7 屈原ら楚人はミャオ族だった              宮本神酒男

 屈原が日本でどの程度知られた詩人か、私にはよくわからない。粽(ちまき)や端午、竜船競争の由来が屈原であることから、名を聞いたことがある人もいるかもしれない。私にとって、『楚辞』中の屈原の「離騒」は、旧約聖書の「ヨブ記」とならぶ魂を揺さぶる詩文なのである。

 屈原(BC340?−BC278?)の姓は楚人に多いミ(現在ない漢字)である。前節で述べたように、竜姓のミャオ族はもともとミと称していた。屈原は詩人であるとともに、楚国の有力な政治家でもあった。屈原は秦の策略を見抜き、国王に諫言をするが、聞き入れられてもらえず、戦争に敗れたうえ、王は捕らわれの身となる。悲嘆にくれた屈原は5月5日、○羅(べきら)の崖から身を投げて自殺する。(○はサンズイに日)

 屈原ミャオ族説に説得力をもたせているのは、詩に多用されているxi(シー)やxie(シエ)などの間投助詞である。日本語の「〜や」や「〜よ」に当たると考えればわかりやすいだろう。これらは現在の湖南省のミャオ族の口語のなかにも残っているという。またミャオ族の古詩にも同様の間投助詞が見られ、雰囲気もそっくりなのだ。

 もちろんこうした状況証拠の積み重ねからでは、2千年以上前の詩人がミャオ族であったかどうか、確定するのはむつかしい。中国の資料によれば屈原は漢族(華夏族)ということである。屈原自らがセンギョク(センは山+而+頁、ギョクは王+頁)の帝高陽の末裔と称しているが、センギョクは華夏族の先祖と一般的には考えられているからだ。しかし竜海清氏はその見方に異を唱える。
「蛮夷部族の三苗やカント(カンは灌のサンズイを馬に置き換え、トは兜)の祖先もセンギョクに遡ることができるではないですか」
 つまりミャオ族も華夏族(古代漢族)の一員とするなら、屈原がミャオ族の祖先であるという考え方と矛盾しないことになる。もっとも、何千年も漢族と戦ってきたすえに異国で暮らす難民のモン族からすれば、漢族扱いするのは勘弁してくれ、ということになるのだろうが。



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笙は奈良時代、日本に伝わったという。

鵜飼も記紀に描かれているので、いつ日本に伝えられたかわからない。清水江。

おこわ(写真は姉妹節の五色米)もまた日本の古層の文化のひとつ。