ドルポから来たブッダ

サイラス・スターンズ 宮本神酒男訳

 

11 プトゥンとの面会はたせず

 ついでドルポパはシャル(Zhalu)やツォクドゥ(Tsokdu)に招かれ、ウー地方でしたように解釈人を置いて群衆に広く教えが行きわたるようにした。いくつかのチベットのソースによれば、ドルポパがシャルに着いたとき、プトゥンは彼と論議することができなかった。1581年に書かれた仏教史のなかでドゥクチェン・ペーマ・ガルポ(Drukchen Payma Garbo)は述べる。

 

<プトゥンがリプク(Riphuk)にいたとき、(ドルポパが)論議を交わそうとやってきたが、プトゥンはできなかった。(ドルポパは)論議の開始まで宣言し、その爆竹の音はプトゥンの住居の壁を揺るがしただろう。この件はほかのソースにはない。チョナンの瞑想家の体験に基づくものである>

 

 ジェツン・ターラナータはのちの同じエピソードに触れるが、法廷で争うような主張ではなく、ドルポパは「二番目の一切智者」プトゥンと論議を交えたかったと述べているだけである。しかしプトゥンは論議を交わすことができなかった。ターラナータによればこのことは本当にあった(don la gnas)という。

 クンパンのドルポパ伝は一連のできごとの元のソースである。彼によれば、プトゥンから手紙を受け取ったあと、ドルポパはシャルに行った。彼はシャルで暖かく迎えられ、ドルポパからも贈り物をした。それからプトゥンにメッセージを送った。プトゥンはシャルではなく、あきらかにすぐ近くのリプクにいた。彼は最初の手紙を受け取っていたし、シャルに移動し、仏法と衆生の益のために、論議を交わす絶好の機会だと知っていた。

 シャルではジャムヤン・ガルポら人々は戦々恐々とし、プトゥンに話しかけた。プトゥンは十分に理解していた。彼は従者に、ランダムに仏典を引いて持ってくるように命じた。ことの吉兆を占うためである。持ってきた仏典はマハーベーリー・スートラ(Mahaberi sutra, ‘Phags pa rnga bo che)だった。

プトゥンが従者にその仏典を読ませると、たまたまドルポパの登場を予言していると思われる箇所だった。これは不吉なことだと考えられた。

 このできごとにみな恐怖感を抱いた。しばらく話し合ったあと、彼らは三つの白いほら貝、二つの金像、その他たくさんの贈り物をドルポパに渡した。そしてプトゥンはいま健康状態がよくないとドルポパに告げた。

 しかしドルポパはことの次第を知っていて、論議(thal skad)の開始を宣言した。その音はプトゥンの住まいの壁にひびを入れたという。

 シャル地域を去ったあと、ドルポパはふたたびナルタンに招かれ、座主や僧に『蓮華小釈』(’Grel chung padma can)を説いた。そのとき座主は立ち上がり、ドルポパを全身全霊で崇拝していることを情熱的に語った。それからチョナン寺の座主に導かれた一行が迎えに来て、ドルポパはチョナンへ帰っていった。

 その帰り道でも、ドルポパは何度も止まり、教えを授けた。とくにトプ(Trophu)にはしばらく滞在した。巨大なマイトレーヤ(弥勒)像と彼自身のチョナン・ストゥーパ建造を触発した大ストゥーパに、彼はバター灯明を捧げた。

 マイトレーヤ像の前でドルポパはトプ・ロツァワ伝を読みたがった。それを読み、彼は長時間涙を流し続けた。

 チョナン寺に向かって百人もの列ができていたので、ドルポパは大小すべての寺院や学院で講義をした。群集が彼を支え、アヴァローキテーシュヴァラ(観音)の六次真言を唱えながら、祈り、信仰の涙を流し、谷間を抜けていく光景は信じがたいほど感動的だった。

 沿道では人々が、手で頭をさわってもらうかわりに、御輿の下をくぐって、ドルポパの祝福を受けた。

 

つづく ⇒ 12 最後の日々