チベットの英雄叙事詩 

ケサル王物語 

38  リン国の大軍、モンの王城近くに押し寄せ、一触即発 

 

 南方のモン国は大きく、豊かな国だった。13の大きな谷があり、18の大部落を擁し、人口は300万を超え、数えきれないほどの牛や羊がいたるところで草を食み、どこに行ってもラバが群れを成していた。

 しかしこの地域に住んでいる人々の大半は極貧で、幸福を感じることはなかった。人々はつねに生命の危機に瀕していた。

 じつは国王シンティは魔王ガラプ・ワンチュクの、大臣クラ・トクギェルは妖魔ペンパ・ナクポの化身だった。シンティ王には60人の直属の臣下がいたが、彼らは人肉を食べ、人血を吸うのが好きだった。近隣の国々で騒ぎを起きたなら、それはつねに彼らによって起こされたものだった。人がさらわれると、大概彼らに食われてしまったと考えてもよかった。さらうことに失敗したとき、彼らはだれかをかわりに殺した。だから片時も休まるときはなかった。油断をすれば、つねに食べられる危険があった。

 シンティ王は今年54歳であり、魔馬ミセン・マルポは7歳、大臣クラ・トクギェルは37歳だった。魔王、魔馬、魔臣とそろって修行の最終段階にあった。今年の冬と春は平和なうちにすごしたかった。シンティ王は大きな野望をいだいていた。すべての部落、すべての国を制覇して世界王を称しようと考えたのだ。しかし獅子王ケサルが三方の妖魔を倒したことを聞いたときは、生きた心地がしなかった。幸い、ケサル王がモン国に向かってくるという動きはいままでなかった。

 しかし安心することはできなかった。何を根拠にケサル王がモン国に攻めてくるかわからなかったのだ。家臣にはとくにこの一年、外に出て面倒を起こすことがないよう釘を刺した。

 この日シンティ王は、王宮の中で静かに坐っていた。手すさびにサイコロを転がしていた。そのとき侍従が知らせをもって入ってきた。

「陛下、川の対岸にたくさんの人馬が集まっているようです」

「どこから来た連中だ? 数はどのくらいだ?」

 シンティ王は心中不愉快だった。討伐なんか行かないぞ、と心の中で思った。

「どこから来たかはわかりません。人馬もその数は不明瞭です。人が水を運ぶさまは蟻が行列を作っているかのようです。火を吹く音は春の雷のようです。茶を沸かすときの水蒸気は霧が発生したかのようです。人の数が多すぎるのです」

シンティ王は聞きながらサイコロを部屋の隅に投げ捨てた。

「このバカモノ! どこから来たか知らないだと? どれほどの人馬がいるかわからないだと? 出ていけ、役立たず! 役に立つ者を呼んでこい!」

 侍従は這うようにして出ていった。彼はいずれ魔王に食べられてしまうのではないかと恐れた。

 いったいだれならば役に立つというのだろうか。だれが火中の栗を拾い上げたいと思うだろうか。

 シンティ王はまわりにだれもいなくなったことで、さらに怒りを増し、自ら王宮の門から外に出ていった。まさにだれかを大声で呼ぼうとしたとき、大臣のクラ・トクギェルがやってきた。

「王さま、重要なお知らせがあります」

 大臣は眉にしわをを寄せ、すたすたと歩きながらわかりやすく説明しようとした。

「クラ、だれがわが国を侵略しようとしているのか」

「いまのところわかりませんが、彼らが来た方向から察するにリン国から来たものと思われます」

「リン国だと? つまりケサルが来たということなのか?」

「王さま、お急ぎになる必要はありません。まず大臣が出て様子を見てみましょう。リン国軍でなかったとしても、いやたとえケサルであったとしても、われらは恐れる必要はありません」

 クラ・トクギェルはシンティ王を安心させながら、外に走って出た。そして馬に乗り、城から出てみた。

 クラ・トクギェルとダワ・ツァチェンのふたりで城から出て、川岸に達すると、橋の真ん中から相手の軍営に向かって大声を張り上げた。

「やあ、われらはモン国の将軍である。あなたがたの代表者と話をしたいのだが、出てきていただけないだろうか」

 ケサルは一目見ただけでそれがクラ・トクギェルであるとわかった。かつて大軍を率いてリンを侵略したアキュン・ゲポグルの後輩であることを知っていた。ケサルはユラ王子を呼んで何やら耳元でささやくと、ユラ王子は笑いながら戦馬をひいてきて、クラの質問にこたえた。

「われはジャン国の王子ユラ・トクギュルである。いったい何の話があるというのか」

 クラ・トクギェルは出てきた少年を見て、また少年がジャン国王子であると語るのを聞いて、瞬時にすべてを理解した。ユラ王子は早くにケサル王に帰順しているので、これがリン軍であるのはあきらかだった。

