心風景 inner landscape 37    宮本神酒男     紅葉とは死と病の色づきのこと 

 即席落ち葉オブジェ・アート 

 人はときおり芸術心に目覚める、あるいは目覚めたような気になるものだ。ミャンマー・カチン州と中国雲南省にまたがる深い森の中を歩くうちに、この濃密な世界を表現することができないものかと考えるようになった。はらはらと舞い、泥土の上に不時着する色づいた木の葉を見たとき、私は一枚一枚拾い上げて袋に入れ、夕方着いた村の宿で即席の木の葉オブジェを作ることを思いついた。

 雨季の亜熱帯の森に紅葉というのもおかしな話だが、常緑樹の葉ではないので、熟すると赤くなり、重力に任せて落下するとそのまま腐植土の一部となるのだ。それにしても落ちる寸前の葉がもっとも美しいと感じられるのはなぜだろうか。生命力があると感じられるとき、生命力は喪われようとしているのだろうか。私は手のひらに力の残照を覚えながら落ち葉ごと袋の中に手を入れた。

 途中、積み重なった落ち葉のなかでブルブル羽を震わせているカナブンを拾い上げた。手のひらで軽く包むと、生命力の圧力のようなものを感じた。私はカナブンを落ち葉で詰まった袋のなかに入れた。落ち葉オブジェに参加してもらおうと思ったのだ。



 自然のなかの落ち葉はこうして雨に打たれ、朽ちていき、だれにも看取られることなく微生物の餌食となって分解されていく。ヒトに魂があるなら、動物にも魂があるはずだし、植物にも魂があるはずだ。落ち葉の中を流れる微細な生命エネルギーは雨に叩かれながら土のエネルギーに変わっていく。

 

 亜熱帯の森は重層的である。山道にアーム状に垂れかかった幹の苔の上に着生しているのは花が咲き終えた蘭(ラン)だろうか。ランというのは不思議な植物だ。美しい花を咲かせるために地面の土や泥を拒絶し、空中を選んでいるかのように思える。



 「樹木」という言葉はどんなに無力であることか。この亜熱帯の樹木を表すために何万もの語彙が必要だというのに、私は「樹木」の「幹」以外にどれほどの語彙も持っていないのだ。幹を覆う苔にそっと手をあててみる。虫かエネルギーかわからないが何かがうごめく。それから耳を置いて音を聞いてみる。あなたは樹液が流れる音を聞くだろう。あなたは木漏れ日を顔に受け止め、風のさやぎを心に聴くだろう。言語が発明される前、ホモサピエンスという類人猿は宇宙の饒舌さを知っていたはずなのに、私たちはなぜその感受能力を失ってしまったのだろう。



 あなたは水も生命体であることを学ぶだろう。しかし無機質を有機体のように理解をするのは困難だ。人はつい擬人化してしまう。川を人生にたとえてしまう。悪人が他人も悪人に違いないと思い込むように、人は無機質をも人間に見立ててしまうのだ。水を無機質なままとらえて生命体であることを認識するには、どうしたらいいのだろうか。



 バナナは黄色いとだれが決めたのだろうか。森の中で赤いバナナを見つけたとき(村の中の農園で栽培されていたバナナが「脱走」したのだろうか)私は強烈に違和感を感じた。そしてつぎにバナナが何色だっていいじゃないかと思った。ついで食べてみたくなった。しかし村の人の話ではこれはまずくて食べられないという。渋柿といっしょで活用しようと思えばできるのだろうけど、現時点では有効利用されていないようだ。ネットで調べると、赤いバナナはフィリピン原産ということである。赤いバナナなりにここまで冒険の旅をしてきたのだろうけど、その紀行はどこにも記されていない。

 ふと立ち止まって撮った森の道の写真 

 さて話を冒頭の落ち葉オブジェに戻そう。泊まっている部屋のなかで、私は袋の中身を床にぶちまけた。少々落胆したのは、木の葉の「死後硬直」がはじまっていたのだ。葉はカサカサに乾燥し、端はめくれようとしていた。落ち葉の一部は茶黒く変色しはじめていた。腫れたように赤くなっていた葉には斑点が浮かび上がっていた。そして悲しいことに、少し前までモゾモゾしていたカナブンが息をしていなかった。肢がのび、甲の下の羽の黒い襞(ひだ)がだらしなく出ていた。生命が感じられるどころか、細胞のひとつひとつから光が失われつつあった。
 冒頭の写真をもう一度見てほしい。それが死の影のアートであることがおわかりいただけるだろうか。


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