤン・ロドゥ・ギャルツェンにカーラチャクラ・タントラとその釈論ヴィマラプラバーの新訳に着手するよう命じた。

 弟子にして伝記作家クンパン・チュータク・バルサンの要望に応じて、ドルポパ自身要点の アウトライン(sa bcad)とヴィマラプラバーへの注釈(mchan bu)をまとめた。しかし残念ながらこれらは最近出版されたドルポパ全集には含まれていない。

 チョナン派新訳(jo nang gsar ’gyur)のいきさつに関するより重要な情報は、早期のションドゥン・ドルジェ・ギャルツェンのチョナン派訳への注釈から読み取ることができる。

 

<のち偉大にして卓越した大師、一切智者法主ダルマキールティシュリーバドラ(Dharmakirtisribhadra)、シュリー・カーラチャクラの成就者は注意深くこのタントラの意味をお考えになった。命に促されて、教えにしたがって、ロドゥ・ギャルツェンとロドゥ・バルサンポ、すなわち偉大な学者スティラマティ(Sthiramati)にしたがって正確に翻訳することのできる翻訳僧は、多くのインドのタントラや釈論を鑑み、翻訳し、校正し、完全翻訳版を完成することができた>

 

 この改訳版が完成して何年かのち、シェラブ・リンチェンという名の訳経師がドルポパにチベットにおけるカーラチャクラの伝統についていくつかの質問をした。ドルポパはチョナン派の翻訳に関してつぎのように述べた。

 

<ふたりのロドゥという名の訳経師は翻訳を一新するとともに、すばらしかったものにさらにすばらしいものを付け加えた。たびたびの詳細な解釈、研究、瞑想によって翻訳を完成し、秘密の教えだけでなく、タントラの注釈の深い意図をも発見するにいたった。そしてすべての偉大な師、勝利者、精神的息子たちのストゥーパの建造と付加から、究極の奥深いことばがあきらかになった。深遠なタントラの秘密のことばが完全にあきらかになった>

 

 カーラチャクラ・タントラとその釈論のチョナン派版翻訳についての興味深い論議は、ドルポパの後継者でチャナン寺座主だったチョナン・クンガ・ドルチョク(Jonang Kunga Drolchok)によってなされた。医師の長でカーラチャクラの成就者、チャン地方の法王、リクデン・ナムギェル・タクサン(Rikden Namgyal Trakzang 1395-1475)の自伝のなかで、クンガ・ドルチョクはドルポパに命じられた改訂版に関するチャムリン・パチェン・ソナム・ナムギェル(Chamling Panchen Sonam Namgyal)の意見を記録していた。

 

<一切智者プトゥンもまた(カーラチャクラ・タントラとヴィマラプラバーの)ション(Shong)版訳を解釈のための根本テキストとし、「修正すべき30の点がある」と述べた。したがってドルポから来た一切智者のブッダもまたふたりの翻訳官に命じ、彼らが新しい翻訳に取り組んでいるとき、早期にプトゥンによってなされた解釈は遅れをとってしまった。彼らは確信をもっていたので、了義のことばを完成することができた。

 ドル(Dol)版注釈によって細部を確定したあと、ドルポパは本質的な意味に関する釈論に取り組み、馬車方式を用いてあきらかにした。『了義の海』(Nges don rgya mtsho)、『仏教総釈』(bsTan pa spyi ’grel)、『第四集結』(bKa’ bsdu bzhi pa)などの著作がそうである。

 私は確信をもって言う。聖なるカーラチャクラ・タントラに関してこれ以上の著作は、シャンバラの北部にいたるまで、ないだろう。仏法に関する一般的なことがらは、プトゥンがまさっているかもしれないが、カーラチャクラの核心となると、ドルポパの慈雨に対抗することはできないのだ>

 

 チョナン派版新訳は、たしかに他空観や教義の解釈と実践を確立し、広めるための重要な部分となった。カーラチャクラ・タントラとヴィマラプラバーはドルポパの革新的な教えの究極的な基礎となった。バイリンガルの弟子たちと論議を重ねることによって、ションドゥン・ドルジェ・ギャルツェン(Shongdon Dorje Gyaltsan)によって改訂されたド・ロツァワ・シェラブ・タク(Dro Lotsawa Sherab Trak)の初期の翻訳こそが深遠な意味(ニータールタ nitartha, nges don)の理解をさまたげていたことがわかってきた。

 ドルポパは1333年、ストゥーパの建造を終えたところだった。彼の代表的な著作『了義の海:山の法』はおそらく完成したばかりである。ドルポパ自身サンスクリットに精通していたが、まわりにはすぐれた訳経師がたくさんいた。マティ・パンチェン、ロツァワ・ロドゥ・ペー、クンパン・チュータク・バルサン、ディクン・ロツァワ・マニカシュリーといった訳経師はすべて、六支ヨーガの実践者か、カーラチャクラの学者だった。

 チベットでもっとも影響力のあるサンスクリット文法学者パン・ロツァワ・ロドゥ・デンパ(Pang Lotsawa Lodro Denpa 1276-1342)もまたドルポパに賛辞を惜しまなかった。

 チベットの歴史上、カーラチャクラの二大マスターであるドルポパとプトゥンが同時代人であり、ともにツァン地方に住み、共通の師、共通の弟子を持つというのは驚くべきことである。

 1334年のチョナン派の新訳の前に、プトゥンはションドゥン訳のカーラチャクラとヴィマラプラバーに彼自身の詳細な解釈をつけていた。そして毎年経典と解釈を講義していたのだ。

 ドルポパはもっと明確に自分なりの視点を打ち出し、注釈をまとめようとしていた。ヴィマラプラバーについてもその注釈と梗概を著すその動機について語っている。

 

<了義の本質がカーラチャクラの論釈のなかに見出されるので、それは驚くほどわかりやすい。間違いを防ぐため、私は他の経典と同様、ヴィマラプラバーの根本的な論文に梗概と注釈を加えたい>

 

 ドルポパのヴィマラプラバーへの注釈は、レー・ギャルツェンによって編集された著作リストのなかでも最初に挙げられるほど本質的である。カーラチャクラに関する38の論述のなかでも、もっとも重要なのである。

 ドルポパは彼のヴィマラプラバーへの注釈は並外れた著作と感じていたはずだ。つぎに引用する彼のことばからは、注釈よりも彼自身のことがよくわかる。

 

<カーラチャクラ・タントラへの論釈に彼自身の注釈を加えながら、法主ドルポパは叫んだ。「ああ、これはいったい誰の作品なのか。信じられないほどすばらしい!」

 手のひらを何度もあわせながら、彼は言った。「このように了義を理解するたび、私とは何者だろうかと思ってしまう」>

 

 たんなる傲慢ではない。ドルポパは六支ヨーガ、つまりカーラチャクラの究竟次第の成就者だった。彼はシャンバラのカルキン帝に触発され、ヴィマラプラバーの著者であるシャンバラ皇帝カルキン・プンダリーカの転生とみなされていた。ドルポパ自身、自分はプンダリーカの生まれ変わりだと考えていた。

つづく ⇒ 7 隠棲と講義の日々