 しだいに怒りが沸き起こってきた。これがリン国の軍隊なら、リン国がモン国を侵略しているということである。それなのに彼らの様子は平静そのもので、モン国の軍隊の力なんて気にしていないふうである。しかし礼を失してはいけない。彼は顔をこわばらせながら言った。

「この川辺はわれらが国王の娯楽場所であり、王妃がくつろぐ場所であり、大臣らが弓矢を試す場所であり、花が咲き誇り、ホトトギスが美声を響かせる場所である。あなたたちはそんなにも多くの人や馬で押し寄せて、許可も得ずここに住もうというのか。ここはあなたたちが落ち着く場所ではない。兵士がそんなにたくさんいて何の役に立つというのか。そもそも勇猛なるシンティ王の前では、あなたがたの勇猛さで束になっても太刀打ちできないであろう。あなたがたの馬もわれらのロバ並みであろう。われらの騎馬隊とどう比較できるだろうか。

われ、無敵の英雄クラ・トクギェルは味方にたいしてはシルクのようにやさしいが、敵にたいしては厳しく、矢や霹靂(へきれき)にも負けることはない。

あなたがたにはすぐここを出ていくことをすすめる。これが最大限の好意である。ここに侵入したことには罰金を払うべきである。そうでなければ戦争になってしまうだろう。あなたがたの兵力は強大だが、恐れをなすほどではない。つまらないことで流血騒ぎになっても、得することは何一つないだろう」

ユラ王子は怒ることも喜ぶこともなく、傲慢になることも卑屈になることもなく、表情を変えることなくクラ・トクギェルの長話を聞いていた。すると突然ニッコリと笑って言った。

「大臣どの、そう目くじらたてないでくださいよ。あなたの名は昔からよく知られています。勇猛で深慮のかたとずっとお聞きしていました。もし私の言うことを聞いてくださるなら、あなたがおっしゃるとおりにいたしましょう」

 クラ・トクギェルはユラ王子に礼があり、話し方もなごやかだと感じた。しかしそれでも何か気に食わないのは、自分よりもはるかに年下なのに、威風堂々としているからだろう。

「じゃあ王子、話してくれ」

 

モン国から飛んできたホトトギスが 

柳の枝の上に住もうと思いました 

住もうと思わなければ、旋回しません 

われらはリン国からやってきました 

モン国と婚姻関係を持ちたいと考えています 

そうでなければ近づいてくることもないでしょう 

 

リン国の王子タクラ・ツォギェルは 

結婚するのにふさわしい年齢に達しました 

シンティ王にも公主がいらっしゃるとお聞きします 

そのお顔は鮮やかな花のごとく美しく 

物腰は柳のようにたおやかといいます 

千百の女性が嫉妬し 

千百の男性があこがれるといいます 

あらゆる占いを試みたところ 

すべてが吉と出ました 

われらの王子と婚姻なさる時が来たのです 

 

 婚姻関係を結ぶために来たと聞いて、クラ・トクギェルは少し警戒心を解いた。しかし目の前の谷間全体が兵馬で埋めつくされているさまを見ると、その言葉をそのまま鵜呑みにすることはできなかった。

「ただたんに結婚の話を進めるだけなら、まず使者を出して話し合えばいい。なぜこんな大軍が押し寄せねばならないのか」

「クラ大臣どの、まあ落ち着いてください。シンティ王さまはそんなに簡単には結婚をお認めになりません。以前は多くの使者が拘束されたと聞いています。もしわれわれが先例のように使者を送ったなら、やはり拘束されて……」

「もし国王が結婚を認めなかったら、力づくでも公主を奪い去ろうという算段であったのか」

 クラ・トクギェルの両目は大きく開いていた。

「われらはそのような事態は望んでおりません。ただ国王さまには喜んで結婚を受け入れてほしいと願っているだけなのです」

 ユラ王子は怒りだすようなことはなく、泰然とかまえた。クラ・トクギェルにはそのような余裕はなかった。

「ユラどの、今日われは一に、この手に持った刀は使わない、二に、腰につけた矢筒の矢は使わない、三に、このまたがっている馬は使わない、という誓いを守りたい。出ていくための道は確保してあげよう。もし明朝あなたの軍隊がここを立ち去っていなかったら、われらモン国の軍人は黙っていないだろう」

 そう言い放つと、クラ・トクギェルは馬に鞭打ち、王宮へ戻っていった。

 王宮に戻ったクラ・トクギェルが一部始終を報告すると、シンティ王は顔を真っ赤にして激怒した。

「われらの公主がなぜリン国に嫁がねばならぬ? ケサルとわしはもともと仇敵同士である。もし一年前であれば、ケサルを殺していただろう。わしが征伐するよりも前にこのように大胆にやってきて、わが公主まで娶ろうなどとほざくとは……」

