ダライラマ六世、その愛と死

宮本神酒男 翻訳

16 ポタラ宮足下の酒店

 ヤンツォンの酒店はいつもにぎわっていた。朝から晩まで高貴な客だけでなく、粗野な酔客が途切れることがなかった。ヤンツォンはどんな人に対してもそれなりにうまく対応し、どの客も満足して酒店を去り、後日またやってきた。この女主人のことを商売人だと言う人もあったが、むしろ交際家だった。

 彼女の私利私欲を求める心は根として地下深くに埋められていた。人々は大通りの大樹だけを見たのである。彼女は見せかけだけの核(さね)は小さくし、熟した果実だけを人々に見せたのだ。

 彼女は浅はかな人は満足させ、愚鈍な人には敬服させた。その人づきあいのよさによって平常心を保ち、興奮している人を海に沈めるようなことはしなかった。彼女には野心はなく、高すぎる欲望も持たなかった。生存本能にすこし味付けした程度でよかったのである。

 彼女は何でもよく知っていた。学識の浅い人からすれば、世故に長けた人に見えただろう。彼女には彼女なりの処世哲学があった。あらゆる面で他人の力を借り、あらゆる面で人を助けた。多くの人は、彼女は益をもたらすと考え、一部の人は、彼女は無害だと思った。年長者からすると、彼女のしゃべりかたやしぐさは女を感じさせ、若い連中からすれば、母性的な存在であり、やわらかさがあった。このようなことがうまく作用して、酒店はずっとにぎわっていたのだった。

 彼女が醸造するチャン(大麦酒)はまたじつにうまかった。その酒には一番出し、二番出し、三番出しがあったが、どれも清涼で、香りよく、甘酸っぱかった。飲めば娘たちの頬に紅が差し、若者たちは気持ちよく酔っ払った。

 ツァンヤン・ギャツォの目には、友情とぬくもりと自由と平等と歓楽がこの酒場にはあふれているように映った。ここにいれば、人を、人の生活を見ることができた。

 ポタラ宮は大きすぎ、かえって死んだ池のようだった。酒場は小さいのに、かえって大きな海のようだった。何にも縛られないで自由闊達に歌う彼らの歌に触発されずにはいられなかった。その歌の中にあふれる生活の息づかい、素朴な考え方、まじめな気持ち、たとえ話……そうしてますます彼らは酔っていく。

 摂政サンギェ・ギャツォは耳をそばだて、ツァンヤン・ギャツォが貴族の娘のもとに通い詰め、またいつも酒場で酒を飲んでいることを知っていた。ただずっとこのことについて思案したが、どう対処すればいいかわからなかった。彼はダライラマが政治に熱心になるのを恐れたが、このように酒色に浸るのもまたこわいと思った。

 俗諺にも言うではないか。酒を飲んだあとの人は始末が悪い、雨が降ったあとの道のように、と。

 もしものことが起きたときのために、両目でしっかりとポタラ宮のラザン汗の動きをとらえ、不利な事態にならないように気をつけねばならない。とはいえツァンヤン・ギャツォもおとなだし、正式に法座についてから三年が経過していた。それに頭脳的な人物とはとうてい言えなかった。このダライラマの前で教育者を演じたところで何の意味もないだろう。

 デシ(宰相)サンギェ・ギャツォは暫定的な方法を考えていた。すなわち金銭的にツァンヤン・ギャツォを封じ込めるのである。老人は権力にしがみつくが、若者はお金をうまく使いきれないものと彼は考えていた。

 康煕帝は清朝政府とチベットの関係を深めるため、毎年使者をチベットに送り、ダライラマやパンチェンラマと面会させていた。使者は皇帝自筆の書簡と高価な贈り物を携えていた。この時点でパンチェンラマは封号を下賜されていなかったが、皇帝は毎年五十包もの茶葉を贈り、パンチェンラマの寺であるタシルンポ寺の僧侶のお茶を提供していた。

 康煕五十一年(1713年)正月、皇帝は理藩院に指示を与えた。

「パンチェン・フトゥクトゥは、その人となりは静かで泰然、経典はすべて暗誦し、聖職をよく勤め、倦むことない。まことにめでたいことである。よってダライラマを封じた先例にならい、班禅額爾徳尼(パンチェン・オルダニ)に封ぜよう」

