ダライラマ六世とその秘せられた生涯 

 

序 

 チベットおよびヒマラヤの歴史のなかで、ツァンヤン・ギャツォことダライラマ六世ほど謎に満ちて、とらえがたい人物を見つけ出すことはできないだろう。(著名テルトン)ペマリンパの末弟の直系の子孫ではあるが、1世紀半の時間によって、他の兄弟の家系とは離されてきた。ほのかに、しかしはっきりと見える彼の生涯は、すでに検証してきたように、偉大なる埋蔵宝典発掘師たち(テルトン)以上の複雑な謎と神秘に彩られていた。ツァンヤン・ギャツォはチベットという国のもっとも高い位置まで押し上げられた。しかし彼の重要性は彼の運命を操ることになる政治ではなく、死後にできあがった伝説のなかにあった。伝説は彼という存在のまわりで大きくなり、つねにチベットの民衆のイマジネーションをかきたててきた。これらの伝説は、短い生涯の確証の取れる事実と同様、歴史分析に用いられた。しかし批判的に分析したところで、謎は最後まで残った。神秘は本人から離れてそれらを生み出した社会のほうへと向いた。

 ペマリンパが死んだ1521年とツァンヤン・ギャツォが生まれた1683年の長い間に起こったもっとも重要な歴史的発展は、チベットとブータンで転生ラマを支配者とする神権政治がおこなわれたことである。チベットではダライラマ五世によって、ブータンではシャブドゥン・ンガワン・ナムギェルによって作られた政治体系は、多くの外部からの攻撃、内部からの反逆にも耐えて、今世紀まで生き延びてきた。このあとのチベットのダライラマやブータンのシャブドゥンは操り人形のような存在ではあったが、神権政治がつづくかぎり、その最終的な権威に疑問の余地はなかった。ブータンの神権政治は1907年に終焉を迎えた。憲法が改正され、世襲の王政にとってかわったのである。チベットも、古い体制は1950年代の中国の軍による干渉によって終止符を打つことになった。しかしながらチベットやブータンの高僧たちの多くは、国外で生き延びた。ダライラマは民衆からの広い支持を得ていたが、シャブドゥンのブータンにおいて権勢がおよぶのは大僧院の僧侶たちにかぎられていた。

 <聖職者=支配者>の転生制度が魅力的である理由のひとつは、最初に地位についた者には人を納得させるだけの力があり、その偉業は後継の世代に認知されやすいことである。個人的な支配のもと、チベットとブータンを結合することに、また政府に効果的な制度をもたらすことに成功したが、彼らが新しい、弾力性の少ない身体に移行するまでには時間がかかったように感じられた。にもかかわらず、ひとつの身体から他の身体に移行する瞬間、そして新しい転生が認定される過程は、現体制にとって潜在的な危険性をはらんでいた。チベットのダライラマ五世やブータンのシャブドゥン・ンガワン・ナムギェルの寿命をのばす試みは、しかしもっと大きな危険性をもたらした。ふたりの高僧の死はこうして秘せられた。彼らはこもりにはいっていると見せかけ、邪魔されるべきではないという雰囲気が作り出された。いまもその通称で呼ばれる「偉大なる五世」の場合、秘匿は1682年から15年間もつづいた。1697年にはじめてこの項のテーマであるツァンヤン・ギャツォがダライラマの転生であると宣言されたのである。一方ブータンにおいては証拠が吟味されながら、1651年から1705年までの50年以上もの間、隠されつづけた。この場合、秘密とはいっても、ほとんどオープンシークレットだった。しかし条件が整い、公的な許可が出されるまで、それが正式発表されることはなかった。

 ダライラマ五世の重要性と威信はなみなみならぬものがあったので、秘密を厳守するのは半ば強制であり、急務だった。転生であるツァンヤン・ギャツォの生涯に関しては、三つのレベルで秘密が守られることになった。一、ダライラマ五世の死は秘匿されたので、ダライラマ六世の誕生もその期間、大衆の目から秘匿されねばならなかった。二、六世は戴冠するのが遅く、民間人として育ったため、手の入っていない本来の性質を聖職者の生活のなかに持ち込むことになった。三、彼の1706年の死は正式には認められず、その後40年もの間、建前上ひそかに生きていることになった。六世の三つの秘密は重なり合い、しばしば相交わることがあった。その他さまざまなアングルから見ると、それらはぶつかりあい、矛盾しあった。なすべきことは、原因や根本的な問題をあきらかにし、行き詰っている点を整理し、首尾一貫したストーリーを構築することだった。私たちはこのようにそれぞれの秘密の歴史性を確立したり、否定したりすることに関心を持っている。同時に伝説や神話の力がリアリティのレベルであることを認識しなければならない。そして真実は「実際に何が起きたのか」という必要な、庶民の関心によってあきらかになったこととはまったく異なっていた。

 伝説が歴史的事実でないとしても、それを研究することによって、しばしば堅固な事実以上に人の心の歴史があきらかになるものである。物語を再現すれば、歴史の不明確だった部分が見えてくるだろう。過去というのは現在とおなじように、不確かで、混乱しているものなのだから。昔ながらの年代記作家だけでなく、現代の歴史家にも、紋切り型のパターン化した過去のバージョンを繰り返す傾向があり、本質的なもの、本来の姿は見落とされがちなのだ。


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