心風景 inner landscape 20    宮本神酒男

 「股のぞき」のサトパラ湖 

 ぼんやりとテレビのBBCを眺めていると、薄暗い陰気な湖面が映った。人込みの中でもわが子や恋人が見分けられるように、湖面を一瞬見ただけで、記憶の中の美しいサトパラ湖がよみがえってきた。パキスタン北部バルチスタン地方の森の中にある風光明媚な湖である。古代チベットの歴史を愛する私にとって、それはかけがえのない象徴的な場所だった。
 しかしくすんだ風景として映し出されたのにはわけがあった。湖の場面から切り替わって、目以外を白いブルカで覆った美しい女性が語る場面が映った。なんとこの地区は、女性の自殺率がパキスタン全体の平均値と比べて2・5倍の高さだという。こういう話は聞いたことがなかったので、衝撃を受けてしまった。この風光明媚な地域で自殺率が高いのはどうしてだろうか。

 このガレノダレ明美似(?)の美女も夫から暴力を受けていた 

 もちろん景色が美しければ平和である、というわけではないが、息をのむような風景を前にすれば、悩みごとやトラブルなど吹っ飛んでしまいそうなものだ。だが現実的には、たとえば夫が暴力をふるうさまは、風景に似つかわしくなく、いっそう行いの醜さが際立つ。

 出会った愛らしい少女の未来も暗いのか 

 BBCニュースの女性人権活動家のレポートは深刻ではあるが、私にとって興味深いのは、歴史のはるかかなたに消えてなくなりそうな古代チベットの侵攻という大事件である。
 なぜこのイスラム教の地域に、チベットの英雄叙事詩「ケサル王物語」の叙事詩人(語り手)がたくさんいるのか、は長年の私の疑問であり、課題だった。それは古い時代にチベット人がやってきたということであり、それだけでなく、しばらくはここを統治したということである。しかしそんな歴史、聞いたことがあるだろうか? 

 ハルギサ・ヌッラの磨崖仏 

 唐の文成公主がチベットにやってきてソンツェン・ガムポ王と結婚した(641年)ことはよく知られている。あたかもそれ以降、チベットと中国の関係がよくなったかのようなイメージ操作がされているが、実際はその逆で、ソンツェン・ガムポ王の死去(649年)以降、シルクロードと呼ばれる地域で、唐とチベットの陣地奪い合いのような戦いが激化した。
 くっついたり離れたり、占領したり奪取されたりと、かなりややこしいので詳細は省くが、670年、チベットは西域18州を手中に収めている。これがピークのひとつだろう。
 そして693年、チベットの圧力によって、現在のパキスタン北部にあったボロール(勃律)が大小に分かれたという。小ボロールはギルギット地区であり、大ボロールはここバルチスタンである。おそらくボロール自体が連合国だったのだろう。その力を弱めるためにチベットの将軍はボロールを分割したのかもしれない。
 710年には、唐の金城公主がチベットに嫁いでいる。しばらくはチベットと唐のあいだに戦闘はなかったが、722年、チベットが小ボロールに侵攻し、そのあと小ボロールが唐軍と組んでチベットをたたきのめしている。
 734年、チベットは大ボロール(バルチスタン)を支配下に置いた。そして737年、チベットは小ボロール(ギルギット)を攻略している。740年には、チベット王は小ボロールの王女を娶り、この段階で「北西二十余国がチベットに服した」という。
 チベット(吐蕃)軍によって唐の都長安が陥落したのは763年である。このあとも、ずっと支配したわけではないが、840年頃にヤルルン王朝(吐蕃)が突然瓦解するまで、チベットは広大な地域を版図に入れていた。王朝が瓦解した主原因は、チベット人はランダルマ王ひとりに責任を負わせたがるが、おそらく、広域の多数の地域を支配下に収めたため、人的資源も国庫も維持できなくなったためと思える。

 磨崖仏に刻まれたチベット文字の碑文 

 9世紀半ばに本国が滅亡したとき、チベットの軍人たちはどうしたのだろうか。そのあとの歴史がほとんどわかっていないのだ。唯一の証言ともいえるのがこの磨崖仏の碑文である。ただ残念ながら、若干は読み取れるものの、摩滅が激しく、大半は判読不能なのである。判読できていないため、これがいつ書かれたか、はっきりしたことがわからない。もっともありえるのは、パキスタン北部を平定した737年直後だ。あるいは唐からの脅威が減った9世紀後半かもしれないし、その少しあとかもしれない。

 英雄ケサル王物語の語り手はイスラム教徒 

 バルチスタンは4つの小国から成っていた。そのうちシガルの国王はアマチャ、ハプルの国王はヤブゴ(テュルク語で親王)と呼ばれるが、(サトパラ湖を含む)スカルドゥとカルタクショの国王はマクポンと呼ばれる。マクポンはチベット語で将軍という意味である。つまり総督がそのまま国王を意味するようになったようなもので、バルチスタンを支配したチベット軍のトップがそのまま王になったのだ。
 いま現在チベット人特有の顔立ちが少ないことからも、チベット人の割合は少なかったと思われるが、チベット文化は相当たくさん入ってきたのではなかろうか。イスラム教の波が押し寄せてきてから千年近くたつというのに、いまだケサル王物語が歌われるのはそうした背景があるからだろう。

 

 さて話を戻すと、左上の写真が「股のぞき」する前のサトパラ湖である。実際は「股のぞき」ではなく、こうして湖面を見つめているうちに、異次元に移行しそうになったときに撮影したもの。C・S・ルイスやルイス・キャロルなら、ここから別の世界に入る物語を考えるかもしれない。右上はシンメトリーがよくわかるサトパラ湖の写真。すべての「気」が湖中の島に集まっているように見える。

 幼少の頃、家族に連れられて天橋立に行ったことがある。そのときはじめて「股のぞき」をした。いまウィキペディアに載っている写真を見ても、さかさまの天橋立にさほどの魅力を感じないが、当時は違った世界が見えて、興奮したのを覚えている。
 一部のケサル王物語の語り手は、鏡(道鏡)や水晶を見ながら物語を歌い、語る。このような景色を見ながら別次元に行くのは、シャーマン的手段としては常套かもしれない。


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