 ダライラマに対する待遇はさらによく、毎年ダルツェンド(現在の四川省康定)の税収からの白銀五千両を下賜した。ただしこのお金は宗教税のようなものであり、ダライラマに贈られるといってもそれは名目にすぎなかった。

 摂政サンギェは六世が金銭に関してはしみったれたところがなく、同時にあっさりとしていて、貪欲ではなく、口に出してあれこれ何かを要求することもないことを知っていた。彼は非常に年を取った、曽祖父にあたる僧を探し出し、尊師の身分で六世にかわって財政収支の管理をした。

 六世が一両の銀貨を要したときがあったが、仏の意思にそむいて出すことはできなかった。彼は日頃ポタラ宮中の財務制度には注意を払っていなかったが、外に出てのつきあいや飲酒に金を出せともいえず、ただ黙ってそれを受け入れざるをえなかった。結局酒店に行く回数を減らすしかなかった。このようなことが度重なり、ツァンヤン・ギャツォの心の中には不快感が積もっていった。ひとたび外出すると、酒は十分に飲めないが、かわりにたっぷりと遊び、なかなかポタラ宮に戻ってこなかった。

 ツァンヤン・ギャツォはいわば酒豪であった。鍛錬すれば酒量が増えるというものでもない。おなじ年齢、体質、性別で、おなじ量の酒を飲んでも、酔う人もいれば酔わない人もいる。ほかのことでは変わりなくても、飲酒に関しては人によって大きな差が出るのは不思議なことである。どうしてそうなのか? と疑問に思うが、だれも納得できる回答をすることができない。

 女店主のヤンツォンは酒飲みが好きだった。といっても彼らがよりお金を落とすからではない。彼女は酒店を開いたにもかかわらず、一口飲んだだけで酔ったり、すこし飲んで吐いたりするような客はわずらわしく、好きではなかった。それを表情に出すことはなかったが。

 彼女はタンサン・ワンポ(六世の偽名)のことを理解していると考えていた。何度か会って、彼女なりの結論を下していた。ここに、学問はあってもそれを使っていない、金はあるが使えていない、苦悩はあるがそれを吐き出せない好男子がいる、と。彼女は親切心からダワという名のチャン(大麦酒)の醸造が得意な娘をタンサン・ワンポに紹介した。

 ダワはよく酒を飲みに酒店に来ていて、タンサン・ワンポのことを気にし、あきらかに好感をもっていた。ヤンツォンはそのことに気づき、われらのタンサン・ワンポを彼女に引き合わせ、もっと懇意になってもらおうと画策したのである。

 このダワはじつは離婚歴があった。前の夫となぜ別れたかといえば、夫婦生活上、いわば彼が「能無し」だったからだ。彼女はお金にこだわる女ではなかった。愛情や痴情についてもとやかくいわなかった。ただ男気のある男を求めていたのである。ただしそんな男を探しても、永遠に見つかりそうもなかった。

 はじめツァンヤン・ギャツォは女店主の思惑に気づかなかった。何度か女のもとに通い、親しくなればなるほど、彼は悩ましく思うようになった。彼は女店主に愚痴をこぼすつもりはなかった。彼女は熱心すぎただけであり、たくらみがあるわけではない。彼はタルゲネのもとを訪ね、悩める心を訴えた。タルゲネはきっぱりと言った。

「わが活仏よ。早めにけりをつけたほうがいい。このダワという娘の気持ちがどうのこうのというんじゃない、いや娘の気持ちなんて薄い毛皮のようなものなのさ。肉のかたまりだと思えばいいよ」

 ツァンヤン・ギャツォはタルゲネの的を射た寸評に敬服した。以後彼はダワのもとに通うのをやめた。この恋愛は軽率で、線香花火のごときものだったが、それでも彼は詩を詠み、書き留めた。

 はじめてダワを見たとき、高ぶる気持ちを詩に表わしたものだ。

 

ああなんという見目麗しき乙女よ

茶と酒と料理までもが見目麗しい

たとえ死んで神になるとしても

あなたへの愛だけは成就したい

 

 彼はまた幻想をつむぎだす。

 

乙女が存在さえすれば

酒を飲みほさなくていい

若者が生涯生きるささえとなるもの

ならばいまここで出会いたい

 

 満足が得られないときも彼は苦しい気持ちを詠んでいる。

 

その肌と肉は日ごと親しさを増しているのに

かえって恋人の心はまさぐることができない

地面に絵を描くようにはいかないもの

まるで夜空の星の数をかぞえるかのよう

 

