V
一週間後、Jと私はライオンとドライバーが待つ車に乗り込んだ。車はマンダレー北部の広大な田んぼのなかをゆっくりと進んだ。朝遅くにわれわれが薄汚いアーバン・ホテルを出るとき、タクシー・バンの呼び込みが「タウンビョン! タウンビョン!」と大気を満たさんばかりに叫んでいた。乗客がいっぱいに詰め込まれたバンはすでに動き始めていた。近くの町へ行くルートはまもなく麻痺するので、すこしでも早く出て混乱を避けたいとだれもが考えるのだ。
沿道には乞食、障害者、それに群衆がぎっしりと並んでいた。信念の度合いに応じて並んだ群衆は、通行料やお布施をもらおうと必死だった。彼らは拡声器を使って哀願し、小さな子供たちは銀の鉢を繰り返し持ち上げ、中のコイン(それは現行の通貨システムでは無用の産物だ)が空中を舞った。
埃を防ぐために車の窓を閉め、外界を遮断したのに、町に到達する前から、祭りの永遠に尽きない騒々しいエネルギーを感じ取ることができた。夢の時間が私の背骨をびりびりと震えさせた。十代の頃、グレートフルデッドのコンサート会場の駐車場に着いたとき、期待の高まりに頭が沸騰したことを思い出した。あの世界の秘密に通じた電気ショックのようなまばゆい感覚がよみがえってきた。
Jと私はライオンとドライバーを駐車場に残して会場へ向かった。彼らは見張りの兵士のように半日、退屈さと戦いながら待つことになる。われわれは南アジアの農産物市場とは似ても似つかぬ埃まみれの雑然としたエリアに入っていった。
メインの通りには、ありがたいことに車はなく、ゼリー菓子、花、カセットテープ、油っぽい食品、繊維製品などを売る露店がならんでいた。子供たちはキャンディ売りのまわりを走り回った。
村の中心のパヤーの後ろからは、手動で動く観覧車が現れた。若者たちは手すりをつかんだまま身構えると、慣性力を得て勢いよく地面に向かって投げつけられた。
すぐ近くには中が広くなった小屋があり、がたがたした回り木戸を抜けて入ると、薄気味悪いB級映画のような和音にひどくゆがんだピアノの音が重なった音響が流れるなか、大きな人形の兵隊たちが血なまぐさい戦いを演じていた。
小屋の外にはココナッツの殻とバナナの葉が山積みになっていた。これは供物であり、いわば商売の否定なのである。この低調なカーニバルはある意味、聖なる行事であることをわれわれは思い出した。とはいっても群衆の中に重苦しい厳かな目的も、巡礼の陰鬱な敬虔さも、宗教的な偏執性もなかった。
タウンビョン中央のパヤーも、気まぐれでにぎやかな雰囲気が支配していた。銀めっきしたガラスのモザイクがぴかぴか光る僧院のホールの床には群衆が居座っていた。パゴダはタウンビョン兄弟の物語のなかで決定的な役割を持っていた。
この2柱のナッ神はこの町と毎年の精霊祭を支配していた。シュエピンジーと兄弟である名前がそっくりのシュエピンゲーは、アノーヤター王の臣下であった力強い努力の男、ビャッタの息子だった。
ビャッタは、兄弟のビャッウィとともに籠に乗って海上に浮かんでいるところを僧侶に発見だれた。このインド人の風貌をした、イスラム教徒と考えられる兄弟は僧侶のもとですくすくと育った。
僧侶は偶然ビルマに無数にいる錬金術師のひとりの遺体を発見する。錬金術師は不老不死の霊薬を作り、フルーツの女神(彼らは彼女とセックスしたがった)をめぐって戦うことに時間を費やしていた。錬金術師の身体には特別なパワーがあることを知っていたので、僧侶は遺体を急いでローストした。彼は国王を呼んでくるあいだ、ビャッタ、ビャッウィ兄弟にローストした遺体を守るよう命じた。
しかし若い兄弟は遺体が発する香ばしい香りに抗しきれず、ガツガツと遺体を食べてしまった。食べるうちに兄弟はスーパーパワーを身につけてしまったのである。
アノーヤター王は次第に兄弟にたいする信頼を失い、ついにはふたりを処刑した。ビャッタと魔女の妻を殺したあと、アノーヤター王は息子たちを哀れに思い、彼らを宮廷で育てることにした。
兄弟は父親のスーパーパワーを受け継いでいると思われたので、彼らはのちに王がブッダの聖遺物を得るために中国に攻め込んだとき、国王の軍隊を率いさせた。アノーヤター王はブッダの遺物によってナッ神を滅ぼすことができると信じていた。不幸なことに、兄弟が持ち帰ったのは本物ではなく、祝福された臼歯の翡翠のレプリカだった。
