ドルポから来たブッダ

サイラス・スターンズ 宮本神酒男訳

 

9 チョナン寺を辞し、ラサへ旅立つ

 木の馬の年(1354年)、ロツァワ・ロドゥ・ベルが逝去した。彼は17年間もチョナン寺の伝法位にあった。ドルポパはチョナンにもどり、葬送儀礼を取り仕切ったあと、後継にチョレー・ナムギェル(Choley Namgyal 1306-1386)を指名した。彼は4年間この地位にとどまる。

 チョレー・ナムギェルは同じ年にすでに、チャン(Chamg)の領主ダイ・エン・ナムカ・デンパ(Dai En Namhka Denpa 1316-?)の助けで、ドルポパによって創建されていたか、拡張されたンガムリン(Ngamring)学院の法主を務めていた。

 それに先立つ何年ものあいだ、ドルポパはチベットの知識層、政界の著名人に教えを広めていた。そのなかにはサキャ派のジトク系(Zhitok)の大師クンパン(Kunpang ?-1357)、知事(dpon chen)のギャルサン(Gyalzang ?-1357)、チャンパ・シッディ(Changpa Siddhi)、ヤクデ・パンチェン(Yakde Panchen 1299-1378)らが含まれていた。

 チョレー・ナムギェルがチョナン寺の伝法位にある間、ドルポパはほとんどジョナン地区にいた。そのときこういうことがあった。年をとったので、最後の教えを受けたい者はチョナン寺に集まるようにということばをドルポパが発したのだ。

 何百人もの集まった聴衆のなかには、クンパン・チュータク・バルサン、シャルパ・リンチェン・ギャルツェン(Sharpa Rinchen Gyarutsen 1306?-1355?)、マティ・パンチェン・ロドゥ・ギャルツェン、偉大なる座主チョレー・ナムギェル、ネドゥク寺(Nedruk)座主で成就者のギャルツェン・ジュンネー(Gyaltsen Jungne)、カーラチャクラの成就者ドルジェ・ニンポ(Dorje Nyingpo)の姿があった。

 しばらくしてドルポパは、カダム派の古刹ナルタン寺で教えるべく、座主チムドゥン・ロサン・タクパ(Chimdon Lozang Trakpa)に招かれた。

 彼は弁舌巧みな人々に、ふたつの真実の違いについて説明した。すなわち本物の専門家は、相対的な「非−存在」を「存在」としたり、絶対的な「存在」を「非−存在」としたりすることに執着しないと。極端を超えた中間にあるというのだ。

 1358年末までにチョレー・ナムギェルは、チョナン寺の座主であると同時にンガムリン学院の長であることを重く感じ始めていた。ドルポパの許可を得て、彼は両方の職を同時に辞した。ドルポパのもうひとりの高弟ゴンチョク・ギャルツェンがチョナン寺の座主を継いだのはブタの年(1359年)の1月だった。

 支配者であるツァンのサキャ派と新興勢力のウーのパクモドゥ派の長引く争いが、チベットの仏教共同体、寺社にダメージを与え、ドルポパも次第にうとましく感じるようになった。

 彼は唯一それから逃れる方法はラサへ行き、ジョウォ仏に祈ることだと考えた。この仏像に祈るのは、ブッダ本人に祈るのとおなじだと彼は考えたのだった。

 ドルポパはすでに66歳であり、晩年は生きるのが重苦しい(sku sha lcis pa)と感じるようになっていたので、ラサへの旅はかなり困難だった。彼の体躯は通常人の倍もあり(phal pa nyis ’gyur tsam gyis sku che)その存在感は数百人の聴衆でさえ魅了した。ドルポパの前にやってくると、いかにも重要そうで威厳のある人々も、子どもにかえったかのように見えた。

 地の犬の年(1358年)の5月16日、彼は舟に乗ってツァンポ川を下り、止まっては川岸で聴衆に講義をした。彼は約一年、ネーサル(Neysar)とチュールン(Cholung)に滞在し、講義を行った。サキャ派の15代目ラマ・ダムパ・ソナム・ギャルツェン(Lama Dampa Sonam Gyaltsen)はチューリンでドルポパに会い、教えを受けると、『第四集結 』と論注の編集を依頼した。

 さらにいくつかの招待状がウー地方から届いた。とくにツァルパ(Tshalpa)の首長とドルポパの高弟タンポチェ(Tangpoche)やブムチェンポ(Bumchenpo)から招きがあり、地のブタの年(1359年)の4月、彼は御輿に乗って旅に出た。

 ゆっくりとツァン地方からウー地方へ向かう沿道で、ドルポパは熱烈に歓迎され、さまざまな寺院を訪ねた。聴衆はときには集まりすぎ、その末端では十分に声が聞き取れなかったが、口から口へと伝えられ、届けられた。

 1354年以来高弟リンツルワが座主を勤めていたドゥルン・ナムギェル寺(Dolung Namgyel)で講義したとき、数百人の聴衆の先頭でドゥエンシャ・ションヌ・ギャルツェン(Duensha Zhonnu Gyaltsen)と家臣たちは教えを受けた。

 

つづく ⇒ 10 中央チベットの熱烈ドルポパ・ブーム