 彼はまた女店主ヤンツォンのことを詠まずにはいられなかった。

 

愛する人との逢う瀬は

酒家の女主の導きによるもの

もし罪の借りがあるとするなら

それはあなたが負うもの

 

 最後に彼は恋の未練を歌っている。

 

運命的に出会ったあでやかな娘よ

芳しい香りを放つ乙女よ

白玉を拾ったのに

それを路傍に捨てるかのよう

 

 六世の行状について、ポタラ宮の多くの人をあざむくことはできたが、ゲタンだけはあざむくことができなかった。彼は言ったとおりのことをする、隠したてしない人間だった。彼はまた六世の詩歌をいつでも見ることができた。というより、彼は六世の詩才に気づき、敬服し、それを書き留めていたほどだった。この抄録がラサの市中に流出し、民間に流布したが、無名の作者ということになっていたのである。

 ツァンヤン・ギャツォの詩歌はいつもヤンツォンの酒店で伴奏といっしょに歌われた。作者のツァンヤン・ギャツォは酒を飲むだけだった。自分の作った詩歌が人に愛されるのを見て、孤独にさいなまれながらも慰めを覚えていた。

 ダワもまた相変わらず酒店に顔を見せていたが、タンサン・ワンポに恨みを抱いているわけではなかった。毎度顔を合わせると友好的な笑みを浮かべ、それからは何事もないかのように新しい男友達のほうへ向かうのが常だった。

 女店主ヤンツォンは彼らがうまくいかなかった原因を発見した。彼女はタンサン・ワンポのことを見誤っていた。そのことをすまなく思い、穴埋めしようと考えた。めずらしく客の入りの少ない日、女店主は六世を自分の部屋に呼び、なぐさめるように言った。

「タンサン・ワンポさま、安心なさって。ダワは子供を産めない体なの。ダワをあなたのお嫁になんて、そもそも考えられなかったのよ。こんなのどうかしら。きれいな娘さんを私、知ってるわ。気が合うと思う。そんなに簡単なことじゃないけど、仕方ないの。お家がとても厳しいんだもの」

 タンサン・ワンポは信じがたいような顔をして頭を振った。彼は情感を浪費し、傷ついたような気がしていた。このようなことにはうんざりしていたのだ。この世界において尊敬しうる男を探すのも容易でないのに、本当に愛すべき女を探しあてることなどできるわけもないではないか。ヤンツォンの情熱的なことばに対し、彼は冷めた回答を返した。そしてうなだれたまま、坐っていた。

「あなたがどんな娘を望んでいるか、知ってるわ。金目当てではないってこと。また寝るのが目的でないってこと。情義を尽くしてほしいのね。こまやかな愛情がないといけないのでしょう?」とヤンツォンは母親のように慈愛をこめてゆっくりと語りかけた。

「もうひとつあるわ。あなたといっしょに歌える人、あなたの詩歌を喜んでくれる人であること。もちろん並みの美しさじゃだめね。町を歩けば王女のようで、店に坐れば菩薩のよう、空を飛べば仙女のような娘。あなたと一生添い遂げる娘。道で拾ったり、捨てたりするような女はだめね。はじめ駿馬のごとし、終わりは羊の尾のごとし、というでしょう。すこしは私の言ってること、図星でしょ?」

 タンサン・ワンポは敬服した。女主人の言っていることは核心をついていた。世間には自分のことを理解してくれる人は少なく、いわんや熱心に心から助けてくれる人となるともっと稀だった。ヤンツォンの語ることを聞いて、わだかまりはすべて消え去った。彼はうなずき、嘆息しながら言った。

「あなたのおっしゃることはまさにそのとおり。でもそんな娘がどこにいるというんだい? 私は馬に乗りたいとずっと思っているのに、結局いつまでも歩き続けているような気分だ」

「何も言わないで。私にまかせて。紹介するといったら、私は紹介するのよ。こういうことにかけては、私はいつも運に恵まれているの。数珠は百八つあるけど、それをつなぐのは一本の糸。幸せなめぐりあいは、いつも私の手を通してなのよ」とヤンツォンは興奮を抑えきれずにしゃべったが、ふと憂いの表情を浮かべた。

