GW・カーヴァー伝  

奴隷から科学者になった男 

ジャネット&ジェフ 宮本訳 

 

16 先駆者として  

 1938年春、ジョージは自分の体が衰え始めていることをひしひしと感じていた。つねに具合が悪く、体が弱ってきていた。そしてタスキーギ病院で検査を受けることになった。彼は悪性貧血症と診断された。しばしば死に至る病である。しかしながらジョージはまだ仕事を離れるつもりはなかった。それに新しい治療法を試みることに合意していた。つまりビタミンB12の投与である。回復は緩慢だったが、短期間で退院できると感じていた。

 タスキーギ大学の総長フレドリック・パターソンはジョージが大学の二階建てゲストハウス、ドロシー・ホールへ移れるよう取り計らった。ここでなら落ち着いて過ごすことができるからだ。ジョージがそこに移って回復しつつあると聞いたヘンリー・フォードは、部下を何人か送って建物にエレベーターを取りつけさせた。ジョージはしばらくの間車椅子生活を余儀なくされていたのである。

 病に臥せている間、ジョージは自分の人生を振り返る時間がたっぷりとあった。彼はレポーターにひとつの結論に至ったと語っている。「わたしはフィニッシャー(仕上げをする人)ではありません。さまざまな道の先鞭をつける者なのです。わたしが研究してきたことはほとんど本に書かれていません。みなさんにはさまざまな真実の道をつくり、その道を継承していってほしいのです」

 考えれば考えるほど、ジョージは世界に対して最後の恩返しをするなら、若い黒人男女に自分がはじめたことを継承してもらうための道をつくることだと感じた。後継者がそうできるように、彼はジョージ・カーヴァー・ファンデーションを創設し、この新しい組織の銀行アカウントに3万2千374ドル19セントを振り込んだ。タスキーギ大学の長期在職期間全体の収入は4万7千ドルに過ぎず、ほかの活動に対して支払いを受け取らなかったことを考えれば、この金額は巨額であるといえよう。ポリオ患者の萎えた足へのマッサージや百万ドル企業へのピーナッツ加工の効果的な方法のアドバイスに関しても、ジョージは謝礼を取ろうとはしなかった。そのかわり彼は労働の報酬はドネーションとして大学に寄贈されるようにしたのである。

 ジョージの多額の寄付が公になると、世の人は彼がどのようにそんな大金を持つことになったか不思議に思った。しかし答えはシンプルである。ジョージは自分のことにほとんどお金を費やさなかったのだ。スーザン・カーヴァーが彼に教えたように、ジョージは着るものは最低限のものでよかった。彼は気前よく教会に寄付し、お金を必要とする人にあげ、残りは銀行の口座に貯蓄した。利子だけで相当な額になった。

 ジョージは彼の基金のもっともいいお金の使い方は、博物館を過去にそうだったようにただ来て見て去っていくのではなく、それ以上のものにするための財源にすることにした。また彼は現代的な研究ラボを博物館に付けて、黒人の科学者が自分の考えに取り組み、研究プロジェクトに従事できるようにした。博物館が入る建物は古いランドリー用の建物だった。それは前面に五つの巨大なアーチ門が構える大きな赤レンガ造りの構造物だった。ビルの地下はラボ、オフィス、貯蔵スペースに変わった。ほかの階には標本のコレクションが書類や写真とともに並べられていた。また彼の生涯の仕事ぶりを表す品々が展示された。

 ある一室はとくにジョージを喜ばせた。この部屋は、生涯を通じて描いたすべての絵画が展示されたアート・ギャラリーなのである。ジョージは自分の絵画と離れ離れになるのが我慢できなかった。だからすべてを手元に置いていたのである。大半は長年、ベッドの下にしまっておいたか、クローゼットの後ろに隠していたものだ。しかし今、それらは額縁がはめられ、きちんと展示されている。全部で72枚の絵画が展示され、そのうち27枚は五十年以上前のシンプソン大学の時代に描かれたものだった。ジョージはいくつかの額縁は自ら作った。額縁もまた自らの力による芸術作品なのである。ひとつの額縁は一千以上の小さな木片を釘も接着剤も使わず編んで作ったものだった。

 絵画の下のテーブルにはジョージのほかのハンドクラフト作品が展示されていた。ニワトリの羽根のブローチから彩色されたピーナッツのネックレスや手染めのネクタイ、繊細なクロッシェ(かぎ針編み)のレースまでさまざまな作品があった。

