心風景 landscapes within 15    宮本神酒男

 茨中天主堂 

「おおミカエル、いったいあなたに何が起こったのだ」
 いつのまにか門の前にできていた人垣から発せられた誰かの声は、いまも私の頭の中でこだましている。人垣のなかを連行されていくミカエルとは、私のことだった。
 その少し前、12月25日の朝、私はひとりで天主堂のなかのイエス・キリストやマリア様の聖画をじっくりと眺めていた。聖なるものを見るときの恍惚感に私は酔いしれていた。至福というのはこういう感覚なのかもしれないと考えていた。

  イエスの画と母子画 

 1995年12月中旬、雲南最南端のベトナム国境にいた私は、バスを乗り継いで20時間以上かけて雲南最北端に到達した。茨中村は正月を迎えるほかの少数民族と同様、家族親戚があつまり、各家でごちそうをふるまって団欒を楽しんでいた。いくつもの少数民族の新年(春節の時期とはかぎらない)を経験している私にはなじみのある風景だった。しかしほかと大きく異なるのは、彼らが民族衣装の下に十字架を隠し持ち、家の壁にはキリストやマリア様の画が描かれていることだった。この彼らがチベット族であるのは奇妙だった。

 12月24日から25日に変わる頃の天主堂内部 

 クリスマスのミサは12月24日の午後10時からはじまり、翌25日午前2時までつづいた。讃美歌は少しチベット仏教の読経の影響を受けているような節回しだった。私はリス族の讃美歌を何度か聴く機会があったが、それが万国共通の讃美歌に近いのにくらべ、こちらは独特の味があった。

  文化財に指定されている 

 この読経風讃美歌の響きが頭に残るなか、私は天主堂で聖画を眺めていた。あまりに心地よく、となりに人が立っていることに気がつかなかった。
「どうだ、すばらしい絵だろう」
 突然耳元に声が響き、はっとして振り向くと、ひとりの青年がにこにこと笑っていた。背後にふたりの男が苦虫をつぶしたような顔をして立っているのを私は見逃さなかった。声の主は感じのいい若者だったが、経験的にそういう場合、内面は冷徹な本性を持っているにちがいないと思った。
「ちょっと来てもらえるかな」
 何も言わない私のかわりに私の気持ちをくみ取ったかのように、彼はやわらかく言った。やわらかかったが、それは命令だった。

 新年の賑わい。奥にはキリスト画が見える 

 私は広東人に扮して村に泊まっていた。泊まっていた家の人や親類には本当のことをしゃべっていたが、ほかの人々にはウソをついていた。だれが密告したかはわからないが、日本人であることがばれ、近くの(といっても車で2時間の)派出所から公安が来たのだった。当時はまだまだ外国人の入れない地域が多かった。いまなら観光地になるような場所も、貧しい地域だからと未開放のままだった。

 キリスト教徒の夫婦 

 派出所の入り口はなぜか食堂だった。私はそこで簡易な取り調べを受けた。若い公安は私に文章を書かせた。文字で中国人でないことが一発でわかってしまうのだ。中国人独特の草書体が書けない私は「御用」となった。私はここに二日いて(そのあいだに公安の人たちとは仲良くなった)それから行政の中心地であるデチェン(徳欽)に移送された。
 デチェンのホテルに一週間軟禁状態に置かれたが、それは中甸(シャングリラ)に通じる道が雪で閉ざされたためだった。私は毎日吉祥飯店でご飯を食べた。幼子のいる若くて美しい女主人マリアがカトリック教徒で、それに惹かれて集まってくるたくさんのクリスチャンと話をするのが楽しかったからである。みなチベット族だった。

   キリスト愛は孫の世代に継がれる 

 デチェン(徳欽)を真ん中とした、南の維西から北の塩井までの地域のチベット族は、ほとんどがカトリック教徒だった。この南はリス族が多く、彼らはプロテスタントのキリスト教徒だった。
 デチェン地区に西欧のカトリックの宣教師が入り布教活動を開始したのは1848年のことだった。デチェンの活動拠点ができたのは1857年である。デチェンの天主堂は1872年に完成した。1887年から1892年にかけて、僧侶や群衆はデチェンや茨魔フ天主堂を襲い、破壊した。

 スイス人宣教師は今も敬われている 

 1905年、チベット人僧侶らの待ち伏せ攻撃にあい、パリ外国宣教会に属するスイス人宣教師の中国名蒲徳元と余伯南のふたりが殺された。この暗殺事件によってチベット仏教徒にたいする憎悪の感情が増幅されたのではないかと想像できるが、彼らは敵をも愛する精神でもってそれを乗り越えようとした。ここ茨中村に天主堂が建てられたのは事件から4年後の1909年のことだった。デチェンや維西から宣教師が立ち去ったのは1951年のことだった。

 カワカポ(梅里雪山)の妻メンツンモ峰 

 西洋人宣教師がいなくなったあと、四川省のターチェンルー(康定)と雲南の(石林で有名な)路南という二大拠点のほか、この茨中など大小さまざまな天主堂という形骸だけ残ったが、一部では信者が「隠れキリシタン」としてひっそりと生き抜いてきた。殉教者の精神が彼らの信仰の灯を守り抜いたといえるだろう。


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