ドルポから来たブッダ

サイラス・スターンズ 宮本神酒男訳

 

10 中央チベットの熱烈ドルポパ・ブーム

 おなじ年の6月末、ドルポパはようやくラサに着いた。彼はチョウォ仏とシャカムニ像を金めっきするために金を、そしてバターランプのために三百貫のバターを献納した。彼はマルポリ(Marpori)、タクラ・ルプク(Traklha Luphuk)、ラモチェ(Ramoche)におよそ6ヶ月滞在した。

 ドルポパはとくに、各地からやってきた無数の教師たちに六支ヨーガの奥深い教えを授けた。これは信じがたい光景だった。あまりに多くの聴衆が仏法について知りたがり、建物に入りきれないほどだった。ある人々は聞くことすらできず、またあとからやってきた人々は建物の中に入れさせてもらえなかった。建物の中に入っても、講堂に入れない人々もいた。

 あまりに多くの教えを要求されたのと、あまりに多くの奇妙な体験(lus nyams)をしたため、ドルポパはラモチェ・カンサル(Ramoche Khangsar)を出て、ショル(Zhol)に滞在しなければならなかった。あまりに多くの人が教えを聞きたがったため、扉は壊れ、階段が崩れ落ちた。廊下の端には恐ろしい形相の犬がたくさんつながれていたが、押し寄せる人々に恐れをなしたほどだった。

 あるときドルポパは、近くのツァル・グンタン寺(Tshal Gungtang)に招かれ、盛大なセレモニーでもって迎えられた。彼はカーラチャクラ灌頂、その他の教えを領主デレクに与えた。それからドルポパは寺の外に出て、解説者によって教えをリレーする方式で聴衆に講義を伝えた。

 あるときドルポパがラサのチョカン寺のお堂のなかでチョウォ仏の前に座っているとき、領主のゲウェイ・ロドゥ(Geway Lodro ?-1364)が灌頂を要求してきた。しかし領主ルンドルブパ(Lhundrubpa)も彼をラゴン(Lagong)に招いていて、聴衆があふれんばかりだったため、夜、ドルポパはひそかに出かけ、ゲウェイ・ロドゥ率いる団体にハヤグリーヴァの灌頂を施さなければならなかった。彼はまた夜のうちにチョウォ仏の祝福を受けなければならなかった。というのはその日、市場からもあふれるほどの聴衆が来ていたからだった。

 ネズミの年(1360年)の1月末、ドルポパをチョナンから迎えに来た一行が到着した。ラサの人々はドルポパがラサを離れると聞いて失望した。

 ドルポパがガルチュン・ゲデ(Garchung Gyede)に着いたとき、ギャン(Gyang)の平原にはたいへんな数の人と馬がいた。彼の乗った御輿は通り抜けることができなかったため、僧侶たちが手を取り合って御輿を囲み、祝福を欲する人々は列を作って御輿の下をくぐらなければならなかった。

 チュカ(Chukha)に着くまでこのような調子だった。僧侶たちは『仏教総釈』(bsTan pa spyi ’grel)などの経文を読み上げ、大衆はヒステリックに泣き叫んでいた。大衆のほとんどが取り乱し、歩くことさえできなかった。陽は暖かく、空は澄んでいたが、大気は虹で満ちていた。ドルポパが渡し舟に乗ったとき、人々はあとを追って川に飛び込み、それをほかの人々が救うというありさまだった。

 サン(Sang)下谷でドルポパはサンプ(Sangphu)寺院の上下学院の長や僧らにもてなされ、そのあとニェン・カルナク(Nyan Kharnak)の渡し場から川を渡った。そしてラマ・ダムパ・ソナム・ギャルツェンの命によって準備された音楽と僧の隊列にエスコートされながらニェタン(Nyethang)へ向かった。

 彼がアティーシャのストゥーパに着いたとき、またも群集であふれかえっていた。彼の御輿が持ち上げられると、祝福をもらおうと人々は競って御輿の下にもぐりこもうとした。

 それから彼はキ・チュ川を渡り、ウシャン・ド(Ushang Do)の石碑を礼拝した。

 チュシュル・ドゥグ・ガン(Chushul Drugu Gang)で彼はラマ・バド(Lama Bado)の歓迎を受けた。そしてシンポリ(Sinpori)の寺の多くの宝物がドルポパのために運ばれた。

 そしてドルポパは僧の行列によってラブツン(Rabtsun)に迎えられ、ロポン・シトゥパ(Lopon Situpa)のアドバイスに従ってロポン・バルリン(Lopon Balrin)と彼の従者がやってきて仏法の教えを授かった。

 ドルポパはラブツンから、ロポン・ロチェンパ(Lopon Lochenpa)にエスコートされながらヤムドク・ナガルツェ(Yamdrog Nagartse)に行き、一ヶ月滞在し、教えや灌頂を授けた。ヤムドクの人々は彼の御輿を担ぎ、カロ(Kharo)峠を越え、オム平原に至った。

 そこでドルポパは領主のパクパ(Phakpa 1318-1370)の出迎えを受け、僧らによってラルン(Ralung)寺に導かれた。ここで多くの教えを授けた。彼はニンド(Nyingro)の薬泉で数日過ごし、ネニン(Nenying)や沿道の寺に立ち寄りながら教えた。

 ターラナータのニャン地方史によると、首領パクパ・バルサンと弟パクパ・リンチェン(Phakpa Rinchen 1320-1376)はしばらくの間ドルポパに仏法の教えを請うた。そして彼らはドルポパをジャングラ(Jangra)に招いた。しかしドルポパの体重のため(sku sha ‘byor pa)、ジャングラまでの長い階段を登るのはきわめて困難だった。

 ドルポパは長い間階段の下のズィンカ(Dzingka)の戦場(g-yul thang)に滞在し、巨大なカーラチャクラの絹のマンダラを広げ、奉納儀礼をおこない、カーラチャクラの灌頂を授けた。

 このときドルポパは、近くのツェチェン(Tsechen)山の斜面にシャンバラの宮殿のヴィジョンを見た。そして将来ここに寺院が建ち、六支ヨーガの修行のみが行われるだろうと予言した。

 ジャングラを去り、ドルポパはパクパ・バルサンに導かれてネーサル(Neysar)へ至った。このときドルポパは首領に教戒を与えた。

「ブッダを永遠として、ダルマ(仏法)を真実として、サンガ(僧伽)を正義として崇めなさい! それは今も未来も功徳があり、あなたの地域は安定するでしょう」

 

つづく ⇒ 11 プトゥンとの面会はたせず