世界から忘れられた場所

  1895年、インドシナの奥にあいていた地図の空白部分にほんのすこし色が塗られた。アンリ・ソルレアン王子に率いられた、地理学者エミール・ルーをはじめとする生物学者や言語学者など専門家を含んだフランスの探検隊は、サルウィン川やイラワジ川(エーヤワディー川)の源流地域に切れ込むように入っていったのである。ハノイを出発した一行は雲南大理府を経て、怒江(サルウィン川)や瀾滄江(メコン川)を北上し、現在高黎貢山と呼ばれる高山を越え、独龍江に到達した。この仏ドルレアン隊が独龍江に接したはじめてのヨーロッパ人と思われる。[1]

 
独龍江よりずっと手前の怒江にしてロープ橋やつり橋は一般的。

 その百年後、私がはじめて独龍江に入ったときでさえその貧しさは衝撃的だったが、ルーはどういった第一印象をもったのだろうか。『イラワジ川の源流を求めて』中の独龍族の描写は偏見と差別に満ちている。

「女たちは髪を結うことはなく、ほとんど伸ばしっぱなし、伸びて目を覆うほどである。ル人(Loutse 怒族)よりも豪華な彩石のネックレスや魔除けの装飾品をまとっているにもかかわらず、醜さといったらなかった。口のまわりや鼻のてっぺんには刺青が彫られ、美しいとは到底言えない。しかも汚いことといったら! 生れたときから死ぬときまで、キウ人(Kioutse キウはニンベンに求。独龍族)は雨を利用したり、川の浅瀬でからだをきれいにしたりするということを考えたこともないのだ。それだけでは十分ではない。肌の色は黒く、その肌の上にはさらに何層にも垢がのっているのである。こんな人々のあいだにも人の気を惹こうという心はあるのか、銀はないものの、大きな鉄の環のイヤリングを男女ともつけているが、重すぎて耳たぶが垂れている。際立った装飾品としては、膝の裏や腰のまわりに無数のワイヤーを巻き、黒のワックスを塗り、二、三ヶ所で金属の環をくくりつけている。これらは安価なものだが、キウ人に特徴的である」。

 万事がこういった調子で、野蛮人と決めつけた物の言い方である。しかしあとで述べるように物質的な豊かさのないこの渓谷にはそのぶん精霊や妖怪などがたくさん人間と同居しているのだ。もちろんキリスト教的見地からすれば神のいない不毛な地ということになり、独龍江村には早くからプロテスタント系の教会が建設されていた。しかし怒江沿岸のリス族(プロテスタント)やチベット族(カトリック)とくらべると、教会の勢力は弱く、いまだに民間信仰のほうが盛んなのである。

[1] Emile Roux “Searching for the Sources of the Irrawaddy” 1898, 1999


倉庫は高床式で校倉造り。右はシャーマンのクレンの家の中。清めの儀式を行う。

 
独龍江は、半端な地域を流れている。西蔵自治区東南端の察隅(ザユrdza yul)県に発したキンタ川(skyid mt’a chu喜びの涯ての川!)は、独龍江として雲南省をかすめ、国境を越えてミャンマー領に入るとンマイ(nmai)川と称し、さらにミッチーナの北でマリ(mali)川と合流して名をイラワジ川(エーヤワディー川)と変え、ヤンゴンのデルタ地帯から海に没入する。イラワジ川はミャンマーの真ん中をずどんと通る、国の背骨のような大河だ。中国領を流れるのは、ほんの一瞬にすぎない。地形で国境線をさだめるならば、ミャンマー領であっても不思議ではないのだ。年間降雨量が四千_にも達する湿潤な気候は、アッサムからひとつづきであることを示す。また、独龍江と怒江(サルウィン川上流)のあいだには高黎貢山という四、五千b級の山脈が横たわり、一年の半分は峠が雪に閉ざされ、往来は不可能になってしまうが、ミャンマーへは川伝いに抜けることができる。もっとも、国境線上にもタンタンリカ山という大障壁があるので、中緬両側からアクセスしづらい、しかも北にはヒマラヤがでんと居坐っているので、独龍江地域は隔絶した、どんづまりの場所にあるということなのだ。

