心風景 landscapes within 14    宮本神酒男



 貴族や皇室、大富豪の家に生まれることもあれば、困窮した家や災難に遭ってばかりの家に生まれることもある。欧米の先進国に生まれることもあれば、アフリカや中東の戦乱がつづく国に生まれることもある。漁村に生まれてくることもあれば、高原の遊牧民のテント村に生まれることもある。
 どの環境の中に生まれようとも、そこで育ち、おとなになり、年をとってくると、いつのまにか自分なりの、自分だけのルーティーンができあがり、何の感興も驚きもなくなる。世の大半の人は小さな不安や不満を持ちながらも、それほど現状は悪くないと思っているか、いまの自分は途上であり、これからもうすこしマシになるはずだと漠然と考えている。



 この写真はインド北西部のザンスカルで撮られたものである。チベット仏教の寺院のなかなので、これだけ見ると、ラサの近くなのか、東チベットのカム、あるいはアムドなのか、わからない。あえていえば、中国国内のチベット文化圏であれば、中国であることを示す何かが写っていそうなので、消去法的にラダックかザンスカルあたりだと推測できなくもないだろう。
 私はこの寺の中に入ったとき、お坊さんが読経する姿を見て、そのようなことをつらつらと考えた。小腹が減ったら近くのコンビニに行く、というような生活を送っている者にとって、こうした生活を送っていること自体がミステリアスなのである。
 毎日、何年間もこうして数珠を繰りながら読経をしているのだろう。チベット文化独特の、線香(あるいは杜松の焚かれた煙)の香りとヤク・バターのつんとした匂いがないまぜになった、静謐の、厳かな宗教的な空間なのかに坐ると、精神が乱されることはなく、落ち着いていられるのだろう。



 とはいえ、あくまでもそれは私の推量であって、このお坊さんたちに尋ねたわけではない。チベット仏教の場合、大半のお坊さんが幼少の頃からお坊さんをやっていて、おとなになってから出家するのはまれである。チベット文化圏では、子どもが8人いれば、ひとりは僧籍に入れられるという習わしがあったと聞く。8分の1の確率だとすると、たまたまお坊さんになるというのも運命である。
 レコン(青海省同仁県)に長く滞在していたとき、私は何人かの「元お坊さん」に会ったことがある。お坊さんをやめた理由を聞くと、ほとんどが恋におちたからだった。逆に考えると、現役のお坊さんは三毒のひとつに犯されていないということである。現世の執着に負けない日常生活を送っているだけでも称賛に値するだろう。

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