スワートと玄奘、パドマサンバヴァ
                                 宮本神酒男 ⇒HOME

玄奘三蔵は、1400年前、スワートを訪ねている。

城(ウダカカンダ城)の北方へ、山川を越えてゆくこと600余里、烏仗那(ウッジャーナ)城に入った。ここはスヴァストゥ河(いまのスワトー河)を挟んで、むかしは伽藍1400ヶ所、僧都1万8千あったが、いまはともに荒れはてて減ってしまった。(……) ウジャーナ王はだいたいマンガラ城(いまのミンゴーラという)におり、そこは人口も物資も豊かな町である。城の東方4、5里に大ストゥーパがあり、奇瑞が多いという。ここはむかし、釈尊が忍辱上人となり、カーリ王のために、身体を切られたところである。>

 当地の仏教が斜陽であったとはいえ、まだまだガンダーラ仏教の一大センターであったことは疑いない。1400年後、スワートの主体民族、イスラム原理主義的なパフトゥン人(パシュトゥン人)が仏教の痕跡すら消し去ろうとするとは、天才僧侶玄奘をもってしても、想像すらできなかっただろう。

 玄奘が目撃した大ストゥーパはいまもミンゴーラ郊外に、草に覆われてはいるが、その壮大な姿を見せている。私はここで近くを通りかかった女性を遠目からカメラで捉えた。と、2、3人の男が血相を変えて走ってきて「おまえいま写真を撮っただろ。とんでもないやつだ」と因縁をつけてきたのだった。私は「撮ってない」と言い張り、難を逃れたが、事件に巻き込まれかねない緊迫した瞬間だったといえる。

 チベット人には、スワートの旧名ウッジャーナ、すなわちウッディヤーナ(庭園の意)は、オギェン(O rgyan)やウギェンの名でよく知られている。というのは、ウッディヤーナはチベットの「第二のブッダ」パドマサンバヴァの出身地とされるからだ。

 数多くのパドマサンバヴァの伝記のなかでも、オギェン・リンパが1285年頃に地面を掘って発見した『蓮華遺教』(Padma bka’ thang)がもっともよく知られている。そのなかに描かれるウッディヤーナはおよそ現実味がなく、いわばファンタジーの世界である。実際のスワートは何百年もむかしにイスラム化し、現在はイスラム原理主義がシャリーア(イスラム法)のもとに支配する地だが、チベット人のなかでは理想郷でありつづけているのだ。

 しかしパドマサンバヴァといえばいうまでもなく、8世紀後半にタントラをチベットにもたらした密教僧だが、チャールズ・アレンが著書『シャングリラを探して』のなかで主張するように、スワートにはほとんど密教の痕跡が見当たらないのだ。唯一可能性があるのは、ミンゴーラのブトカラ遺跡に残る蛇を巻いた呪術師の石彫りだ。この蛇を巻いた姿は、密教行者の典型的なスタイルである。

 とはいえ密教が隆盛であったとはとうてい思えない。パドマサンバヴァという存在自体伝説色が強すぎ、実在しなかったか、あるいは複数のインド人タントラ僧の象徴的な姿だったのかもしれない。

 私がジャハナバードの大仏に興味を持ったのは、大仏の製作時期と(複数かもしれないが)パドマサンバヴァの生きた時代がおそらくおなじだからだ。この偉大なタントリストがここで性ヨーガを実践したとは思えない。しかし磨崖仏のすぐ傍らのおなじ岩にあいている穴は、チベット文化圏各地の「パドマサンバヴァの穴」とよく似ていた。
 たとえばフムラ(ネパール北西部)のベユル(隠れ里)にある「パドマサンバヴァの穴」はとても狭く、入って抜けようとしたところ、途中で引っかかり動けなくなってしまいそうになった。
 悪戦苦闘しながらも、私は胎内感覚を味わっていた。洞窟は子宮のメタファーなのだ。ジャハナバードの大仏の横の狭い穴に密教の真髄の痕跡を嗅ぎ取ったように私は感じたのである。


*補足

<だれがスワート渓谷に住んでいたのか?>

 パドマサンバヴァの子孫がイスラム原理主義者のパフトゥン人(パシュトゥン人)なら面白いと私は思ったが、そういうことはなさそうだ。今から一世紀近く前、スワートを訪れた探険家オーレル・スタイン卿は、15世紀頃にダルド人からパターン人(パシュトゥン人)に入れ替わったと述べている。ということは、パドマサンバヴァはダルド人だったのだろうか。現在、ダルド語支に分類されるのは、パキスタン内ではカラシャ語、シナ語、カシミール語などである(註:おそらくアフガニスタン側のカフィール人に近いダルド人だったであろう)。これらの地域の人々には、ときおりコーカサス系の西欧人的な顔立ちが混じっている。パドマサンバヴァがダルド人なら、インド北中部の典型的なインド人顔を想像するべきではない。

 スワートの歴史を駆け足で紹介しよう。
BC1700 アーリア人の定着
アケメネス朝 BC550〜330頃
ギリシア侵攻 アレクサンドロス大王の侵攻(BC327頃)
マウリア朝 BC317〜180頃
 バクトリア朝(ギリシア系) BC255〜139頃
 クシャーナ朝 AD1世紀〜3世紀頃
 サーサーン朝 AD226〜651
 白フン(エフタル)AD5世紀〜567年頃
● 中国からの求法僧。法顕(399〜414)宋雲(519)玄奘(629〜630)
 ヒンドゥー・シャーヒ朝 AD8世紀〜10世紀
 ムスリム時代 AD1001〜
 ムガール朝
 ユスフザイ・パターン時代
 スワートのアーフーンド(Akhund)の時代 AD1845〜

 パドマサンバヴァが実在したとすると、生まれたのは8世紀前半から中盤にかけてということになる。上の図でいえばヒンドゥー・シャーヒ朝の時代にかかるかどうか、という微妙な時期だ。630年頃には玄奘がこの地を訪ねているが、上に引用したように、仏教は「荒れはてて減ってしまった」という衰退の状況にあった。8世紀、ヒンドゥー教徒の王が統治するようになったとはいえ、仏教はまだ一定の勢力を持っていたはずだ。しかしヒンドゥー教や新興のイスラム教の圧力が強まるなか、仏教が呪術やマントラなど密教的な方面に傾斜していくのはもっともなことだった。

チベットでは第二のブッダと称される8世紀のグル・リンポチェことパドマサンバヴァは、ウッディヤーナ、現在パキスタンのスワートに生まれたといわれる。