なり 

宮本神酒男 

 独竜江にて

が乱舞する場所 

 人は妙にこまかいことを覚えているものである。90年代、はじめて独竜江(中国雲南省)に入ったとき、山道を苦労しながら登っていると、瑠璃色の蝶がひらりひらりと私にまとわりつくように舞ってきたのを思い出す。一瞬、だれかの魂が蝶の姿をとって私と会いたがっているのではないかと思った。つぎの刹那、そんなことがあるはずもなかろうと自分に言い聞かせるように否定した。それだけのことだが、よく覚えている。

 15年後、ふたたび訪れた独竜江地方には車道が通り(雨季だったので何十か所も崖崩れが起こって道は寸断されていたが)、記憶とはまったく異なる場所になっていた。車道ができたことと関連があるかどうかわからないが、減っていそうな蝶の数が逆に増えていた。たとえばミャンマーとの国境から数百メートルのところにある休憩小屋の前には、数百羽の複数の種類の蝶が群舞していた。そこだけでなく、何か所かで群れをなしている蝶に会ったし、単独やつがいで花々のあいだを忙しく飛び回るさまざまな色の蝶を見かけた。

 しかし同時に死んで路上の石にへばりついている蝶や水たまりに浮かんで力なくもがく蝶もたくさん目にした。死にそうな大きな蝶を手に取り、近くの若葉の上にのせたことがあったが、無駄に延命しただけだったかもしれない。

 蝶はかよわい生き物なのである。独竜族が蝶は死んだ人の魂だと信じるのは、このはかなさが魂の動きとよく似ていると感じているからだろう。もしかすると、実際に蝶を見てそれが亡魂だと考えるのではなく、亡魂が蝶とそっくりだと考えているのかもしれない。私が独竜江にいるときに蝶が人の魂のようだと感じたのだから、この地方の蝶はことさらそう感じさせる命のようなはかなさを持っているのかもしれない。

 保護色の翅 (独竜江) 

独竜族の魂、プラとアシ 

 独竜族の信仰によると、人や動物はプラとアシという2つの魂を持っている。

 プラは、生命そのものと言い換えることができる。プラ(pu la)と魂を意味するチベット語のラ(bla)はあきらかに同源の語である。人や動物のプラは天界においてグム(天の精霊)が細部にわたるまで決め、それにしたがった姿で地上に生まれる。その身体や容貌、性格、品性や知能などすべてが本人とおなじであるという。つまりプラというのは胸のあたりに入っている火の玉のようなものではなく、目に見える姿そのものということである。

「その人が服を着ると、プラもおなじように服を着る」と、民族学者の蔡家麒氏は現地の人の言葉を引いて説明する。わかりにくいが、わかるような気もする。

 しかし人が眠っているとき、プラは眠らない。しばしばプラは眠っている人の身体を離れ、あちこちに行きたがる。これが夢である。人が夢を見ているとき、じつはプラが外に出て活動をしているのだ。プラは身体から出ると大胆になり、何も恐れずに遠くまで行ってしまうので、悪い精霊(プラン)と出会うことも多くなる。プラは簡単に精霊にだまされ、傷を負ったり死んでしまったりする。プラが死んでしまえば、宿主の人も死んでしまうことになる。プラの寿命が尽きた場合は、天界のグムが「回収」を決定する。

 人が死ぬ瞬間、プラは自宅の近くの墓場にあらわれたり、家族といっしょに食事をしたり、何かともに活動をしたりする。ただしそれを見ることができるのはナムサと呼ばれるシャーマンだけである。人が死ぬ前、上空に白い雲が立ち昇る。雲の両側には星が輝いている。それが死者が出る予兆(ムドゥル)なのだという。ムドゥルが現れると、プラはグムによって天界に連れ去られる。

 シャーマンたちは白い雲と二つの星が現れるのを見て、人の死をも予知することができる。彼らによるとまずプラが死亡し、そのあとしばらくして宿主の人も死ぬのだという。またプラが死ぬと、それは転生することはなく、永久に滅したままだである。

 

 人や動物が死んだあとに現れるのが、アシと呼ばれる魂である。霊魂とか亡魂と呼んでもさしつかえないだろう。アシもまた見かけや性格などあらゆる点で生前とおなじだという。しかしアシは現世の人を富ませたり、助けたりすることはなく、肉を食べ、酒を飲むのが好きで、家族にはつねに祀ることを要求する。もしアシが現世にとどまることがあれば、家族は墓地へ行き、肉や酒を奉じて祀らなければならない。そして「ここはあなたのいる場所ではありません。ごちそうを食べたらどうぞ行ってください」とお願いする。

別の項で述べたように、ナムサ(シャーマン)によって送られる死者の場所は「アシモリ」、すなわちアシの場所である。ここは先祖たちがやすらぐ休息所なのである。

 しかしアシモリが不清潔な場所として語られることがある。そこは現世とおなじように山があり川があり村がある。アシが住む家は茅(かや)で編まれた粗末な小屋で、豚、牛、鶏、羊などの家畜が多く、その糞便で汚いという。人々はそこで現世と同様に狩猟や農作などをして暮らしている。ただし結婚することもなければ、子供が生まれることもない。また、生前におこないの悪かった人は、ここで懲罰を受けることになる。このバージョンでは、アシモリはユートピア、あるいは浄土的な場所ではなく、地獄も兼ねた陰鬱な世界である。

