魂を飛翔させるシャーマンたち

 コンチェントリ(後述)

  独龍江は、いわば霊的意識の発達した地域だといえる。このような場所で、シャーマンは社会のかなめのような存在であり、よきにつけ、あしきにつけ、それなしには機能不全に陥ってしまうのだ。

  シャーマンはたんなるペテン師よばわりするには、あまりにも危険が多く、そのわりには益の少ない仕事である。ここに半世紀前に起ったさまざまな事例をみてみよう。

40年代末、熊当と迪政当には四人のナムサ(シャーマン)がいた。そのうちひとりは治療に力を発揮したが、他の三人はいかさまとみなされ、村びとに殺された。

50年代、独龍江では病気が多く発生し、そのぶんナムサの数も増えた。ある年、独龍江じゅうの九人のナムサが、中流域の孔目に集まり、治病にあたった。ところが彼らはひそかに話し合い、病気を根絶しないで、いくぶんかは残すことにした。病気がまったくなくなったら、「飯の食い上げ」になるからだ。しかしその謀議が露呈してしまった。彼らは憤慨した群集によって処刑された。

  熊当にナムセンというシャーマン(ウであり、ナムサでもあった)がいた。彼のナムは酒や肉を供えないと、怒って病気にさせたり、害をもたらしたりした。あるときナムセンは、チコンクエンに「二、三日以内におまえの家族のだれかが、毒蛇に咬まれるだろう。家の門の近くで、赤い蛇にやられるのだ」と言った。それでチコンクエンは酒を贈り、害を未然に防いだというのだ。

アパイはナムセンがじぶんの親戚を呪い殺したと考えた。彼は刀をもって追いかけ、ナムセンは翻然と崖から川に飛び込んだ。人々は邪悪なナムが死んだのは、当然の報いだとみなした。

  ナムサペンというナムサがいた。彼はレムダン村で、アパロンペンの親戚を治療していたが、死んでしまった。アパロンペンはナムによって殺されたと思い込み、ナムサペンを殺害した。

  シェロンクルというナムサがいた。彼はうだつのあがらない、怠惰なナムサとみなされていた。妻に死なれ、子連れの女と再婚したが、その子どもをいつも虐待していた。7、8才になった子どもは、父(ナムサ)が溜索(ロープ橋)を渡るとき、ロープを切って川底に落とした。

  このようにシャーマンはつねに死と隣り合わせなのである。人を害することもできるが、同時に恨みも買いやすいのだ。

シャーマンは、大きくナムサとウにわけることができる。ナムサはナムという天の精霊を守護霊とし、ウはジプランなどの悪鬼を味方につける。他にシュンマというタイプのシャーマンもいる。限られた時間のなかで、わたしは3人のシャーマン(二人のナムサ、一人のウ)に会うことができた。


クレン(49)ナムサ

  
いまは亡きクレン。この小さな身体に霊力が宿っている。

わが独龍江踏査最奥の地は、クレンが住む熊当だった。ここまで来るとさいはての寂寥感が漂い、閉塞感に圧しつぶされてしまいそうになる。われわれが村に到達したとき、クレンは農作業に出ていた。近所の子供が呼びにいったが、その子の服はぼろぼろで、体じゅう汚れ、裸足だった。
 やってきたクレンは身長一五〇センチ足らずの小柄な、笑うことなど忘れてしまったかのような、無愛想な紋面の初老の女だった。クレンのヒーリングパワーは独龍江ではよく知られていたが、このときは「病人がいない」という理由で、治療活動を見ることはできなかった。
 クレンは部屋のすみ(西南方向)で鈴を鳴らしながら、清めの祈祷をおこない、ナム
(精霊) を呼んだ。重要な道具である太鼓は見せてくれたが、この小さな儀礼では用いなかった。太鼓は何世代も前にボンポからもらったものだという。独龍族の民間信仰はボン教と関係があるのだろうか。

それからクレンはインタビューに応じてくれた。ただ、このとき聞いたものと、一五年前の資料とではあまりにも食い違いが多いことを認めざるをえない。(以下は、資料をベースとし、それにあらたな情報を付け加えた)

  クレンはチャンロン氏族の出身で、夫のディツェン・ワンポンはチャムレイ氏族出身のウ(シャーマンの一種)だった。彼らの間に十人の子が生まれたが、うち六人は生後まもなく、二人は長じて死に、残る二人だけが成長した。

  クレンが少女の頃、重い病にかかって臥せていると、枕元にたくさんの帽子を被った小人があらわれた。それがはじめて見たナム(精霊)である。しばらくして太陽光が部屋に射すと、病は癒えた。

1978年頃、六人のナム(男三女三)が毎月一回、訪れるようになったが、そのことは自分の胸の内に秘めておいた。

  1980年、熊当生産隊長の妻が病気になり、大ナムサ、ムーランタムティンが治療のためよばれた。そのころクレンも病気がちだったので、この大ナムサに診てもらうことになった。彼は言った。

「おまえはナムがいるのに、そのことを秘密にするから、病気になるのだ。もし今後も隠しつづけるなら、おまえか家族のだれかが死ぬだろう」

  クレンはひどく怖がった。それでついにナムサになると、病はよくなり、働けるようになったのである。このあとナムは月二回訪れるようになった。二回とは、陰暦の毎月一日、十五日、あるいは三〇日である。

