チベットの英雄叙事詩 

ケサル王物語 

19  ジョル、勝利し、王位に就く。世界の獅子大王ケサル・ノルブ・ダンドゥと称する 

 玉座にまであと少しの地点にまで来て、トトンは興奮をおさえることができなかった。愛馬がもうひと踏ん張りすればこの闘いに勝利し、国王の座に就くことができるだろう。勝利はタクロン家のものとなるのだ。

 そうなれば敗れた人々は嫉妬の念でいっぱいになるだろう。しかしそれも仕方ないことだ。勝者になるというのも、つらいものだ。財宝の一部くらいくれてやってもいいような気もするが、それでは勝った意味がないからな。

 トトンは馬の両腹を蹴って、玉座に向けてラストスパートをかっけようとした。

 ところがトトンの愛馬は意に反し、前に進もうとしなかった。それどころか後ずさりしはじめたのである。玉座は遠のくばかりだった。彼は手綱をしめて止まろうとしたが、馬は言うことを聞こうとしない。

「この馬は呪術でもかけられたのか」

 どうしようもなかったので、彼は馬を降り、手綱を引いて玉座に向かって歩き始めた。

 すると突然馬が地面にひっくり返った。馬はあえぎながら悲しそうな鳴き声をもらしている。トトンはあわてて馬にかけよった。愛馬を置き去りにすることは、やはりできないのだ。彼が馬の鬣(たてがみ)をやさしく撫でると、馬はもう鳴くことはなかったが、呼吸は乱れたままだった。彼は手綱を思い切り引っ張って愛馬を動かそうとしたが、もはや頑として動こうとしなかった。

 後方には何人もの馬に乗った人々がやってきていた。彼は意を決し、愛馬を捨てることにした。残ったすべての力を振り絞って玉座に向かって走ろうとしたが、竹筒の上を歩くようによろよろするだけで、前に進まなかった。全身から汗がしたたり落ちた。振り返ると、彼の馬は足元にいた。その目は悲哀に満ち、まるで「ご主人様、助けてください!」と叫んでいるかのようだった。

 そのとき神馬キャンゴ・ペルポに乗ったジョルが眼前に現れた。トトンは全身が縮みあがったように感じた。馬が立ち上がれないのに、なお玉座に向かって走ろうとする様子を見て、ジョルは冷たく笑い飛ばした。

 トトンは笑い声を聞いてムッとした。

「この汚い乞食め、おまえはなんで笑っておる!」

「尊敬する叔父さま、いまぼくに向かって話しかけておられるのですか」

 トトンはそれには答えないで質問を浴びせた。

「ジョル、おまえはなぜわしを困らせようとしているのか。なぜわれらダクロン家の玉座を奪おうとしているのか?」

「玉座がタクロン家のものですって?」

「そうだ。当然のことだ。そのことは馬頭明王が予言していたのだ。リン国の者ならだれでも知っておるだろうに」

「そうですか。それならぼくはここを動きません。どうぞご自分で行ってください。それならいいでしょう?」

「ジョル、二度とわしをからかわないでくれ。おまえがここから離れないのなら、どうやってわしが玉座に近づくことができるだろうか」

「どうしてですか? いままで、ぼくは叔父さんの近くにはいなかったではないですか」

 トトンはハッとした。
「たしかにジョルはいまのいままでここにいなかった。まさかとは思うが、馬頭明王の予言が間違っていたのではあるまいか。玉座がタクロン家のものでなかったなら、競馬の勝者が自分でなかったとしても不思議じゃないだろう」考えがとめどもなく浮かんできた。

