ドルポから来たブッダ

サイラス・スターンズ 宮本神酒男訳

 

8 元朝皇帝からの招待

 ドルポパ52歳、ロツァワ・ロドゥ・ペーがチョナン寺の座主について7年、猿年(1344年)の9月、モンゴル帝国の特使ザンバラ・トゥシュリ(Dzambhala Tushri)とバテ・ツェ・エン(Bhate Tshe En)が元朝皇帝トゴン・テムル(Toghon Temur)の勅令を持ってツァン地方にやってきた。ドルポパとプトゥンを中国に招くためである。

 ドルポパもプトゥンも朝廷の招待には応じず、隔絶した場所で禅定に入った。レー・ギャルツェンによれば、トゴン・テムルは激しく不愉快に感じ、ドルポパはなた招待されるのではないかと恐れた。そのような事態を避けるため、彼はそのあとの4年間、場所を変えながら隠棲した。その期間の終わりごろ、彼がチベットに残ってもよろしいという書簡が朝廷から届いた。書簡はこの国にとどまり、仏法のために尽くすようにということばが添えられていた。

 レー・ギャルツェンはこれらのできごとを率直に描いているが、クンパンがおなじことを語ると印象が変わる。実際彼の描いたできごとが1344年の招待のことなのか、それよりもあとの中国皇帝からの知られざる招待なのか、判然としない。

このより具体的な描写によると、著名な中国の学者ザラ・カラ(Dzala Kara)はラサ滞在中にドルポパの名を聞いたという。

 中国に戻ったザラ・カラは、皇帝ジャンペ・コルロ(Jampey Khorlo)によってケシャムカラ(Keshamkara)朝廷に召され、ウ・ツァン地方でだれがもっとも有名な学者かと聞かれた。

 ザラ・カラはドルポパを賞賛した。皇帝はザラ・カラ、ロポン・ツァカラ(Lopon Tsakura)、ザラ・カラに率いられた50人の人足、ランチェン・パドマ(Langchen Padma)ら4人の飛脚を含む大規模な一団に豪勢な贈り物を持たせ、ドルポパを中国に招くべくチベットにひそかに派遣した。

 一行がチョナンに着くと、ドルポパはザラ・カラと中国語で話し、最終的に中国へ行くことを承諾した。彼は一行に三ヵ月後、ラサで再会することを約束した。そして中国人は誰にも知られずにラサに行った。

 このバージョンによると、猿年(おそらく1344年)にドルポパは高弟クンパン・チュータク・ベル、ササン・マティ・パンチェン、チャンツェ・ロツァワ、マニカ・シュリに、彼とともにラサを訪ね、有名なジョウォ仏とシャーキャムニ仏を礼拝(らいはい)するよう命じた。ドルポパはロツァワ・ロドゥ・ベルに彼の帰還までチョナン寺の座主を代行するよう頼み、白檀の馬車に乗ってラサへ向かった。

 ラサで聖なる仏像に祈りを捧げると、帰ってきた答えは、もしドルポパが中国へ行くと、たいへんな災害がもたらされるということだった。しかし中国人への慈愛がなく、彼は中国に行く決心をした。この時期高弟リンツルワ(Rintsulwa 1297-1368)はすばらしいドルポパの像を造った。ドルポパ自身喜んで聖化の儀礼を行った。

 このあと物語は延々とつづくのだが、デパ・ツェニ(Depa Tsenyi)とチャンパ(Changpa)王が、ドルポパが中国軍に奪われないよう軍を動かすところがもっとも盛り上がる場面である。

 最終的にドルポパは非仏教徒と仏教徒、両者の哲学的見解に関して、長くて興味深い韻文の教戒を与えるべく中国に行く決心をする。マンズ・ギャルポ・チェンポ(Mandzu Gyalpo Chenpo)、すなわち偉大なるマンジュシュリー(文殊)の王である皇帝を啓発するのが第一の目的だった。のちがっかりした中国人に憐れみを感じ、ドルポパは魔術的な手段によって宮廷を訪ね、皇帝を喜ばしたという。

 この話はにわかには信じがたいが、詳細はのちに論ずることにしよう。どうやら実際にあった1344年の皇帝からの招待と、1358年から1360年にかけてのウー地方への旅がいっしょになり、さらに出所不明のあまたのエピソードが加わり、話が膨らんだもののようだ。

 たとえばドルポパが乗った馬車が泥の中で動けなくなり、中国の怪力男でさえ動かせなかったというエピソードがあるが、これは中国の公主がジョウォ仏を運ぼうとしたときラサ郊外の砂地で動けなくなり中国の大男でさえ動かせなかったという、マニカブン中のエピソードから取られたものである。

つづく ⇒ 9 チョナン寺を辞し、ラサへ旅立つ