ドルポから来たブッダ

サイラス・スターンズ 宮本神酒男訳

 

12 最後の日々

 ネズミの年(1360年)の5月16日、ドルポパは健康な体でチョナンの隠棲所に戻った。ウー地方でもらった厖大な贈り物はストゥーパやさまざまな寺院の堂に飾り付けられた。

 ドルポパは多くの贈り物を受け取り、四方からやってきた人々、たとえば大師ドゥン・シトクパ(Drung Zhitokpa)、偉大なるパンチェンパ(Panchenpa)、偉大なる座主にして首領のナムカ・イェシェ(Namkha Yeshe)らに教えを授け、住まいのデワチェンで瞑想生活に入った。

 その後ドルポパはズム・チュールン(Dzum Cholung)へ行き、勝利のストゥーパ(rnam rgyal mchod rten)を建てた。彼はまたインドの成就者シャヴァリパ(Savaripa)のヴィジョンを見た。シャヴァリパは彼に六支ヨーガを直伝した。ドルポパは6月にチョナンに戻った。

 鉄の牛の年(1361年)の秋、69歳になったチョナン寺座主のドルポパはサキャへ向かった。ドルポパは高弟らにさまざまな教戒を与え、チベットの寒い気候について述べたあと、暖かい場所に行けば寒さに煩わされることもない、と言った。

 弟子のひとりが、その行こうとしている暖かい場所はどこなのか、とたずねた。

 ドルポパの答えは「デワチェン(スカーヴァティ Sukhavati)」だった。そこなら暖かいと。弟子の一部は、それは彼の住まいだと考えた。そこはデワチェンと呼ばれていたから。しかし一部の弟子は、ドルポパがデワチェンの浄土へ行こうとしているのだと理解し、血の気が引いた。

 11月4日、ドルポパは寺院の僧に向かって、彼の代表作『了義の海』(Nges don rgya mtsho)の講義をはじめた。また新米の僧らには初歩的な実践について教え始めた。

 六日目、『了義の海』の半分ほどを終えたとき、彼は教えることのできるすべてを教えたと言い、経典を大事にするようにと付け加えた。新米の僧らにたいしては、その日四つの初歩階梯のすべてを詳しく教えた。

 彼は今まで以上に輝き、健康そうに見えた。彼はより広範囲にわたるアドバイスを僧らに与え、だれもが感極まって喜びの涙を流した。

 解散したあと、彼らは口々に言った。

「どうして師は空中を見ておいでになったのだろう? どうして師はあんなにお元気でいらっしゃるのだろう?」

 それからドルポパはストゥーパに行きたいと言った。従者たちは、いま雪が降っているので道があぶない、ととどめた。彼は、あなたたちはわかっていない、私は行かなければならないのだ、と言い張った。彼らはそれでも反対し、師が住まいに帰るのを手伝った。

 お茶が準備され、個人的な会話のため、弟子たちを呼びに従者が遣わされた。弟子たちがドルポパの前に集まると、彼は十相自在(rnam bcu dbang ldan)について詳しい説明をした。

 その晩は、彼はだれにたいしても愛想がよく、冗談を言い、よく笑った。それから彼は床に就いた。夜が更け、彼は従者の僧ンゴドゥプ(Ngodrup)にたずねた。

「夜明けはまだか?」

 従者は、夜はまだ半分しかすぎていないと答えた。ドルポパは、

「すぐに夜明けになるにちがいない」と言って寝床にもどった。

 しばらくして従者が起き上がり、「いま、夜明けです」と告げた。

 ドルポパは「それでは着るのを手伝ってくれないか」とこたえた。

 従者は衣を着けるのを手伝い、たずねた。「いま起き上がろうとしていらっしゃるのですか」

 ドルポパはないも言わなかった。従者は、ドルポパはすでに瞑想に入っているのだと考えたので、それ以上聞かなかった。朝日が昇ってきたとき、従者はドルポパの手をとり、「いま立ち上がりますか」とたずねた。

 ドルポパは顔をまっすぐ前に向け、瞑想に入っているように見えた。そしてなにも言わなかった。従者は判断に窮し、何人かの経験のある年長の弟子たちを呼んだ。

 彼らはその様子を見て、寒すぎるのだと考えた。そして日のあたるところへ出して、体をマッサージした。

 正午すぎ、目は閉じられたままで、いかなる病の兆候もなく、彼は深い瞑想に入っていった。それから彼は住まいに戻され、四方に敬礼した。数分後、彼はヴァジュラ・サットヴァ(菩薩)のポーズを取り、至福の世界へ去っていった。

