ミケロの旅日記
7月18日 ミャンマー国境へ(蛭の森、巨大な滝、そして蝶の王国へ)

 
どんな生物学の理論も、蝶がどうやってこの美しい文様を会得したかを説明することができないだろう。

蝶の王国へ

 密林を抜けてすこし開けたところに掘っ建て小屋があった。それは茶屋だった。簡素なお茶を何杯でも好きなだけ飲むことができた。その近辺では蝶が乱舞していた。種明かしをするなら(といっても種を知っているわけではないのだけれど)小屋の前に缶ジュースの中身をぶちまけたのだろう。花の蜜ならぬ缶ジュースの蜜(糖分)をもとめて蝶たちがやってくるのだ。蝶は地面にたまっている油(石油かガソリン?)にも近づいてくることがある。花よ、蝶よ、といえば美しい少女趣味的世界を連想するが、蝶は意外と人工物を好むのだ。

 

 缶ジュースが引き寄せるかどうかはともかく、そのあたりに大量の蝶がやってくるのは不思議な光景だった。そこに立つと、全身を蝶に囲まれるのだ。一瞬、聖なる存在になったかのような錯覚をいだいた。

 

 5メートルほど離れた岩の上に座って蝶をビデオで撮影していると、可愛い子猫が現れた。子猫は蝶をハンティングしようと前足でひょいひょいとジャブを出しながら、こちらに近づいてきた。蝶はいっこうに獲れそうもない。子猫はついに足元にやってきて、ビデオカメラにからだをなすりつけながら、「ニャア」と鳴いた。

 かわって一羽の肉のしまったチャボのようなニワトリが現れた。コッ、コッ、と鳴きながら蝶めがけてくちばしを打ち下ろす。数十羽の蝶がパニックを起こして群蚊のごとく渦巻いた。二、三羽の蝶が餌食になってしまった。

 独竜族の信仰によれば、人は死後、その魂は蝶に変じるという。蝶も死んでしまえば、この世に転生することもない。これらの蝶を見て亡魂だと思えるだろうか。おそらくその伝説を文字通りに信じる人はもはやいないだろう。しかし亡魂が蝶のようなものだとすれば、多くの人は納得するかもしれない。蝶、すなわち人の魂は美しく、はかないものなのだ。

 ここにかぎらず、独竜江の上流から下流まで、どこでもさまざまな種類の蝶が生息していた。そのすべてを撮影することができなかったのは残念だ。独竜江地区のなかでもとくにこのあたり、すなわち欽郎当(チンランタン)村のはずれの売店兼食堂から滝、さらに国境近くの掘っ建て小屋(茶屋)にかけてのエリアは蝶の王国と呼んでもいいだろう。ここは蘭や蝶の宝庫だった。ただし蘭や蝶を見るエコ・ツアーを企画するならば、雨季を選ばねばならない。

水たまりに落ちていた蝶を救った。あとどれだけ生きられるのか…。

死後、魂は蝶になる

「魂が蝶になるなんて、ファンタジーの世界だね」と肌に付着した蝶の鱗粉を感じながら私は言う。
「そんなこと、いまどきだれも信じてないわ」

 Nさんのひとことですっかり高揚した気持ちが冷めてしまった。しかしまあ神話的リアリズムのような言い方ができるなら、非科学的ではあるけれど、現実として感じることは可能かもしれない。

 独竜族は生きている人の魂をプラ(pula)と呼ぶ。チベット語のラ(bla)とは同根のことばだろう。プラは天上の神霊グムが造る。プラはその人の姿かたち、性格とほぼおなじものだという。人が寝ていても、プラは眠らない。だから夜間外に出て活動をする。これが夢である。プラが天に召還されるのもまた神霊グムの決定による。ただし人が死ぬと、プラが復活することはない。輪廻転生の思想はないのだ。

 死後の魂、つまり亡魂はアシと呼ばれる。このアシはアシモリという冥界にいる。一定の時間がたつとアシは蝶の姿をとってこの世にあらわれる。色鮮やかな蝶は、生前は女性であり、地味な色の蝶は男性だという。蝶であるあいだ、人に祟ることがあるので、シャーマンは蝶を祀ることがある。蝶が死ぬと、よみがえることはない。アシもまた転生はしないのだ。

 最近になって、ビルマ人にも人の死後、魂が蝶に変ずるという信仰があることを知った。どちらかがどちらかに影響を与えたというより、共通の祖先(チベット・ビルマ語族)の信仰がもとにあったと考えるべきだろう。

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