ダライラマ六世とその秘せられた生涯 

 

祖先と故郷 

 

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 ダライラマ六世の祖先と故郷については正確に知ることができる。というのも、年代記編者が六世の生まれと先祖に興味をいだかないわけにはいかなかったからである。また幸運なことに、ペマリンパの自伝のなかに末弟のウギェン・サンポのことが書かれてあった。ダライラマ六世はこの家系に生まれたのである。「地・鳥の年」(1489年)の最初の月、ペマリンパは、メンユル地区中央のウギェンリンと呼ばれる寺院にいるウギェン・サンポからの招待に応じて、ブムタンから東方へ旅立った。ウギェン・サンポは地元の少女とすでに関係を持っていたようだが、彼らの結婚はまだ正式なものではなかった。ウギェンリンで彼女の父親と会う段取りはとられていた。

 

 ウギェン・サンポの義理の父(ギューソ gyos-so)であるジョウォ・ドンドゥプが、赤い絹のスカーフとほら貝を持って私に会いに来ました。そしては私に言いました。「わしの娘ドルゾムはあなたさまの兄弟ウギェン・サンポのもとに嫁ぎました。それなのに、娘を違う人種の男に嫁がせたのではないかと、悪い噂が飛び交ったのでございます。あなたさまのような高徳のかたが来られてよかったです。あなたさまはラマで、インドでも、チベットでもひとしく尊ばれております。わしが悪くいわれることはなくなりました」

 私はこたえて言いました。「あなたに悪い噂があったかもしれません。私にも、国境の民族と結んできたのではないかとの悪意ある噂が渦巻いていました。でも私とあなたは前世からカルマで結ばれているのです。悪い噂など気にしないでください。そのかわりに乙女と花婿に何が必要かを気にしてください」。私は義父に金の巻物とトルコ石を贈りました。それから私はルブカルの義父の家に案内されました。そこですばらしい結婚の宴(マトン mag ston)が開かれました。

 

 ツァンヤン・ギャツォの存命中に書かれたが、根拠が不確かな文書に、少女はジャ地方の王タシ・ダルギェと関係を持っていたか、結婚していたと説明されている。この人物は、すでに述べたように、チベットの貴族におけるペマリンパの最初のパトロンであり、この地域の最高実力者だった。もしこの話が本当で、とくに疑う理由がないなら、二年ばかり前、ウギェン・サンポは兄とともに訪れた王宮で少女と会ったのかもしれない。しかしながらそうであるかもしれないが、少女の父親とのペマリンパの論議の見立ては、東ヒマラヤの人々の間で、宗教的威光が民族の分裂や疑念が渦巻くなかで突破口となり、勝利をもたらすかという魅力的な例となっている。とくに異なる民族間の結婚の前に横たわる障壁は、重要なラマが夫婦に祝福を与えたならたやすく消え去ることがわかる。

 ペマリンパの言葉からはっきりわかることは、ブムタンの自身の地元の人々はチベットの文化的中心の南に生きていながら、自分たちは少女の属する民族、メンパ族よりもはるかに優越していると考えていた。彼らを半野蛮の「境界の人々」とみなしていたのである。メンパ族から見ると、どちらが優れているか劣っているかはどうでもよかった。異なる民族と関係ができることになるので、結婚は反対されたのである。しかし東ヒマラヤの多種多様の民族の中で、ブムタンの人々とメンパ族はとても近い間柄だった。とりわけ彼らの言語は「プロト・東ボディッシュ」と呼ばれる共通する前歴史的根源言語にさかのぼることができた。しかしながら険しい地域に住む東ブータンのツァンラ(Tsangla)語族のなかにあって、ブムタンの人々とメンユル北部の人々はたがいに異なっていることをはっきり認識できた。

 われわれはペマリンパからは、少女の名前と称号と父親の家のことしか知ることができないが、家族を特定できるだけでも十分といえるだろう。ルブカル(Rubukhar)のジョウォ・ドンドゥプ(Jowo Dondrup)は、おそらく13世紀のその村に住んだジョウォ・ギャルポダル(Jowo Gyalpodar)という人物の末裔だろう。称号のジョウォ(主という意味)は部族の名でもあるが、他のいくつかの部族とおなじように、その血筋はチベットの王ティデ・ソンツェン(Tride Songtsen)の兄弟、ラセ・ツァンマ(Lhase Tsangma)にさかのぼることができる。彼は836年、亡命者としてこの地にのがれてきた。ジョウォ部落という平民化した貴族がメンパ族のなかに溶け込んだのである。彼らの血統のことは、1728年のブータンの年代記に記され、20代以上もつづいたことが確認できる。血統の半分は純粋な伝説ではなく、歴史的事実であることがわかる。この部落の一支系はベルカル(Berkhar)の村に定住した。彼らはジョウォ・ギャルポダルの兄弟ジョウォ・ルンドゥブ(Jowo Lhundrub)の末裔だった。この支系だけがこの地域にゲルク派を導入するのに寄与したようである。いくつかの小さな僧院と寺院がゲルク派大師のロブサン・テンパイ・ドンメ(Lobsang Tenpai Dronme 1475-1542)と彼の兄弟ツァンパ・ロブサン・ケツン(Tsangpa Lobsang Khetsun)によって建てられた。彼らはベルカル村のジョウォ・ダルギェの息子だった。彼自身鉄橋の聖人タントン・ギャルポの地元のパトロンだった。 

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