「でも私はあの娘をどうこうすることはできないわ。ただあなたたちが出会うようにはからうだけ。あなたは彼女を見ることができる。それは保証するけど、あの娘があなたを見るかどうかは、運次第ね。私はできるだけ努力してみるけど」

「ありがとう。で、その娘はどこに住んでいるんだい? 何ていう名なんだい?」

「このすぐ近くよ。名はユドン・ドルカル。どれだけ話しても、よくわからないでしょう。これ以上説明できないわ。でもこんな美しい花、ラサにふたつとないわよ。この娘はチベット劇で歌うこともできるの。今年も正月に文成公主を演じたので、とても有名になった。あなた、ご存知ではないの?」

「知らない」

「まあ驚いたこと! 聞こえない、見えないわけでもないのに、どうしたら知らずにすむのかしら」

「それは……」

「百聞は一見に如かず。見ればわかるわ。さっそく私、この娘のところに行ってくる。そして私の店に来てもらうことにする」

「そんなにあわてないで。考える時間がほしい」

 タンサン・ワンポははやる気持ちを抑えた。だてに学んだわけじゃない。慎重を期せねばならない。まずはウチュン・ドルカルがどういう娘なのか、よく知っておく必要があるだろう。もし彼女がパルチェンやダワのように詩の本意をぶちこわすような不粋な女なら、たとえ美しかったとしても、ふたたび会うことはないだろう。

 彼はうやうやしくヤンツォンに礼を述べると、酒店を出たあと、ポタラ宮には向かわず、ラサの街中に向かった。自分のかわりにタルゲネにユドン・ドルカルの偵察を頼もうと考えたのだ。

 タンサン・ワンポの姿を見ると、タルゲネは飛び跳ねるように喜んで出迎えた。あたらしい友人は山ほどできたが、依然としてこの幼なじみ以上の存在はなかった。俗諺にいうように、カタは多すぎても意味はない、一枚の白いカタがあればいい、ということなのだ。いや、白いカタどころではない、彼は青空に浮かぶ白雲だ! タンサン・ワンポの心はとてもやさしく、度量が大きく、ダライラマになったら、本来ならば神のような高座から下々を見るであろうに、彼は好んで庶民のなかで、ともに生きようとしているのである。黄色に染まらない、黒くならない、まさに白雲なのだ。

 タンサン・ワンポがお茶を飲んでいると、タルゲネは厳重に梱包した包みを取り出し、卓上にドスンと置いた。

「これは何だい?」とタンサン・ワンポはたずねた。

「音でわからないかい? 銀だよ。持っていってくれ」

「いらないよ」

「やせ我慢しないで。お金がないって知ってるんだ」

「だれがそんなことを」

「ゲタンだ。ゲタンはあなたのことをとても敬服していて、同情もしている。あなたを助けたいと思っているけど、命令にそむくこともできない」

「だれの命令だ?」

「ほかにだれがいる? 扁平頭の摂政さまに決まってるだろ」

「持っていってください」とタルゲネは重ねて言った。「おれがあなたにあげるわけじゃないし、貸すわけでもない。それにこれで終わるわけでなく、ずっとこれからあなたに渡されるものなのさ」

「私はおまえに銀を借りたわけでもない。どうして銀が必要なのだ?」

「おれの肉屋がどうやって開店したか覚えているかい」

「それはおまえが友だちだから私が助けたのだ」

「だから……こんどは友だちであるあなたのために贈る、というわけにはいかないか?」とタルゲネは自説を曲げない。「活仏にお供えをするのさ」

 そう言うと、タルゲネは両手で銀の包みを高くかかげ、六世の面前で跪いた。

 ツァンヤン・ギャツォはあわてて周囲を見回し、だれも見ていないことを確認すると、安心して言った。

「わかったよ、わかったよ。さあ立ち上がって。これはいただくから」

「そうでなくっちゃ」とタルゲネは喜んだ。

「今日おまえに会いに来たのは銀が欲しいからじゃない。私の衣食住すべては宮中の管理下にある。下僕たちもよく仕えていてくれる。お金を使う場所はヤンツォンの酒店だけじゃない。ほかにも意外と使うものなのだ。いまおまえに頼みたいことは……」

「言ってくれ。どんなことでもやるから」

 ちょうどそのとき店の門の外を女の影がよぎった。

「パルチェンだ!」とタルゲネは叫んだ。「いったい何があったんだい? もうパルチェンのことは好きではないのかい?」

 タンサン・ワンポはため息をつきながら一首歌った。

 