 偉大なる座主チョレー・ナムギェルはドルポパの死の知らせを聞くと、すぐ遺体と対面したいという旨の伝言を送った。遺体はドルポパ自身のベッドの上に数日間保管されていた。ドゥン・シトクパ(Drung Zhitokpa)ら年長の高弟が訪れ、供え物を置いていった。昼も夜も人が訪れては供え物を置き、五体投地し、遺体の周囲を巡礼した。

 チョレー・ナムギェルが到着すると、ドルポパの遺体は木棺に移された。木棺は香油が塗られ、絹や宝石で飾られ、火葬場に置かれた。遺体は木綿の布のように柔らかかった。21日目から満月の日まで、偉大なる座主ラマ・パンチェンパに率いられた百人以上の高僧によって葬送儀礼がつづいた。

 虎の年(1362年)の1月6日夜、火葬儀礼がおこなわれた。遺体が火に供せられると、煙はわずかに槍の長さ分立ち昇っただけだったが、矢のごとくストゥーパに向かい、何度も周囲をまわり、それから西の方向へ飛んでいって消えた。

 そのとき厖大なお香、バター灯明、音楽などが供えられた。とくに男女の行者が瞑想小屋の屋根の上にバター灯明を供えたところ、谷全体が明るく輝きだした。

 煙が完全に消えるまで、人々は涙を流しながら、祈りを捧げた。

 あくる朝、火葬場は封印された。10日後に開封されたとき、残っていたものが弟子たちに分配された。この弟子たちはドルポパからヴィマラプラバーを伝授されていた。灰のなかには水晶のように明るい舎利(ring bsrel)が残っていた。

 このとき舎利から金箔で飾られた奉納物(ツァツァ)が作られた。

 ツァツァと舎利がサキャに運ばれると、音楽とサキャのシャルマ家に率いられた僧侶らの黄色の隊列によって盛大に迎えられた。ドルポパの弟子やゲンデン(Genden)寺の檀家によってたくさんの供え物が舎利に捧げられた。そして記念式典がサキャ寺の講堂で開かれた。

 同様の記念式典がウー、ツァンの多くの寺、たとえばナルタン、チュールン、ネヤサル、ツァル・グンタンなどで開かれた。

 チョナンでは灰と舎利を集めていっしょにし、ドルポパ像のなかに入れ、それをドルポパ自身が建てたストゥーパのなかに置いた。

 ドルポパの晩年には、チベットの精神的、知的世界におけるその影響ははかりしれないものがあった。彼の教法にたいして賛否両論あったが、彼はおおいなる愛と慈悲の心でもって教えていた。

 実際に目撃した人の話によれば、彼は強情な哲学的見解を批判するときも、怒りを見せることはまずなかった。仏法に関する論議をするときも、敵を作ったり、立つ位置を間違えたりしがちだが、彼は野卑なことばを吐いたり、攻撃的になることはなかった。

 ドルポパはチベットが政治的に安定しない時期に生きたが、どこかの側につくことはなく、ただ偏見や偏向に反対しただけだった。

 彼はこんなことばを述べたことがあった。

「ここチョナンでは、われわれはどこかの宗派に属そうとは思わない。仏教の悟りは偏見を帯びた仏法を通って得られるものではない。このようにわれわれは価値のない悪に与することはない。空の雲のように、なにかの側に立つことはない」

 この見解は彼のすべての著作の最後にも、「(この書は)公明正大な、偏向のない、四つの信頼を与えられた作者によって編集された」というふうに現れる。

 こうした姿勢から、多くの人々がドルポパを崇めるのである。すなわち彼は仏教の偉大な聖者であり、人生における大きな目標は、ブッダのメッセージの了義を生き返らせることだった。彼はそれが失われかけていると感じていたのだ。

 この試みの危険性を察知しながら、同時代の仏教の潮流を彼は変えようとしていた。彼はセクト主義が廃し、愛と慈悲によって成し遂げようとしていた。にもかかわらず、彼の宗派は、あとになって、彼が生前対抗しようとした勢力によって弾圧されることになる。

 

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