のちに王は兄弟に、タウンビョンにパゴダを建設するよう命じたが、兄弟は大理石の石のゲームに興じた。うんざりした王は魔法の槍で兄弟を去勢し、血を流させて死に至らしめた。あの世から、ナッ神となった兄弟は王権にいやがらせをしつづけた。王はついに、彼らをタウンビョンの霊的な主としたのである。彼らの名を冠した精霊祭は毎年大きくなっていった。そしてすっとのち、ミンドンが王位に就くと、王はついに精霊祭を取りやめるよう命じた。すると王の睾丸が腫れ上がってしまい、しぶしぶ王は精霊祭を認めて兄弟を慰撫せざるをえなかった。
群衆であふれんばかりのパヤーの本殿を通り抜ける。その壁には2、3個のレンガが抜け落ちたあとがあり、兄弟が運命的なサボリ屋であったことを思い起こさせる。
Jと私は人でごった返す中庭に出て、灌木の少ない葉陰の下のマットにドサリと座り込んだ。とにかく暑かった。老女が踊っていた。頭がおかしいのか、憑依しているのか、あるいはその両方か。そして制服を着た貴人の一行が、人をどやしながら、クリップボードと結ばれたノートに何かを記しながら、群衆をかきわけてやってきた。
すぐにわれわれは、横の小屋の影にいた、踊りの順番を待っている、そして夜には神を慰撫する予定の人々のなかに吸収された。彼らは家族の集まりか友人のネットワークのように見えた。まるで普通の人々がピクニックに来たかのようだ。彼らの真ん中には、しかし、魅力的な若いニューハーフたちが座っていた。
西欧社会では想像もできないことだが、彼らはうまく溶け込んで自然な風景を作り出していた。われわれは彼らから脂ぎったカルダモン入りのフライド・ライスや脂でギトギトした魚、紫色のバナナとココナッツをあえたスイートなどをもらった。Jはアーム・バンドを安っぽい金のチェーンやブレスレットと交換していた。私はといえばバンコクで買ったバージニアのタバコをほぐして、また巻くというパフォーマンスを見せた。この機転によって、私は中国製の体にひどく悪そうなタバコを吸わずにすんだ。
われわれはこの新しい友人たちのもとを離れて、観覧車のほうへ向かった。その途中で人だかりのそばを通ったが、彼らが何を見ているのかはわからなかった。人々の頭越しに見る前から奇怪な何かがあるのは感じ取れた。そこにいたのは、馬の頭蓋骨ほどもある巨大なピーナッツ形の頭部をもった奇形の子供だった。黄色いドレスを着ていたことから子供が少女であることがわかった。徴収係が金をかき集めようとしているのではなく、純粋に哀れな者を見せる見世物のようだった。彼女は傘の下のマットの上に横たわり、むなしく幸せそうな笑顔をふりまいていた。私はこの奇妙な、ある意味で感動させるシーンをビデオに収めようと思ったが、何かの力が働いて「世界残酷物語」の撮影を思いとどまらせた。
そして意図せず異様なものへ心を開かせるショッキングな光景を心にとどめて、われわれはパヤーを通り過ぎ、遠くから聞こえてくる楽団のマニアックなリズムとむせぶような笛のほうへと向かった。それは亡霊を呼び出す音楽だった。
1710年頃、ビルマを訪れた英国の船乗り、アレクサンダー・ハミルトン(註;米国建国の父は同名異人)は、彼が参加した聖なる儀礼の神託について日誌に記している。彼が描いたできごとはほかの伝統儀礼なのだが、ナップウェ(精霊儀礼)と共通する点が多いように思われる。
私は30分ほどのあいだに、気が狂ったような9つの激しいダンスを見た。彼らのなかには口から泡を出し、ひきつけを起こす者もいた。彼らは意識を取り戻すと、その年のトウモロコシがどれだけできるかを予言した。もしその年がよくなければ、人々に忠告を与えた。あるいはほかのことを話した。そうやって30分ほどのあいだに、怒ったダンサーたちはトランス状態で神と会話をするのである。
このような憑依カルトはいまも東南アジアに存在するが、現在のタウンビョンの儀礼はハミルトンが観察した癲癇発作で痙攣を起こし、よだれをたらすのと比べると、ずっと穏やかなものである。現代の霊媒も予言をするのだが、いにしえのトウモロコシの予測にかわって愛やお金のアドバイスが主なテーマとなっている。
しかし究極的には、ハミルトンが見た伝統は、いまもかわらず生きているのである。霊媒のジェンダー(性)について船長は書く。「この国に、両性具有者の多いこと! 彼らはダンスをするために供え物をたっぷりと用意し、選ばれたのである」
