チベットの英雄叙事詩 

ケサル王物語 

18  競技中、美少年、占い師、神医、トトン、兄シェカルと会う 

 神馬キャンゴ・ペルポの乗ったジョルは飛ぶように疾駆し、駿馬を一頭一頭抜いて行った。目の前を走るのはリン国三大美男子の誉れ高いツァンペ・ンゴルクだった。ジョルはまだ本気になるのは早いと考え、神馬の喉を叩いて速度を落とした。

 ツァンペ・ンゴルクをじっくり見ると、たしかに美しかった。光り輝く額、バラのような色の頬、真珠のような歯、星のような目の美少年である。そんな美少年が真っ白の緞子の長衣を着て雪山のような白馬にまたがっていた。ジョルは感嘆せざるをえなかったが、その心の内はわからなかったので、探りを入れることにした。

「やあ、ンゴルク、ぼくがだれかわかるかい」

 少年は競技のことばかりが頭の中にあったので、声をかけられて驚いたが、ジョルのほうを向くと即座に言った。

「もちろんわかりますよ。リン国の人がみな獅子を見分けられるわけではないでしょうが、ジョルを知らない人はいないでしょう」

「それはよかった。じつはあなたに助けてもらいたいんだけど」

「ええ何でもおっしゃってください」

「われら二人はなんと対照的だろうか。あなたは美しいのに、ぼくの醜さといったら。あなたは金持ちなのに、ぼくの貧しさといったら。われらはおなじ天と地のあいだに住んでいるのに、どうしてこれだけの違いがあるのだろうか。われらの才能にそれほどの差はないはずなのに。どうかぼくがあなたとおなじくらい美しくなるよう、おなじように金持ちになるよう助けてくれ」

「え、なんですって。もちろんお助けしたいですよ。でも競技が終わるまで待ってください。終わったら私の家に来てください。財産の半分をお分けしましょう」

「どれくらい待つことになるのだろうか」

「だっていま、あなたにさしあげるものなんて何もないでしょう? ああ、そうだ、この珍しい修行帽はどうでしょうか」

 その帽子が価値あるもの、つまりパドマサンバヴァの修行帽であることをジョルは重々承知していた。それに少年の心が外見と同様に美しいこともわかっていた。この帽子のすばらしさを少年は知っているのだろうか。よく知らないままごく普通の贈り物として選んだのだろうか」*パドマサンバヴァの修行帽(o rgyan padma'i sgom zhwa)はケサル王物語の語り手の帽子のもとになっていると言われる。

 ジョルは意図的に軽蔑的な調子でたずねた。

「この帽子をもらったらどんないいことがあるんだい? かっこよくなるのかい? それとも金持ちになるのかい?」

「ジョルさん、この帽子のすばらしさをほんとうにご存じないのですか。これはわれらディ部落の宝物なのです。あなたはほんとうに美しくなりたいのですか? 美しくとも、それで衣食が満ち足りるわけではありません。美しいか醜いかなんて、表面の皮膚の問題にすぎません。ほんとうの美しさは、人の心の問題なのです。あなたは歌を聴いたことはないですか。青年が甲冑を身につけたとしても、勇敢さがなければたんなる意気地なしです。女性がきれいな服を着ていたとしても、良識がなければたんなる尻軽女でしょう。この帽子を被ったところであなたは美しくなるわけではありませんが、美しい以上のものを得られるにちがいありません」

「へえ、それはどういうことなのかね」

「この帽子のてっぺんにある4本の羽毛を見てください。これは四方に遮るものはなにもない、ということを象徴しているのです」

 

四つの側面が表わすのは四大洲 

八角が象徴するのは八中洲 

折ってふたつの平面をあわせれば 

四角形ができあがる 

三つの房飾りが垂れ下がれば 

五害三毒は身に染まない 

四つの側面は色白く、柔らかい 

それを載せれば心が変じて光明となる 

六弁の蓮の葉は緑鮮やか 

六道衆生は解脱を得る 

左右の耳は高くそびえて 

知識と知恵は無尽に生まれる 

 

「ジョルさん、どうかこの修行帽を受け取ってください。あなたにぴったりだと思いますよ」

 ジョルはそう言われて喜び、帽子を頭の上に載せ、かぶっていた羊皮のぼろぼろ帽子を懐にしまった。そしてマメ地方のダーキニーにもらった水晶瓶と八吉祥の絹のカタを取り出し、ンゴルクに渡した。彼がより美しく、より豊かになるよう祝福の言葉を添えた。