 独竜江にて

蝶に変身する魂 

 アシはアシモリに永住するとはかぎらず、蝶に変身して人間世界にもどってくることがある。色とりどりの蝶は生前女性であり、単色の蝶は男性である。興味深いのは、この蝶が死ぬと、復活することはないことだ。輪廻転生はないのだ。いや輪廻転生どころか、天国へ行ったり、地獄に落ちたりすることもない。「死ねば終わり」という考え方は、世界を見回しても、めったにないといってもいいだろう。こういう宗教にたいし、中国は「原始宗教」というレッテルを貼りたがるが、ある意味で、立派な宗教哲学、あるいは死生観といえるのではなかろうか。

⇒ 蝶の王国 

⇒ もうひとつの蝶の王国

独竜江地区略図 

 独竜江にて

ミャンマーの蝶の精霊 

 ほかの民族、とくにチベット・ビルマ語族のなかに蝶を亡魂とする習俗がないか調べてまわったが、探し当てることができなかった。最初に独竜江に行ってから数年後、私はシュウェイ・ヨーの『ビルマ民族誌』を読んでいて、「蝶の精霊」という項目に行き当たった。独竜族の蝶の魂と基本的におなじものである。それはそれほど不思議なことではなかった。言語学的に見てもビルマ語はジンポー族やアチャン族、イ族などと近く、独竜(ドゥーロン)語もまたほぼ同類といえるほど近いのだから。言葉が近いということは、文化も近いということである。

 そこにはこう書いてある。

 生命は(魂である)レイッピャ(蝶の精霊)のなかに存する。それが消えるときに人は死ぬのだ。人は死の瞬間、口を開ける。そのとき身体から蝶(レイッピャ)が逃げだす。

 しかし独竜族の場合と微妙に異なる点がある。

 レイッピャによって夢が作られる。蝶はつねに身体のなかにいなければいけないとうことはない。分離によって死がもたらされるというわけではない。人が眠っているとき、レイッピャは肉体を離れ、遠くへ行ってうろつきまわる。しかしこうしてさまようときだけ、人が生前に属した場所に行くことができるのだ。よく知った道からはずれると、眠っている人の身体を危険にさらすことになる。蝶はときおり迷子になり、戻ってこられなくなることがあるのだ。それは蝶と身体の両方の死を意味する。

 独竜族と異なるのは、プラとアシに分けることなく、生前も死後も魂をレイッピャ(蝶)と呼んでいることである。独竜語で蝶はパクアであり、言葉においては「蝶=魂」というわけではない。しかし魂を蝶とみなす考え方はほぼ同一といえるだろう。

 両者とも、夢を見るのは、人が眠っているあいだ、蝶が肉体を離れ、勝手に飛び回っているからだと考える。だから人が寝ているときに起こすのは危険だという。

 彼の蝶は肉体を離れて遠くを飛び回っているので、すぐに戻ることができないのだ。すると人は病気になるか、すくなくともしばらくは気分がすぐれないのである。

 もしかすると蝶はあくまで蝶であり、独竜族やミャンマー人はただたんに「魂は蝶と似たようなものだ」と言っているにすぎないのかもしれない。習慣的に、蝶を見ると人の魂かもしれないと思い、慈しみの目でもって見るのかもしれない。しかし独竜族やミャンマー人とおなじ信仰を持っているわけではない私でさえ、蝶を見るとだれかの魂がふわふわと舞っているように思えてならないのだ。花々のあいだを歩いているとき、モンシロチョウ(紋白蝶)が近づいてきたら、それが私にしか見えないだれかの魂であっても不思議ではないだろう。

Kon tum, Vietnam


補足:永遠に生きる蝶の精霊 

 しかしメルフォード・E・スパイロによれば、蝶の精霊(レイッピャ)は永遠の魂だという。(『仏教と社会』)

 それは生命の本質とみなされ、肉体から離脱すれば、ただちに死をもたらす。そしてふたたび結集し、あたらしい形をとることが再生の基礎となる。故人のレイッピャはしばしば元いた場所に残りたがり、そのことがトラブルを起こすので、そうならないように葬送儀礼がおこなわれる。遺体が墓地に運ばれるとき、親戚のひとりは木の枝を折り、それを故人の家に持っていく。これに蝶の精霊は7日間とどまるという。7日目に僧侶らが呼ばれ、経文を唱える。それによってレイッピャは送られ、二度と戻ってくることはない。よいカルマを積んだレイッピャは喜ばしい場所に生まれ、そうでないレイッピャは好ましくない場所に生まれるという。

 この考え方によれば、故人の魂であるレイッピャは、カルマのよしあしに限らずこの世に生まれ変わるということになる。おそらく仏教が影響力を増す前、レイッピャは死んだら戻ってくることがなかったのだろう。仏教が社会のすみずみまで浸透するにしたがい、魂(レイッピャ)は輪廻転生するようになったのである。