 トトンはあわれな愛馬の目を見た。思わず彼は馬の首に抱き着いて大声をあげて泣きじゃくった。

「叔父さん、叔父さんはいまでも勝者は自分だと確信していますか」

「いや、いや。そんなことどうでもよい。わしにとって大事なのはこの馬が……」とトトンは馬のいななきのような泣き声をあげた。

「叔父さん、じゃあもしぼくが馬を治療することができたなら、この馬を貸してくださいませんか」

 トトンは泣くのをやめ、しきりにうなずきながら言った。

「おまえに任せるよ。わしはただ、馬が以前とおなじようになったらと願うだけだ」

「ぼくはただ中国に行ってお茶の交易をしたいだけです。荷駄を馬に載せてもどってまいります」

「そりゃあいい!」トトンの心の中からすでに玉座への関心は消えていた。愛馬の病気のほうが目下の心配の種だった。

 ジョルは燦然と輝く金の玉座を前にしても、けっしてあわてなかった。玉座のためにどれだけの人間が必死の形相で戦ってきただろうか。どれほどの馬が疲労のあまり血を吐いただろうか。トトンはどれだけのお金を費やしただろうか。わが馬キャンゴ・ペルポにはどれだけ苦労をかけさせてしまっただろうか。それは王が座るたんなるイスにすぎないのではないか。いや、それは権力の象徴であり、財の象徴であり……。

 ジョルは周囲を見回した。天空は青く、草原は緑にうねり、雪山は白銀に光り、岩山は峻厳とそびえていた。これらすべてをこの玉座は治めるのだ。こう考えると不思議と安心し、彼は玉座へとつづく階段を上って行った。

 そのとき突然空に彩雲が現れ、色とりどりの虹に乗った5人の吉祥天女が登場した。彼女らは手に五色の矢と宝箱を持っていた。王母マンダラツェは矢筒と宝鏡を持っていた。兄嫁にあたるゴクギャ・カルモは宝瓶を持ち、たくさんの天女(ダーキニー)を従えていた。

 神馬キャンゴ・ペルポが金の玉座の横で三度、長くいなないた。すると大地が揺れ、岩山が崩れ、水晶山(ツァリ)が割れて宝の蔵の門が開かれた。マチェン・ポムラ神、守護神ケンゾ、竜王ツクナ・リンチェンらに人々は茶をささげた。諸神は勝利の白いかぶとを被り、青銅の鎧を着け、赤い藤の盾を持ち、宝石が象嵌されたマモ神(天女)の帯を着け、戦神(ダラ)の虎皮の矢筒を持ち、ウェルマ神の豹皮の矢筒を持ち、長寿の下着を着け、戦神の腰帯をまとい、天竜八部の靴をはいていた。これら諸神がジョルのまわりを囲み、整然とならんだ。

 曜(ザゴ)神はガルダの弓を、マチェン・ポンラ神は鋭利な宝剣を、ケンゾ神は三界を征服する無敵の矛を、竜王ツクナ・リンチェンは青蛙が九度変じてできた縄を、ドルジェ・レクパは石の綱を、戦神ニェンダルマは水晶の小刀を、ギャチェン・シェンハレは山を割く斧を献上した。

 競馬会を見に来ていた人々は、目前に繰り広げられる圧巻の光景にただ驚いた。これほどの多くの神々がやってきて歌い、踊り、天上の妙なる音楽を奏でるとは! まるで夢の中のできごとのようだった。

 その誕生以来、ジョルは黒雲に遮られた太陽だった。泥のなかに隠れた蓮の花のようだった。衆生のためになすことは多々あったのに、人々はそのことに気づかず、ジョルを貶めることさえあった。そのため彼は母とともに四方をさまよい、漂泊の日々を送ったが、天はいま彼がその衆生のなかの王となることを命じたのである。新しい王は衆生のために尽くすだろう。

 ジョルは王位に就き、世界の大獅子王ケサル・ノルブ・ダンドゥと称した。(ノルブは至宝、ダンドゥは敵を制するという意味)

 諸神は霊妙なる音楽を奏でたあと、祝福しながら去っていった。リン国の人々は夢から醒めまいとしているかのように、金の玉座に向かってケサル王の名を連呼した。その歓声は山をも動かし、天上の彩雲は踊り、海の波の花は飛び回った。

 ついには太陽が黒雲を散らし、蓮の花が泥水から出てきた。リン国にケサル王があらわれたので、衆生は安寧の日々をすごすことができるだろう。

 ケサル王はなおも、一言もしゃべらなかった。獅子王が話すには、われらがひとつにならなければならない。人々の願いが一致したとき、歓声はやみ、あたりは静寂が支配した。獅子王ケサルは金色に輝く玉座から立ち上がった。彼は人々が何を待ち望んでいるか、よくわかっていた。熱狂的に迎える人々を前に、ケサル王の口がついに開かれた。

