心風景 inner landscape 30    宮本神酒男


かつての日曜マーケットの賑わい (シーサンパンナのモンフン) 

 はるか昔、90年代、私は何度かシーサンパンナ(シップソーンバンナー)に長滞在し、このモンハイ県のモンフン村の日曜市にも何度か足を運んだ。ここはちょっとした民族見本市のようなところで、物売りの大半はタイ族(水タイ、たまにハンタイ、花腰タイ)だが、ハニ族(アイニのほかたまにアクも)、ラフ族(支系のクツォンを見たことがある)、プーラン族、ワ族や本人(ベンレン)らを見かけることがあった。



 市とならんで好きなものといえば、道だった。バスや列車に乗って外を眺めていると、その先に行ってみたいと思うような田舎道を見かけることがよくあった。実際私はそうして野山を二、三日歩き回ることがあった。マウンテンバイクを持っている時期は、それに乗って山を越えることもあった。



 じつは、かつてはこの市を抜けると、農道がまっすぐ向こうのほうに伸びていた。ある晴れた日曜日、私は市の向こう側に立って、市にやってくる人々を見るうち、この先がどうなっているか知りたくなった。躊躇しているときに、向こうから父と子らしきふたりが近づいてきた。

 タイ族の親子。お弁当もって…… 

 (大きな画像が見つからないので、小さなのを貼っておくが)私は当時この写真が気に入って「お弁当もって野良仕事」というキャプションをつけた。お父さんが左腋にかかえているのはお弁当にちがいないと一瞬思ったからである。しかし実際見せてもらうと、大きな葉に包まれていたのはタバコだった。市販のタバコではなく、乾燥したタバコの葉だった。

 タイ族の女性たち 

 道オタクの私は、こうして歩いていくだけで、何かが起こりそうな予感に胸をときめかすのだった。
 そして三十分ほど歩くと、簡素な村の門があり、そこがタイ族の村であることを示していた。当時の私は何も恐れず、その村に滞在した。オモテナシといえば日本人の専売特許のようだが、タイ族は日本人以上にオモテナシを心得ていた。いきなりはじめて村を訪れたときでも、たいていの場合は食事や宿で歓待してくれた。世界中がこんなふうに国籍や人種で差別せずにもてなしてくれたら、どんなにすばらしいだろうかと私は思った。

 アイニ(ハニ族)のおばさんのはじける笑顔 

 この写真のアイニのおばさんとは別のおばさんと、道を歩きながら仲良くなり、山の中の村まで行き、家に泊めてもらったことがあった。歩きながら「このバッグ、買わんかいね」と持っているものを売りたがったが、家の中でも、刺繍や銀細工、バッグ、はては鍋や籠まで、ありとあらゆるものを売ろうとした。もしかすると、現金が欲しくてたまらなかったのかもしれないが、どこのハニ族も物売りが好きで、商売に長けているのだ。
 バンコクのカオサンによく民族衣装をまとったアカ族(ハニ族)の集団が現れ、銀製品や刺繍を売ろうとする。そのときのしつこいくらいの売り方が、このアイニのおばさんとよく似ていると思った。

 市に向かうアイニ 

 夜、アイニの家で休んでいると、外の森が異様に明るくなっているので、驚いて飛び出た。森から炎が上がっているように見えた。黒い濃厚な煙が家のほうに流れてくる。山火事だろうか。このあたりは焼き畑をやっているので、おそらく森の中の空き地を焼いているのだろう。通常どおりに焼き畑をおこなったら、延焼しそうになって地元の人は肝を冷やしたのかもしれない。アイニのおばさんはそれほど表情を変えていなかったので、いつもこんな感じで山を焼いているのだろうか。
 こんなに強く、激しい炎を私は見たことがなかった。自然の力はすさまじかった。古代の人は火による浄化というものをよく知っていたのだろう。森を歩いていると、ときたま焼き畑がおこなわれたあとの焦げた野原に出ることがあった。何から何まで焼けていたが、ワラビやゼンマイが芽吹いていた。虫たちも土の中から這い出てきて、それを上空の鳥たちが狙った。
 昔、周恩来首相が西双版納(シーサンパンナ)にやってきて、焼き畑をやめ、ゴム林を造るよう命じた。ゴムの産地になるまでにはなっていないが、山の多くがゴムのプランテーションに変わり、焼き畑は絶滅の危機に瀕することになった。今もこの伝統は続いているだろうか。


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