白鳥は沼を去りがたく

わずかでもやすらぎを得たく思う

されど湖面は氷に閉じられ

わが心を萎えさせる

 

「声をかけることはないよ。おれを見てくれ。パルチェンといっしょだろう? 肉を売ってるんだ」とタルゲネは皮肉っぽく言う。「おれが売るのは牛肉と羊肉。彼女が売るのは自分の肉だが」

「タルゲネよ、そんなふうに言わないでくれ。世間にはいろんな人がいるんだ。おおらかに見たほうがいいよ」とタンサン・ワンポは言い、間を置いてからまた一首歌った。

 

死ぬと至る地獄には

閻魔さまが業(ごう)を映す鏡を持っておられる

人が正しいか正しくないか

その鏡をごまかすことはいささかもできぬ

 

 タルゲネはその詩を聞いて興奮気味に言った。

「そんな鏡があるだろうか。その鏡は四角いのか丸いのか。見たことないから、わからないよ。いやそんなものあるはずないさ。おれは人を殺したりはしない。まあおれみたいな小人物はえらくいいこともできないが、ひどく悪いこともできないのさ。あんたは大人物だから、人々をしあわせにすることもできるし、ひどい目にあわせることもできる。気をつけたほうがいい!」

 ツァンヤン・ギャツォは深くうなずいた。

「人々をしあわせにするなんて道は、いまのところ見つけていない。人々を不幸にすることなんて、絶対にできない。そもそも私は大人物じゃない。ただ普通の人とおなじ生活を送りたいだけだ。おまえにもわかってもらえると思う」

「そうだ、よくわかるよ。パルチェンの姿が見えたので、ついおれは余計なことをしゃべってしまったようだ。さあ、おれが何をすればいいか言ってくれ」

「私のかわりにある人のことを調べてくれ」

「だれをだい?」

「ユドン・ドルカルだ」

 

 数日のうちにタルゲネは任務を終えた。ヤンツォンの言っていたことは、ほぼ正しかった。ユドン・ドルカルは今年19歳。ちょうどいい体つきだが、背は高い。歩く姿は舞うように美しい。

コンポ地区出身だが、そこは森林が多く、ラサと比べて湿潤である。美人の産地として有名。そこはまた鳴き声の美しい鳥でも知られる。彼女の家の近所から集めた情報によると、彼女はお金にはこだわらず、享楽には興味なく、自分をひけらかすこともない。

目立つ点は彼女には才能があり、学があり、情義に厚いことだ。チベット劇が得意で、文成公主を演じる。歌舞がとても好きで、とりわけランマと呼ばれるラサの曲調を歌うのがうまい。

彼女にはトプテンという名の恋人がいたが、一ヶ月前に別れた。別れた理由は不明。彼女に言い寄る男は数知れず。そのなかには威厳のある者、軽佻浮薄の者、誠意ある者、情熱的な者、美貌にひかれた者、有名だからと近づく者、若造、老人、金持ち、貧乏人……。それはまるできれいな花のまわりに蜜蜂か蝿かわからないが、さまざまな虫が唸りながら飛び回っているかのようだった。彼女はしかししっかりした考えを持っているので、誰に対しても答えなかった。

彼女を好きな男は川底の石のようにたくさんいたが、仙山(理想的な男のたとえ)はいなかった。長所のある男は天上の星の数ほどいたが、もっとも輝いている星は見えていなかったのだ。

 ツァンヤン・ギャツォはこの報告を受けて、かえって彼女を一目見たくてたまらなくなった。彼は誇りをもって、勝利を収めるべく戦場に加わる将軍のようだった。高い代価を払わない占領や苦痛を伴わない幸福などは、意味のないことだった。それはただ女を求めるのではなく、偉大なるポタラ宮への挑戦、人生への挑戦、彼をがんじがらめにしているものへの挑戦だった。彼は自分が失敗するとは思わなかった。たとえ失敗しても、魂も屈服することはできない。彼の心は須弥山の上にあった。彼はそれを回る軌道の上に踏ん張っているかのようだった。彼はその気持ちを歌った。

 

中央の須弥山の王よ

おまえはそこにしっかりと立て

日月がおまえの周囲をめぐる

方向をまちがえることなどありえない

 

 彼はユドン・ドルカルに会うことに同意し、その旨をヤンツォンに伝えた。






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