ジョルはふたたび馬を走らせた。参加者が乗った駿馬を何頭も追い抜いていくと、ふとモマ(占い師)のクンシェ・ティクポが目にとまった。彼の占いはよく当たると評判だった。ジョルはさりげなくクンシェ・ティクポの横に並んだ。

「モマ(占い師)さん、今日はあなたに占ってもらいたいのですが」

「ああ、ジョルだね。何を占いたいのだね?」

「ぼくは思うのですが、インドの法王や中国の皇帝、その他18の王位に就くのに馬が速いかどうかなんて関係ありません。どうしてここリンの国だけが国王になるのに馬の速さが重要になるのでしょうか。馬が速ければ王、遅ければ奴隷だなんて、おかしなことではないでしょうか」

「それは私が答えることではないな」とモマ(占い師)は眉をひそめた。

「たしかにそうですね。それにあなたに答えていただきたいというわけでもないのです。ぼくはただ自分がこの競争に勝つことができるかどうか、占ってほしいのです」

「ジョルよ、この先を争っているときに占いをする時間はないが、ジュティク(ボン教徒が好む色のついたヒモを使ったヒモ占い)ならできるだろう」

 クンシェ・ティクポは馬を走らせたり、とまって祈りをあげ、ジュティク占いをしたりした。そして叫んだ。

「ジョルよ、いい占いが出ましたぞ」

 

ジュティクの最初の結果は、天空の結び目。

青天が覆いかぶさったかのような形。

これは天下を治めたかのようでもあります。

それはあなたがリン国の王となる予兆でしょう。

 

二番目の結果は、大地の結び目。

これは大地を創造するときの基礎の形。

これは民衆が安らかに暮らすことを意味しています。

人心を得た国王となる予兆でしょう。

 

三番目の結果は、海の結び目。

千万本の水流が集まった形。

これはすべての氏族が力を合わせることを表しています。

それはまたドゥクモのよき夫となることの予兆です。

 ジョルは破顔一笑した。クンシェ・ティクポの名声は虚名ではなかったのだ。ジョルは感謝のしるしとして真っ白のカタ(吉祥スカーフ)を贈った。

 ジョルは馬に乗り、ふたたび走り始めた。しばらくして突然顔色を変え、苦しみ始めたかと思うと落馬した。地面に倒れたままうめきはじめた。

「ああ、痛い! 痛い!」 

そのとき神医と呼ばれる医者のクンガ・ニマが通りかかった。

「ジョルさんよ、いったいどうされましたか」

「8年もの流浪生活ですっかり病んだ身体になってしまいました。お医者さま、どうかぼくに薬をくださりませぬか」

 クンガ・ニマは薬袋を持っていなかったので、処置の施しようがないと思った。救急用の薬がわずかにある程度である。しかし医者として痛がるジョルを放置するわけにいかなかった。彼は馬から降りて横たわるジョルの前に跪いた。

「ジョルや、痛むかい? どこが痛むのかね? さあ脈をみよう。それから、薬を献じよう」

 神医(ラジェ)クンガ・ニマはジョルの手を取り、脈をみた。ジョルはまだ痛そうにしている。

「痛い! まるで熱病にかかったかのようです。心は痛みで焼けています。でも腰は冷病にかかったかのようです。氷が刺さっているかと思うほどです。下半身は温病にかかったかのようです。熱湯を流し込んだかのような痛みです。身体の内側の心は破裂しそうです。外側は衰弱しています。中央脈管は断裂したにちがいありません。お医者さま、これはまさに私ジョルが死を迎えようとしているということなのでしょうか」

 ジョルの脈をみおわった神医は、目を輝かせながら言った。

「ジョルよ、病が風、胆、痰の3種に分けられるのは御存じだろう。これらは貪、瞋、痴(とん、じん、ち)の三毒から生じるものである。これらが入り混じって、424の疾病が生まれるのだ。しかしジョルよ、あなたの脈はこういった症状とは合致しない。脈はむしろ病気がまったくないことを示している。四大元素はうまく調和している。ジョルよ、なぜ病気でもないのに病気を装うのか。栄冠を勝ち得て、王位を射止めるのはジョルをおいてほかにいないだろう」

 すると突然ジョルは跳ね起きた。顔面上にあらわれていた病相は消えていた。彼はカタを神医の首にかけ、笑いながら言った。

「リン国では、クンガ・ニマはすばらしい医者だと言われています。今日は失礼ながら試させていただいたのだが、噂どおりの医者だということがわかりました。競馬のあとまたお会いしましょう」

