ガンダーラからチベットへ
形象の旅

宮本神酒男

 いやな予感が的中した。

 2007年秋、パキスタン西北スワート地区のジャハナバードの大仏を見たとき、昔からよく知っているのに、同時にもう二度と会えない友人のような気がしてならなかった。翌々日私はバスに乗って首都のイスラマバードに戻り、旧知の著名なパキスタン人登山家のオフィスを訪ねた。彼は開口一番言った。

「よくまあ、スワートへ行く気になりましたね。パキスタン人だって危なくて行かないですよ。昨日、大仏に銃弾がぶちこまれたとニュースで言っていましたし」。

「え、それはジャハナバードですか?」

「そうです。弾をぶちこんだだけなので、破壊されたわけではないけど」

 翌2008年秋、スワートには寄らず、北部のギルギットまで足をのばしたとき、ジャハナバードの大仏の、少なくとも頭部が破壊されたということを聞いた。私がスワートへ行ったその1、2ヵ月後にどうやら破壊されたらしい。

 なんという因果か、私はジャハナバードの大仏を見た最後の外国人かもしれなかった。あの柔和で慈悲深い表情の大仏がこの世に存在しないなんて、とうてい信じることができなかった。せめて最後の様子を墓碑銘のように記すことが、供養になるのではないかと思う。

 スワートは緑と水と光があふれていて、「東洋のスイス」という旅行会社風のキャッチフレーズがぴったりあうような美しい地域だった。

 しかも中下流はガンダーラ遺跡をはじめ遺跡だらけで、仏教美術に興味を持つ人々が世界中から集まってきた。遺跡が多いということは、だれもが住みたいと思うような、魅力的な土地ということだ。

ところが数年前から治安が悪化し、とくに2007年夏から地元の原理主義民兵組織と国軍の戦いが激化し、ペシャワールから南のトライバル・ゾーンとおなじくらい危険な場所になった。戦闘だけでなく、自爆テロも頻発し、住民はスワートを抜け出して難民キャンプを形成するにいたったのである。

 2007年秋、スワートにはすでに観光客は自分以外ひとりもいなかった。主要都市のミンゴーラの街中は地元の人々にあふれ、活気があり、危機が迫っているようには見えなかった。しかしその二ヶ月前、首都イスラマバードで神学生たちが赤のモスクを占拠し、機動隊とにらみあっているとき、近くのバザールでテロの爆破があり、30人近くの死者が出た。

ちょうどそのとき、じつは似たような占拠事件がスワートでも発生していたのだという。一触即発の緊張感が町全体を覆っていた。私はそれでもいくつかのガンダーラ遺跡を訪ねたかった。とくにどうしても見たかったのが、ジャハナバードの磨崖仏だった。

 タクシーで近くに迫ると、道路から対岸の森の中に露出した磨崖仏を見ることができた。しかし車から降りて、木橋を渡ると、まったく場所がわからなくなったので、柿園で柿の箱詰めを手伝っていた十代の少年ふたりに案内を頼んだのだった。ちなみに柿はジャパニーズ・フルーツと呼ばれている。

 20分ほど木々のあいまを歩いて、磨崖仏にたどりついた。こんな柔和な微笑みを見たことがあっただろうか。製作年代は7世紀か8世紀頃と推定されているので、1300年ものあいだこうして微笑みつづけているのだ。高さはせいぜい5メートルほどでさほど巨大ではないが、スワートの百余りの磨崖仏のなかで唯一ダメージが少なく、いい状態で保たれていた。

 しかし冷や水をかけるように少年らは言った。「あんたがつぎに来るとき、このブッダはもうないよ。どこかのブッダみたいに爆破されるのさ」。

 どこかの、とはバーミヤンのことだった。バーミヤンを爆破したのはパシュトゥン人主体のタリバンであり、おなじ民族の、しかもタリバン支持者の少年たちが言うのは、たんなる悪い冗談などではない。実際、微妙なのだが、あとで確認した情報をまとめると、この翌日、もしかすると同日、民兵がやってきてこのジャハナバードの磨崖仏に銃弾を浴びせた。民兵組織の精神的リーダーが命令を下したのである。このときは、破壊されるにはいたらなかった。しかし私はこの大仏の余命があとわずかであることを感じ取っていた。

 タリバンによるバーミヤンの大仏の爆破は世界に衝撃を与え、故平山郁夫画伯をはじめ多くの人々が立ち上がり、文化遺産の保護を声高に叫んだ。しかしこの小さなジャハナバードの大仏を救おうとだれが努めただろうか。そう考えると、無性にくやしく、哀しくなるのである

 つづき
⇒ スワートと玄奘、パドマサンバヴァ

 

クシャン朝以降の後期ガンダーラ美術を代表するジャハナバードの大仏。撮影後まもなく破壊されてしまう。(他の写真

三蔵玄奘も見たスワート・シャンカルダルのストゥーパ(左)と地元の博物館所蔵のブッダの足跡。

大仏まで案内してくれた柿園で働く少年たち。彼らの「大仏破壊宣言」は冗談ではなかった。(余談だが、ここの柿は食べると必ず喉に詰まってしまう。パニックに陥ったこともある)

ブトカラ遺跡に残る石彫りに蛇を巻く呪術師の姿があった。密教行者とみなされる。

チベットの寺院の壁画に描かれる第二のブッダ、8世紀のパドマサンバヴァ(グル・リンポチェ)。ウッディヤーナ(スワート)出身とされる。

アラハバードで行われたマハー・クンブ・メーラのとき、蛇を巻いたサドゥーを見かけた。スワートの遺跡に残る密教行者となんと似ていることか!