  歴史においても、独龍江やそこに住む独龍族(トゥルン族。 チベット=ビルマ語族に属す。人口5816人。察瓦龍(ツァワロンts’a ba rong)のヌー族約六千人は独龍語を話すという。またミャンマー側の独龍族には五つの系統がある)が顧みられることは、ほとんどなかった。『新唐書』の 「紋面濮」、『南詔野史』の「綉面部落」が独龍族を指すかどうかは、わからない。独龍族の旧称チウ人(チウは求にニンベン。前述のキウ人と同じ)が史書にあらわれるのは、ようやく清代になってからのことだ。『雲南通志』(19世紀前半)にはつぎのように記されている。


「チウ人は瀾滄江大雪山(玉龍雪山)の外、鶴慶、麗江の西域外に居る野夷である。草を結んだ、あるいは樹皮で覆っただけの庵に住む。男子は髪を束ね、麻布の短衣を着、裸足である。婦女は銅環をつけ、麻布を着る。山中の洞窟に住む者もいる。木の葉をまとい、生肉を食らい、太古の民さながらの生活を送っている。


  これではまるで原始人そのものではないか。しかし漢地からそのように差別的に見られてきたのはまちがいなく、上述のフランス隊もその影響を受けたのかもしれない。

  独龍族が外界と接触をもつようになったのは、雍正年間(1723〜35)に麗江木氏土司下の維西康普土千総と葉枝土千総の管轄に入ってからだと思われる。独龍族は黄蝋や麻布、獣皮などを清朝に献納した。のちチベットの寺院に権利が移され、管轄する察瓦龍(ツァワロン)土司に「超度費」の名目で献納することになった。同時期に貢山のチベット寺院もわざわざ山を越えて、租税を徴収しにやってきた。怒江や瀾滄江のリス族も、独龍江に来ては狼藉をはたらき、独龍族を奴隷にしたり献納を強制したりしたという。

  弱小民族の悲哀のようなものが、感じられる。「野夷」と蔑称で呼ばれたように、一等下の野蛮人とみなされてきたのである。しかし社会組織は彼らなりに発達させていた。15の父系氏族(ニル) 下の 54の父系家族(ジコロ)が、家族長(カサン)のもとに、土地共有制を取り入れてまとまりを保っていた。


  史書上の記載は乏しいが、神話・伝説などの口承文芸は豊富だ。独龍族の人類起源神話は、アジアの他民族の神話(日本の国生み神話も含む)とも共通する点が多く、いわば汎アジア的な神話といえる。

  昔、人と鬼とはいっしょに暮らしていた。あるとき鬼は母親がでかけているすきに家にはいり、赤子を殺し、鍋で煮た。その肉を、戻ってきた母親に知らせないで食わせた。そのことが露見し、人と鬼との関係は悪化した。以来、殺人や盗みなど悪いことが起こるようになったので、天神グムは洪水を引き起こして人類を滅ぼし、鬼の害を除いたあとで、またあらたに人類を繁殖させようと考えたのである。さて、雨が降り続いたので、ひとびとは繁茂したキノコを採って家に帰ったけれど、ある兄妹だけが十分に採れず、カオカプ山のてっぺんにたどりついた。するとそのとき大水が押し寄せてきて、頂上のすぐ下まで水につかってしまったのである。のち兄妹は結婚し(近親相姦だが、天神の許可を得ている)九男九女を生んだ。彼らから人類は繁栄した。

  カオカプは雪山神。万物を雪水ですすいで清め、そこから最初の男女が生まれた。カオカプ山上の岩窟が住まいだという。洪水を生きのびた兄妹から生まれた九男九女はこの岩窟で育ったので、人類揺籃の場所ともいえる。李子賢氏はカオカプ山を高黎貢山主峰(5060b)に比定しているが、カオカプが独龍語でなくチベット語である以上(kha ba dkar po 白雪の意)、チベットの聖山、梅里雪山(カワカポ)を指す可能性も排除しがたい。なお、天地を結ぶ九段の土台(あるいは梯子)が架かっていたのは、独龍江下流のムクムタン山。

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