 ジョルは馬を走らせると、叔父の総監ロンツァ・タゲンに追いついた。

「叔父さん!」

「おお、ジョルか。この半日はどこにいたのかね。これ以上ゆっくりしていたら、トトンが王位を取ってしまうだろう」と語気を強めた。

「どうしろというのです? どうしようもないですよ。叔父さんの心の中ははっきりとされているにちがいありません。王座というのは天が決めることです。畜生に奪わせるようなことをするでしょうか。グル・リンポチェも天もあかしをたててくれるでしょう。まだ競技の最中ですが、参加者のだれもが少なからず善事を行っています。でも闘いが熱くなるのはこれからでしょう」

「ジョルよ、競馬は児戯ではないぞ。さ、走れ。天神がおまえを守ってくださるだろう」

 総監ロンツァ・タゲンはそう言うとジョルの馬のお尻を鞭でビシっと叩いた。すると神馬キャンゴ・ペルポははじけるように走り出した。あっという間にジョルの姿は前方の砂塵の中に消えていった。

 トトンはといえば、自慢の駿馬の上でのんびりと構えていた。終点のグラザ山はもうそれほど遠くないので、喜びをおさえきれなくなっていた。好敵手といえばジョルぐらいのものであったが、その姿は視界に入ってこなかった。馬頭明王(ハヤグリーヴァ)の予言は一点たりとも間違っていなかった。玉座、七宝、絶世の美女センチャム・ドゥクモ、これらをもってタクロンの家に戻ることができるとは……。

 うれしくて、うれしくてたまらないとき、目の前にジョルの馬が現れたのだった。激しく燃え盛る焚火にかけられて蒸発する水のように、彼の喜びは瞬時に消えた。それでも彼は、表面上は平静を装った。彼は笑いを浮かべながら言葉をしぼりだした。

「おやおや、甥っこではないか。どうやってここへ来たんだね。ま、ともかく、おまえは今日、だれが勝つと思う?」

 ジョルは叔父が内心あせっているのを見抜いた。彼は自分を聡明な人間と思い込んでいる叔父をからかおうと考えた。

「叔父さん、ぼくは玉座の前を二度、馬に乗って走ったことがあります。しかしそこに坐ったことはありません。いま、競技に参加している兄弟たち全員が汗びっしょりで、どの馬も疲れて震えがとまらないありさまです。いったい終点にたどりつけて、しかも玉座に坐ることのできる人なんているのでしょうか」

 トトンはジョルが二度玉座の前を走ったことがあると聞いて内心あわてたが、玉座に坐ったことがないと聞いてほっとした。しかしこの乞食のような甥の気勢をどうやったら削げるだろうかと考えた。一番いいのは、競技を続行するのを断念させることだ。曖昧な笑みを浮かべながらトトンは言った。

「終点にたどりつける人はいるだろう。それでも王位に就かなければ、それはそれでいいことなのだ。これは馬の速さを競う競技にすぎないと、若くて無知なる人は言うかもしれない。しかし実際競技に勝ったら、面倒くさいことが山ほど出てくるのだ。いいことばかりじゃないんだよ。こんな歌、聞いたことあるかね」

 

光り輝く太鼓よ 

それは実際木の上に張った皮にすぎない 

雪のように白く輝く法螺貝よ 

それは実際虫の殻にすぎない 

 

雷鳴がとどろき、竜が吟じると表されるはち(シンバル)よ 

本体は青銅の楽器である 

肉と脂を切ることはできない 

しぼっても乳は出てこない 

こしっても暖かくはならない 

食べても飢えをしのぐことはできない 

糞だまりの花びらのようなもの 

色がよく、緑葉が茂っても 

そんな供え物はかえって神を汚すだろう 

キャロ部落に良識ある女はいない 

一目見て恋に落ちて、夫婦となる 

これはイタズラ好きの家の精 

甘い果実には毒がある 

食べて口中に広がる甘み 

腹まで降りたら命はない 

どれほどの部落の首領が同じ目にあったことやら 

耳に心地よい言葉の響き 

それはのち負担となってのしかかる 

 

「ジョルよ、叔父の親切心から忠告しておこう。競馬についてはそんなに無理をすることもないぞ」

 ジョルは叔父がごちゃごちゃとしゃべっているのを受け流し、冷淡に言い放った。

「もうすでに競馬にはたくさんのよからぬことが起こりました。いまさら叔父さんは何を恐れるのですか。ぼくなんか恐れるにたりませんよ。いいことはみな他人に譲っていますし、よくないことは自分が対処してきました。この競馬に関しても災難があれば私が何とかしますから」