「国王さま、お怒りはもっともですが、ここはじっくりと考えましょう。ここに来ている兵士たちを見てください。リン国の兵士だけではありません。北方の魔国、黄色のホル国、ジャン国から来た兵士もいます。彼らは公主ひとりのために来ているのです。もしわれらが公主の婚約を認めても、われらは来年になれば世界無敵の国家となっています。そのときに公主を奪い返し、いくつかの国を平定すればいいのです」

 クラ・トクギェルは武芸に秀でるだけでなく、謀略を練るのも得意だった。

 シンティ王の顔色は多少よくはなったが、心中にはまだ怒りがくすぶっていた。

「クラ・トクギェルよ、勇士というのは、3種類の気概を持っていなければならないという。両国が結婚しようとして話し合いをしているとき、弱さを出さないというのは気概のひとつである。英雄戦士同士が戦っているとき、自己犠牲をしてもかまわないとは思わないことも、気概のひとつである。国王が政治をおこなうとき、自分の心の目をふさがないというのも、一種の気概である。

 たとえばチベットの5つの軍隊がモン国に攻めてきたとしても、まぶしい太陽光のもとの金色の房のように、月光のもとの銀色の房のように、湖のなかの緑色の房のように、炎のなかの赤色の房のように、暗い影のなかの黒い房のように目立たず、目標が見えないだろう。

 この圧倒的な軍隊を見て、もし、わかりました、結婚します、とわれわれが返事をしたら、世の笑いものになってしまうだろう。脅されて結婚を許すようなことはあってはならないのである」

 この時分、国王と大臣の会話の内容は、宮中に集まっていたほかの大臣たちの耳にも達していた。彼らは喧々諤々の論議をした。ある人は、まず結婚すべきだと主張した。ある人はこのように軽々しく公主をリン国に嫁がせるべきではないと主張した。双方とも自分の意見を強く主張し、妥協しようとしなかった。

 このとき内大臣のユンドゥン・パルギェルが声高に話した。

「みなさん、言い合いはやめてください。われわれが決定できないなら、グルに決定を頼みましょう。テウラン独脚魔鬼大師(The'u rang bla ma rkang gcig)は賢人です。怒ったときは敵に災いをもたらして殺すことのできるパワーを持っています。彼が静かに坐しているときは三界が敬服し、行動するときにはすべての事情を理解することができるのです。彼は死すべき人の寿命を延ばしたり、三千世界を覆ったり、未来を予知することができたりします。われわれはいつも彼を尊敬していますが、いま、この危急のときに、頼りになるのはこのかたしかいません」

 みながユンドゥン・パルギェルの意見に賛成し、トンデ・ウーカルという青年を大師のもとへ派遣した。

 大師は早くから青年が来ることを知っていたので、修行洞窟から出て、青年の姿を認めると、笑いながら言った。

「わしはおまえが来ることをこの千里眼で知っていた。だからこうして迎えに出てきた。わしが言えるのはひとことだけだ。偉大なるモン国は七日以内に解決策を探し当てることができるだろう。軍隊のことなど、ほっておけばいい。それより洞窟に来なさい。重要なものを渡すから」

 トンデ・ウーカルは9つの結び目がついた黒帯をもらい、モン国に戻った。ほかに大師が渡したのは、霊験あらたかな卦書や雑色の占い用の縄、魔鬼を招くサイコロなどだった。またモン国の国王や大臣らに呼ばれると、流星のごとくあっというまにモン国に達していた。

大師は目を閉じてしずかに坐り、目の前で起きている戦いについて占った。彼は悠然として占いの結果を述べた。

「この占いには凶が多いが、吉もありますな。つまりモン国は戦争による被害にあうということです。人も家畜も血まみれです。怪我をしないようにするには、たまご型の石が必要となります。戦争の被害にあっているとき、国王やほかの大臣のことを忘れないようにしてください。自分の部族の管理は怠らないでください。甲冑はきちんと整頓しておいてください。兜(かぶと)の上に房をつけてください。駿馬の鞍をきちんときれいにしてください。毒を武器に塗っておいてください。矢筒や剣の鞘を修繕しておいてください。威力抜群の呪火、三千世界を倒す法能、毒竜の悪呪、それらを駆使してあなたがたを助けたい」

 シンティ王はおおいに喜び、大師を何度もおがみ、すぐさま軍隊を動かした。

「クラ・トクギェルは金房部隊、ユドゥク・トギェルは黄房部隊、トンチュン・タクラは白房部隊、ダワ・タツェンは赤房部隊、ゴクポ・パダは青房部隊、カタ・ロンランは斑房部隊を、ユンドゥン・ボンギェルは緑房部隊を、タンパシュ・アギェルポガルは黒房部隊を率いた。

 明日早く、ニャンマ金橋の下にたくさんの兵士が集めるといいでしょう。大師の指揮のもと、結束して戦えば、絶対にリン国に勝つことができる」



⇒ つぎ 








モン国の王城は堅固な要塞 



モン国のシンティ王