「競技に参加した勇士たちよ、リン国の人々よ、私は天神の子にして竜王の孫、大獅子王ケサル・ノルブ・ダンドゥである。私が人間世界に降臨して12年の時が流れた。辛苦をなめてきたが、こうして今日金の玉座に登ることができた。これはつまり天に昇ったということである。衆生が私のような者に従ってくれるかどうか、確信を持っておらぬが」

 リン国のすべての人々は地面に這いつくばっていた。ケサルが玉座に登るとき、上界からは花の雨が降り、中界にはツェン神が色鮮やかな虹をつくり、下界では竜神たちが妙なる音楽を奏でた。そんなふうに王位に就いたケサル王に従わない者などいるだろうか。彼らは必死に天に祈った結果として、ケサルが王になったのだと感じていた。天に祈りが通じ、神の子が下界に派遣されたのである。

 ケサルは人々が敬虔であり、誠実であることを知ると、さっそく大臣選びに取りかかった。

「私はこれから大臣を指名しようと思う。鎮東将軍には、ベンパ・ギャツァ・シェカル。サタム王のジャン国との攻防を担当する。鎮南将軍には、センダ・ムジャン・カルボ。南方の魔王シンティとの攻防を担当する。鎮西将軍にはツェシャン・テンマ。黄ホル人との攻防を担当する。鎮北将軍にはニェンツァ・アタン。ロン国、魔国の攻防を担当する。

 リン国の公的な敵を除いて、私ケサルの私的な敵というものはない。黒頭(平民)の公的な法を除いて、私ケサルの私的法というものはない。これからわれわれリン国には十条の善法があるのだ。だから悪法の十条は捨てよ。われわれは心をひとつにして、衆生が長生きできるよう努めなければならない」

 人々は喝采でもってケサルの言葉にこたえた。ケサルがリン国の獅子王となったことは、心から喜ばしいことだった。

 歓呼のなかから、長官ロンツァ・タゲンが出てきて、ケサルにムプドンの姓をもつ家族の家系図と五部の法旗を献上し、賛歌を歌った。

 

黄金の玉座に座すのは 

世界の獅子王であられるぞ 

お顔はナツメのごとく荘厳で、歯は雪のごとく白く 

ケサルは無双の勇者である 

 

上には類まれなる幟(のぼり)と旗がはためき 

中には庶民が歌をうたい 

下には竜族がよく供養する 

慈雨があまねく潤 し、すべての花が開く 

 

上は天界の神々が喜び 

中は庶民が舞い歌い 

下は竜たちが喜び吉祥の雲をつくる 

地獄の魔物たちは悲嘆に暮れる 

 

一面に白色の旗が波打つ 

これは太陽の輝きの象徴 

一面に黄色の旗が波打つ 

これは権勢を讃える象徴 

一面に赤色の旗が波打つ 

これは吉祥の象徴 

一面に緑色の旗が波打つ 

これは天母を拝謁する象徴 

一面に青色の旗が波打つ 

これは竜王ゾナに面会する象徴 

 

家系図を献上いたします 

あなたさまと臣民が離れることがないように願います 

この旗をあなたさまに献上します 

衆生の幸福のために尽力してください 

 

 総監ロンツァ・タゲンが祝福の歌を終えると、リン国の勇者たちがつぎつぎと礼物を献上した。

 ギャツァ・シェカルは「太陽が自ら現れる」と縁取りされた白い勝利の兜(かぶと)や、吉祥9層の旗、神兵を表すガチョウの羽飾りなどを献上した。ギャツァは弟ジョルが王位に登るさまを見て心の底から感動したのである。彼はケサル王の兜(かぶと)が永遠に不滅であることを願った。

 テンマは、多数の小旗がついた青銅の鎧兜と、虹や雲の紋様が描かれた赤藤の盾を献上した。

 7人の英雄は「千部不朽」の7枚の寿衣を献上した。8人の英雄は8部制圧の戦闘靴を献上した。ディ系(中系)部落の兄弟たちは神矢筒や豹皮の弓袋、彫琢入りの弓などを献上した。チェ系(長系)部落の兄弟たちは鋭利な宝剣、三界を征服する矛、青蛙の縄などを献上した。チュン系(幼系)部落の兄弟たちは雷光によって作られた紫の光を放つ水晶刀などを献上した。