 そしてジョルは愛馬を鞭打ち、去って行った。舞う砂塵のなかに、叔父のトトンは残された。

 トトンははたと気づいた。自分はジョルにからかわれていたのだと。もとより人をだますのが好きなのに、まんまとだまされてしまった! 彼はくやしくて、くやしくて、震えるのを抑えることができなかった。しかし落ち込んでいる場合ではなかった。彼は馬の尻を鞭打つと、全速力で前に駆けだした。

 

 しばらく走ると、ジョルは兄(異母兄弟)のギャツァ・シェカルの姿をとらえた。ひとつの計略が頭に浮かんだ。

 ギャツァ・シェカルは白い鏡のような甲冑をまとい、腰には宝刀を差し、「背に白いぶちがある良馬」に乗り、全身の力をふりしぼって走っていた。馬の白い鬣(たてがみ)は汗でびっしょり濡れていた。四本の脚は小刻みに震え、いななきも声にならなかった。

 そのとき突然黒馬に乗った黒い人が現れ、道をさえぎった。

「おや、ギャツァさん、聞きましたよ。キャロ家の財産とセンチャム・ドゥクモさんがあまたの手に渡ったそうじゃないですか。さあ、早くそれらをここに出してください。さもないと、馬上で血が流れることになりますぞ」

 ギャツァ・シェカルは震え上がった。

「黒い魔物よ、妄想してはいけない。われらリン国の人間がそなたに七宝と娘を渡すことなどできるわけがないのだ。王を称することができるのは、わが弟ジョルだけだ。弟ならばそれだけの能力を持っているだろう。このことを理解したなら、さっさと先を急ぎなさるがよい。そして地獄で閻魔王を呼びたまえ」

「ほう一戦を交えたいということですかな」と黒い人は歯をむき出して笑った。その歯からは血がしたたっていた。

「よかろう!」とギャツァも懐から宝刀を抜いて、黒い魔物のほうへ切りかかった。しかし宝刀は空を切り、すんでのところで彼は馬から転げ落ちるところだった。見上げると黒馬に乗った黒い人の姿はなかった。そのかわりキャンゴ・ペルポに乗ったジョルがニコニコと笑っているのだった。

「シェカル兄さん、そんなに刀を振り回さないでください! ぼくはただリン国で異常事態が発生したとき、とくに兄弟間の争いが勃発したとき、お兄さんがうまく対応できるかどうか、また王位をうまく保つことができるかどうか、試してみたいと考えただけのことなのです」

 ギャツァは正体がジョルであることを知ると、厳しい顔をして言った。

「弟よ、兄は試されるのは好きではないぞ。天神からはすでに予言を賜っているではないか。四魔を倒し、天も地も、向かうところ敵なし、と。兄としておれは弟をいたわるだけで、ほかには何も考えないのだ。弟よ、早く馬を走らせ、競技に勝って王位を取ってほしい」

「どうして? 兄いさんは王位についてリン国を手中におさめたいとは考えないのですか? もしそうでないのなら、こうして乞食になる必要がないではないですか」そう言いながらジョルは馬からひらりと降りて、ぼろぼろの服を脱ぎ棄て、地面にべったりと坐って動かなくなった。

 ギャツァもあわてて馬から降りた。

「ジョルよ、何も王になることが重要だと言っているのではない。衆生が幸せになることが重要なのだ。衆生のために働くことがわれわれに課せられた運命なのだ。そんなにゆっくりしていたら、王の座につくことができないだろう。そうしたら衆生に災難を及ぼすことになるじゃないか。もしトドンが王になったら、おまえの存在意義がなくなってしまうではないか。ジョルよ、衆生のために立ち上がって馬に乗ってくれ」

 ジョルは兄の言葉を理解した。空を見上げると、時間がそれほどないことに気づいた。トドンははるか先を行き、玉座にも近いだろう。ゆっくりしている場合じゃない。わずかの油断を後悔することがあってはならない。ジョルは馬に乗り、終点に向かって全速力で駆けて行った。


⇒ つぎ 









漫画に描かれた競馬のシーン。リンで一番のイケメン青年ツァンパ・ンゴルクやモマ(占い師)のクンシェ・ティクポ、神医と称せられるクンガ・ニマらが登場する。彼らもリン三十英雄に数えられる。