チベットの英雄叙事詩

ケサル王物語

 トトン、人頭鼠身のバケモノに 

 翌日、トトンはジョルが本当に死んだのかどうか確信が持てなくなってきた。ゴンパ・レツァが行方不明になっていることも心配の種だった。彼はゴクモのテントへ行こうか、ゴンパ・レツァの洞窟へ行こうかと迷った。迷った挙句洞窟に行くことに決めた。

 修行洞窟はさほど遠くはなかった。近づくにしたがい、洞窟から青い煙がもくもくと上っているのが見えた。ゴンパ・レツァが中にいるということだ。洞窟の前にたどり着くと、入り口が岩でふさがっていたが、あらたな穴が二つ開いていた。覗き込むと、なかは瓦礫や石が散乱していて、その下にゴンパ・レツァがうつ伏せになって倒れていた。その顔はどす黒かった。杖は傍らに転がっていた。

 ゴンパ・レツァは死んでいた。「ともかく杖は戻ったわい」とトトンは杖が戻ってきたことにほっとした。
 彼はネズミに変身し、洞窟のなかにもぐりこんだ。しかしなかに入った途端、杖が消えた。彼はネズミに変身したため杖が見えなくなったのだと考え、頭だけもとに戻した。ところがそれでも杖が見当たらないので、あせって呪文を唱え、身体ももとに戻した。しかしこれでは洞窟から出られなくなってしまう! 彼はまたあせって呪文を唱え、頭をネズミに戻して穴にもぐりこもうとした。しかしこれでは身体が大きすぎて穴を通ることができない。このときはじめて彼はジョルの仕業だということに気づいた。

 そのジョルは洞窟の前にやってきて、頭がトトンで体がネズミのバケモノを発見した。

「この気持ち悪いバケモノは、人を食べる魔物にちがいない。こいつが人を殺すのと同じ方法で殺してしまおう」

 トトンは風に震える柳葉のように唇を震わせ、歯をガチガチ鳴らし、嘆願した。

「尊敬するジョル様! そなたは尋常の人ではありません。神の子です。仏です。ラマです。本尊です。怒っていらっしゃいますが、お許しください。私はあなたの叔父のトトンです。殺さないでください。助けてください。あなたのおっしゃることは何でもいたします」

「ああ、叔父さんだったのですか。あなたの変身が中途半端なのは、リンにたいしてよからぬ企みをもっていたからですよ。あなたのダクロン地方の兵馬はたいへん強いのですが、その戦闘能力は外敵ではなく、内部に向かっているようです。これは内紛をもたらす原因となり、リンにとっても不利益なことです。もしあなたがリンにたいし悪い考えを起こさない、内部闘争を起こさないと誓っていただけるなら、あなたの身体をもとに戻してさしあげますよ」

 トトンはただちに誓った。ジョルは三人の証人を呼んだ。すなわち馬頭明王、タクラ・メバル、リンの大般若波羅蜜経である。

 ジョルはトトンの誓いを聞いて、その身体をもとに戻した。また自分の身体の本体を母の傍らに戻した。

 トトンはジョルを害することに失敗し、それどころか危うく自分の命を落とすところであったことを知った。自分の力ではジョルの敵ではないことを痛感し、毎日嘆息する日々を送ることになった。



⇒ つぎ 









反面教師的な重要な役割をもつトトン。嫉妬深く、自分勝手で、貪婪で、欲情が強い。ケサルの引き立て役。
 宝馬を盗んだことからタジクとの戦争が、王妃を略奪したことからスムパとの戦争が勃発するなど、トトンの身勝手な行為が混乱を巻き起こしているが、言い換えれば物語のコマ回しである。
 ただしたんなる悪人ではなく、すでに述べたように、王位に就いてもおかしくないタクロン部落の長(ギャルポ、すなわち王とも訳せる)なのだ。リンという国は部落連合国家という側面があり、タクロン部落は王位を主張できる有力な部落のひとつ。



謀略に失敗したトトンはネズミ人間になってしまう。下左は無邪気に笑う赤ん坊のジョル(ケサル)