 すべての人が一斉に獅子大王ケサルを祝福した。

 

黒魔王を鎮圧してください 

(モン国の)シンティ王を滅ぼしてください 

ホル王を打破してください 

(ジャン国の)サタム王を降伏させてください 

四大魔を征服してください 

どうか四方の闇を取り除き、光を呼び戻してください 

 

 トトンさえ前に出てきて、頭をたれて恭順の意を表した。このときのトトンを見ると、競馬で争っていたときの必死の形相を思い起こさせるものは微塵もなかった。あの自信にあふれた得意顔はなかった。心の中の光明を失ったかのようだった。リン国の民衆が祝賀に酔いしれているとき、ただひとり憂愁と屈辱にまみれていた。リン国の勇者や兄弟たちがジョルに祝福を述べているのに、彼は口ごもってうまく言えなかった。

 トトンは心の奥底に恨みの気持ちを押し隠した。怨恨を表に出すことはできなかった。表面上はジョルが王位に就いたことを喜び、祝いのカタをジョルにかけた。ジョルはトトンのそんな気持ちを知らないかのように装い、タクロン家の宝蔵にあったもの、すなわち苦行のときに使う棍棒と財神の布袋を賜った。

「これは私の魂の拠り所です。今日、そなたに差し上げます。魔王ルツェンを討つときにはまたお借りすることになると思いますが」

「大王さま、ご安心ください。心をこめて保管いたします。必要な時がいたればすみやかにご用意いたします」

 天神らはまた花の雨を降らせた。リン国の人々は「きらきら輝く光」の太鼓を叩き、「白雪のようなきよらかな轟き」の法螺貝を吹き、「雷鳴の響き」の銅鑼を鳴らした。そして娘たちが合唱した。 

 

愉悦のとき、獅子王さま 

歓喜のとき、リン国の人々よ 

 

 歌い舞う娘たちのなかにセンチャム・ドゥクモが登場した。彼女はカタで包んだキャロ家の宝物、すなわち財神が用いた吉祥碗、長寿聖母(ドルマ)の酒、甘露などをケサル王に献上した。それにこたえてケサル大王は祝賀の歌をうたった。

 

尊敬する獅子王ケサルさま 

われはキャロ家の娘、センチャム・ドゥクモ 

色とりどりの絹織物を13種献上いたします 

さらに吉祥碗に注いだ美酒を献上します 

絹の衣は長寿の衣 

美酒を飲めばすべてがうまくいきます 

あなたのお身体は金山のよう 

色とりどりの霞が互いに抱擁しているかのよう 

武器の光沢とそなたの光輝 

それらは永遠に輝きつづけるでしょう

 

そなたの偉大なるお身体が 

稀有なる光輝に包まれています 

とこしえに幸ある慈雨を享受されますように 

そしていつも庶民のそばにいてください 

 

わがかよわい身体に 

美しい顔のウッパーラ花に 

あなたの視線が注がれます 

獅子王、そなたに献上いたします 

 

庶民の人生は 

つづら折りの道のようなもの 

私はそなたに付き添う影となります 

獅子王、永遠に別れることはございません 

 

 ドゥクモの歌声に唱和して、娘たちもかろやかに歌い、舞った。ドゥクモの目には愉悦の光輝があった。いつにも増して下の歩は美しく、たおやかだった。ケサルも心を動かされ、金色の玉座から降りて、ドゥクモといっしょに舞い踊った。それからふたりは庶民のなかに入り、歓喜の輪のなかで歌い、踊った。

 

⇒ つぎ 




競馬に勝利したジョルは国王の座に就き、大獅子王ケサル・ノルブ(宝)・ダンドゥ(制敵)と称した。






競馬のあと、優勝者は称えられる。じつは右端の勝利者は、この地域の長(大臣)であり、勝負の行方ははじめからみな知っていた。天界の意思によって勝負が決まっているという点では、ケサル物語とよく似ている。(ラダック)