 博物館のオープンはまさにジョージが望んでいたとおりになった。何千人もの友人や知人がやってきた。ジョージは入口の扉のところに立ち、ひとりずつ個人的に出迎えた。彼の健康はまだ脆弱だったが、すべての予想を覆していま車椅子から立ち上がり、短い距離だが、補助具なしで歩くことができた。

ジョージは川のように流れる群衆を見て驚いた。労働者がいた。大工の前掛けをつけたままの人がいた。毛皮のケープを羽織った南部の美人がいた。つぎはぎだらけのオーバーオールを着た若い黒人の農民がいた。丸々と太った頬が紅潮した子供を運ぶ農民の妻がいた。洗濯女、看護師、上院議員、種製造の大立者がいた。元クー・クラックス・クランのメンバーがいた。この男は息子がポリオにかかってしまい、ジョージの助けを求めてやってきたのだった。ジョージはベストを尽くして子供を助けた。よくなるとは思っていなかったので、男は最終的にはジョージに対する尊敬の念でいっぱいだった。いま男は博物館のオープニングで黒人に対して最大限の敬意を払っていた。

 だれもが博物館と芸術とギャラリーを楽しんだ。そしてそのとき以来、これらを目当てにした着実な人の流れがタスキーギにやってくるようになった。

 ひとたび博物館とギャラリーがスタートすると、ジョージは残ったお金を有望な黒人科学者のための奨学金として使うべく基金を設立するために使おうと考えた。自分の人生を振り返って、ジョージは何度も「もうあきらめよう」と思いかけたことを思い出した。ハイランド大学に拒絶されたあと、勇気を奮い起こし、大学に再挑戦するために必要なお金を貯めるまで五年を要した。彼の基金によって彼のあとを追う人々が歩きやすくなると思うと、彼は大いなる喜びを感じた。

 76歳になり、ジョージは自分が受けている気遣いに圧倒された。1940年、ヘンリー・フォードはジョージア州ウェイズの農園の中にジョージ・カーヴァーの名を冠した小学校を寄贈した。ジョージはまたルーズベルト・メダルが授与され、ニューヨーク科学アカデミーの会員になった。1941年にはロチェスター大学が彼に名誉博士号を贈った。学位を受け取りにニューヨークへ行くには彼の体は弱っていた。ロチェスター大学の学長アラン・バレンティン博士は自らタスキーギに行き、そこでジョージに授与することにした。博士号を授与する講演のなかでバレンティン博士はこう述べている。「あなたはたまたまニグロだったアメリカ人のために機会のドアを開けました。人間の能力にいて肌の色の境界線はありません。あなたは何千人もの人が自身と自信を持ち、自尊心を持てるよう手助けしました」

 こういった理由から選び出されたことは、ジョージの自信になった。結局のところそれが人生のゴールだった。

 名誉博士号が授与されてからまもなく、彼を主賓とするアトランティック・シティの晩餐会での講演を依頼され、受託した。彼はおとなになってからずっと着ているスーツを着た。五十年前、アイオワ州エイムスで同級生の学生に買ってもらったスーツである。「まだたくさん服は残っています」と彼は目を輝かせながら言った。「これが着られなくなったとき、新しいのを買うつもりですよ」。いつものようにジョージは彼のトレードマークを身につけた。つまり襟に摘んだばかりの花か草を挿したのである。

 アトランティック・シティ晩餐会はエンターテイナーで構成される組織バラエティー・クラブの主催だった。ジョージの研究は農民を助けるためで、エンターテイナーのためではなかったが、1200人の人たちはあきらかに彼の言葉に耳を傾けていた。ジョージが話し終えたとき、群衆から雷鳴のようなスタンディングオベーションが起きた。ジョージはつつましやかだったが、バラエティー・クラブの幹事がジョージ・カーヴァー基金に千ドルのチェックを支払うと表明したときも謙虚だった。

 1942年ヘンリー・フォードはミシガン州ディアボーンのグリーンフィールド・ビレッジにカーヴァー記念キャビン(山小屋)を建てた。またジョージの名で栄養研究所を設立した。同様にトマス・A・エジソン研究所はジョージをメンバーに加えた。

 依然としてジョージの大いなる楽しみはタスキーギで研究を続けること、博物館の中をブラブラ歩くこと、「彼の少年たち」に手紙を書き、勇気づけること、あちこちで小さな実験をすることだった。