  ナムは以下のメンバー。[ 果社Eの調査1983による ]

ワンミ・ティソン(男)ムシュン・チュムとともに最重要のナム。この二人のナムは、精霊が持ち去った病人のプラ(魂)を取り戻す。痢疾(下痢を伴う伝染病)の治癒を得意とする。ワンミ・ティソンはいつも青色の衣裳を着る。顔は猿のように長いが、小鳥に化けて、家のなかを飛び回る。

ムシュン・チュム(女)漢族の娘のように長いお下げを頭の上にまとめ、白の服を着る。ときには青のスカートをはく。首飾りやイヤリング、ブレスレットは着けない。鉄の鏃を携帯し、痢疾病鬼を殺す。この鬼は豚のような姿をしていて、身体をふるわすと、豚や羊の毛として飛んでいき、人の身体のなかにはいって痢疾を引き起こす。

  そのほか、ペンセルナム(男)タンカンチェンロン(男)ロンセルワパマ(女)ツァイジチュム(女)の計六人。

  われわれにクレンが語ったナムは、八人だった。人数が増えるのはありえることだが、名前が大きく異なるのはなぜか、わからない。

  それは、セニチャラナ  ニチャラペンセ  ナンドシュンマ  シャムンモミム  ナニマプータ  ナンカイマパ  レンランミム  ソンヤーカレンの八人。性別、役割(対する病名)は不明。

  クレンによれば、ナムは天界のナムムリ(あるいはナムルカ)という世界に住んでいるという。彼女はじぶんのプラ(魂)を飛翔させ、木梯子をのぼってナムムリに行くことができる。そこはとても清潔で、美しく、いたるところに花が咲き乱れ、香気に満ちている。ナムたちは、透きとおるような玻璃窓が嵌まった七、八階建ての邸に住んでいる。レムラという男女のナムの頭目もそこにいて、ナムをつくり出している。ナムたちは、下界の人間が供えた食べ物や酒、供犠の家畜などによって生活している。彼らは勉強をし、文も書く。ナムの学校があり、そこで人間の病気や治療法などについても学ぶのだ。

  ナム(精霊)とプラン(鬼)は対の存在といえる。ナムを管理するのはナム・ポエンであり、プランを管理するのはプラン・ポエンである。人間界と同様、さまざまな問題が発生するので、彼らはけっこう忙しいのだ。ナム・ポエンは人間に祟るナムをきびしく取り締まる。違反したナムにたいしては、アツァラという竹矢で串刺しにし、動けないようにする。しかしナムによってはものともせず、祟るのをやめないのもいるという。

  ナムは鎖のようなものを使って、天と地の間を行き来するが、人間のプラ(魂)は木梯子を上り下りするという。人間の生死を司るのは、天神グムである。生まれることが天神グムによって決定されると、そのプラはまず天上界に生まれる。それから木梯子を下って、地上に生まれるのだ。死ぬことが決定され、プラが「ヘルム界[1]」に送られると、もう助かる道はない。「ガルワ界」だと、まだ望みがある。ナムサが、死にかけたプラを救出できるかもしれないのだ。

  クレンのナムは、氏族(チャンロン氏族)内で継承されてきたものだという。このナムはもともと、昔、ひとに追われて川に飛び込んで死んだナムサの化したものだった。その後スエンリジョン(丘の上)家族のナムと、ガンロン(江湾)家族のナムに分れたらしい。ナムは一世代、二世代を隔てることはあるが、氏族外に伝わることはない。

[1] 天九層の第八層。「ガルワ界」は第五層。天界の構造については以下参照。

[天の構造]

第一層「ナムニェンゲゾ」 最上層。プラン(鬼)の親玉であるムペポンが住む。

第二層「ムーダイ」ナム、人、動物の頭目である天神グムが住む。グムは人や動物の生死を司るだけでなく、男女の配合や生育、家庭生活までも決定する。いわば運命神。

第三層「ナムルカ」ナムの山。ナムの頭目たちが往来する。

第四層「ムダー」一般のナムが住む。

第五層「ガルワ」鍛冶匠のアシ(霊魂)が住む。チベット語(mgar ba)

第六層「ダーランブラ」グムに捧げられた畜生のプラが棲む。

第七層「チャリソン」ナムが天地の間を往来するとき通る中継地点。

第八層「ヘルム」人家の屋根から上。

第九層「タムカ」人家の囲炉裏の上方。

  以上はクレンの語る天だが、大ナムサ、コンチェントゥリの天十層と大同小異である。大ナムサ、ムーランタムティンは天を三層と捉える。クレンらが最上層を鬼の親玉の棲みかとするのにたいし、ムーランタムティンは、グムの住む「グムムリ」とする。注目されるのは、いずれも天の最下層を家のなかの囲炉裏の上方としている点だ。つまり、ごく身近なところに天の一部があるということなのだ。手のとどくところにある天。そこはもっと上の天につながる、天の入り口なのである。ひとびとは酒を飲んだり、肉を食べるとき、囲炉裏の鼎(三つの石、三本の鉄脚)に酒や肉の一部を振り撒く。それは漠然と天に捧げるのでなく、天の最下層部に捧げているのだ。


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