8月の奇妙な一週間、タウンビョンはトラニー(性倒錯)的な都市となる。資料を読んでもそのことには思い至らないかもしれないが。『ビルマの超常信仰』(1967)がこのテーマについて書かれた本のなかでもっとも有益なものだろう。著者のメルフォード・スパイロはタウンビョンのナッカドーについての詳細を魅力的に語っている。
しかしながら、ナッカドーのほとんどが女性で、タウンビョンの専門家によれば男性は3から4パーセントにすぎないとスパイロは主張するのだ。そしてそのほとんどがホモセクシュアルか異性服装倒錯者だと付け加えている。性(ジェンダー)の領域はかくも明瞭にしづらく、分類できないものである。命名の終わりのない順列と混乱、生物学、性の適応、両性の境界などからアプローチされる。
しかしスパイロがいう専門家とはだれなのだろうか。彼はトラニー(性倒錯)ファンにはおなじみの徴(しるし)をどうやって見逃したのだろうか。というのも、もし現在のタウンビョンのナップウェが、スパイロが訪れた60年代のものとそれほど変わらないとするなら、女装趣味者だろうと、ホルモン・バランス的な意味で両性具有者であろうと、ニューハーフが人間とナッ神の間を取り持っていることは容易に見て取れるからだ。
現代西欧社会では、ごちゃまぜになったトランスジェンダー(性の超越)と拡大された性のアイデンティティーと性愛の可能性といった意味から、トラニー(性倒錯)文化は祝福される。
一方、伝統的な社会においても、ホモセクシュアルであろうとほかの曖昧な何かであろうと、性を超越した存在は聖なる、超自然的なパワーをもつと考えられることが多い。原始的なカルデア人の両性具有やグノーシス神話から南スラウェシ島の神秘的な女装(男装)者、あるいは神託でもありヒーラーでもあるネイティブ・アメリカンの「二つの魂」をもつ者まで、性を超越した人々は両世界(あの世とこの世)を行き来する力を持ち、マスキュリン(男性性)とフェミニン(女性性)の原初的な二極化によって、宇宙の神秘を会得することができるのである。
神秘主義的なレベルでいえば、性を超越した存在は、ヤコブ・ベーメやフランツ・フォン・バーダー、ユングなどドイツの心霊主義者たちがいう錬金術的なアンドロギュノスという観念にあらわれたコインキデンティア・オポジトールム(反対の一致)、あるいは反対の結合を体現しているのである。ニューハーフをモンスターと感じる人々もいるだろうが、スピリチュアリズム的に解析すると、それは観念的にはアダム・カドモン、すなわち完全なる人間である。それは性を超越した原初の全体性なのである。
聖なる両性具有は十字路の存在である。左手と右手にマスキュリンとフェミニンを持ちながらも、彼(彼女)はもっと違った二極の軸によって特徴づけされる。それは完全なる結合のよる高次の霊的アンドロギュノスと性の深部におけるさまざまなエロティシズムという二極である。
ビルマのナッカドーは神託を与える神聖なる者という役割があるが、エロティシズムをふりまく(ヒップ・ディープ)存在でもあるのだ。タウンビョンの群衆が人のボタンをむしり取るという誘惑的な行為について、なぜか学者のスパイロは無視している。そのスパイロも、性的なヴィジョンを見たあと、ナッカドーになるケースが多いと認めている。中世の夢魔のように、ナッ神は夢の中で将来自分に仕える者に近づき、誘惑し、そして性的関係を持つ。多くの人はナッ神と結婚し、ナッカドーとなる。ナッカドーとは、ナッ神の配偶者という意味なのである。
多くの場合、選択の余地はそれほどない。ナッ神は気まぐれで執念深く、簡単に離れていくことはない。ときには新しい妻にそれまでの結婚生活を容認することもあるが、通常は嫉妬深く自分への貞節を要求する。社会学的観点から見た場合、ナッ神の呼び出しは、ビルマ社会に生まれた者に標準的な「性の一致」が欠落した場合の完全な補填の役割をもっている。ナッカドーによって第三の性を得るのだ。それは地位と経済力を与えることにもなるだろう。しかし同時に彼らは性的な罪を犯しがちである。ナッカドーは神託として尊敬されることが多いが、身持ちが悪く、ときには売春に手を染めることもあるのだ。
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