 悲しいことに1942年12月はじめ、博物館の扉を開けようとしているときに倒れるまで、彼の健康は衰える一方だった。彼は即座に病院に運ばれた。骨はまったく折れていなかったが、足先から頭まで打ち傷だらけだった。今度はジョージの体が回復することはなかった。彼の築いた基盤の部分はしっかりと残っていたし、博物館とアート・ギャラリーは多くの人に開かれていた。彼は自分の仕事を成し遂げたのだ。見舞いに来る人の流れが途絶えないなか、ジョージはベッドに横たわったままだった。そして1943年1月5日の午後7時30分、ジョージ・カーヴァーは目を閉じ、息を引き取った。

 ジョージが何月何日に生まれたのか、いや何年に生まれたのかさえ誰にもわからなかった。彼はどこにでもいる、病気がちな奴隷の子供にすぎなかった。しかし死んだ日ははっきりしていた。彼の死のニュースは数時間のうちに世界を駆け巡った。国のトップからもっとも貧しい共同農家まで、哀悼の言葉が集まってきた。籠いっぱいの電報がタスキーギ大学に到着した。秘書たちは四六時中手紙をえり分けねばならなかった。

 タスキーギ大学のチャペルに収まり切れないほど多くの人がやってきてジョージの葬送に参列した。お金持ちも貧乏人も、有名人も無名人も、黒人も白人も、みな弔辞が読まれる間、静かに立っていた。ジョージの遺体はタスキーギ大学構内の旧友ブッカー・T・ワシントンの隣に埋葬された。

 そのあと多くの人が博物館の中を静かに歩いた。彼らはベツィー、すなわち農業研究ステーション所有の最初の牛の骨格を見た。彼らはジョージが長年にわたって書いてきた会報や最初のジェサップ・ワゴンで見せるために取っておいた巨大なニンジンなどを称賛した。彼の母の紡ぎ棒も、奴隷売買の勘定書とともに展示されていた。その近くにはミズーリ州ネオショーでマリア・ワトキンスが彼に与えた聖書が展示されていた。ジョージは生きている間、毎日それを読んでいた。いまそれは十歳の頃のジョージと兄弟ジムの写真の横に置いてあった。

 どんよりとした陰鬱な空のもと、群衆の多くは博物館の外に立ち、互いに彼らの旧友の物語を語り合った。ある同僚の教授は最近のジョージのインタビューを思い出してクスクス笑っていた。記事はジョージを「歯のない老人」と書いていたのだ。ジョージはその記事を読んで立腹していた。「ナンセンスだ」彼は怒りの声を上げた。「聞くのがはばかれたのかもしれないが、わたしはいつだって歯があることを証明することができる。いつもポケットに歯を持っているのだからな」

 ある裕福な黒人農民は、ジョージが彼に一日に1ニッケル(5ドル)貯めるよう促したこと、そして結果的に自分の土地と家畜を買うだけのお金を貯めることができたことを語った。

 物語は夜になっても語られ続けた。だれもがジョージが彼、あるいは彼女の人生に触れた特別な思い出を持っているかのようだった。

 ほかにもさらにジョージ・カーヴァーに栄誉が授けられた。逝去から六か月後、ミズーリ州ダイアモンドの生誕地が国定記念物に指定された。この時点で生誕地が国定記念物に指定されたのは二例しかなかった。すなわちジョージ・ワシントンとエイブラハム・リンカーンの生誕地である。また汽船がジョージにちなんで命名された。彼の肖像画が描かれた切手が発行された。1973年にはニューヨークの「偉大なアメリカ人のための名声の殿堂」に選ばれた。彼についての伝記は何十万部も売れた。

 シンプソン大学とアイオワ州立大学は彼に敬意を表して科学ビルを献じた。数えきれないほどの学校が同様に彼にちなんで名づけられた。

 死後何十年もたって、なおも伝記作家や歴史家が彼の長いできごとの多い生涯をまとめようと努めている。しかし結局、彼自身にはかなわないと彼は言うだろう。タスキーギ大学の彼の部屋でおこなわれた最後のラジオ・インタビューの中で、ジョージはつぎのように語っている。「なぜわたしひとりに敬意が払われているのか、わたしにはわかりかねます。偉大なる創造者がわたしに光と強さを与えてくれたので、はやく、徹底的に、この世でできることを少しだけ努力してやっただけなのです」

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