ジンポー族五千年史

――祖先の魂の移動経路――

宮本神酒男 編訳

 

2 マリク・マジョイ(マリク川源流地域)

 紀元100年前後、中国の後漢の頃、ジンポー族の祖先ントッ・ジャラ・マシャ・ニの人々は、苦しい時代を経て、原始林に入り、山脈を越え、ヤルツァンポ大渓谷をまたぎ、ミャンマー北部と中国・インドが境を接する三角国境地帯マリク・マジョイ(Mali hku majoi)すなわち「マリク川源流地域」に達した。

 マリク・マジョイはマリ・ティンケ(Mali Tingke)、すなわちマリク峡谷の小地方とも呼ばれる。あるいはフドゥン・ヤンダン・マウ(Hudung Yangdan Mau)、すなわち「源流の茅草原地方」、またシンギム・ヤン(Shinggyim Yang)、すなわち「人類が生息可能な高原」と呼ばれた。ントッ・ジャラ・マシャ・ニの人々はこの地に来て、シンギム・マシャ・ニ(Shinggyim masha ni)と呼ばれるようになった。

 シンギム・マシャ・ニは、ジンポー族の原始社会時代の祖先である。大自然の劣悪な環境のなかで、生存のため、抗争、戦闘、争奪を余儀なくされた。シンギム・マシャ・ニは川に橋をかけ、山を這い登り、沼地を渡り、湖に竹筏を浮かべて進んだ。

 氏族の首領シャワ・プン・ガム・モン(Shawa Hpung Gam Mon)は言った。

「兄弟よ、気をつけて(Ali nna she rap mu lu)。竹筏は流されて川に出てしまうだろうから」

 これによってマリク・マジョイ、すなわちマリク川上流地帯と呼ばれるようになったのである。

 また、のちマリク・プン・ノン(Mali hku hpung non)、すなわちマリク川上流の沼沢地帯と呼ばれるようになった。マリク・マジョイ、すなわちシンギム・ヤンは、古代ジンポー族の第一の橋頭堡である。

 マリク・マジョイに住み、つまりシンギム・ヤンのシンギム・マシャ・ニに住むようになり、彼らは草原の民となり、繁栄を謳歌した。彼らは工具を作り、効率的な労働を行うようになった。鉄器時代に突入したのである。これはまた、原始部落社会が転じ、奴隷階級を生み出したことを意味する。

 ジンポー族の祖先の五大氏族は、名高い大峡谷越えを果たしたあと、マリク・マジョイに定住し、繁栄をきわめた。マリク・マジョイ、すなわちシンギム・ヤンの時代、人類が生活するのに適した草原で、ジンポー族ジンポー支系の五大氏族、マリプ(Marip)、ラト(Lahto)、ラパイ(Lahpai)、マツォ(Matso)、マラン(Maran)は基盤を固めた。

 祖先ントッ・ジャラ・マシャ人はよく働き、強かった。シンギム・マシャ人は勇敢でいつも前進した。スンギム・マシャ人は、マリク・マジョイ、すなわちシンギム・ヤンに長く居住したあと、マリカ川を渡り、マリクカ川を超え、マリク・プン・ノン沼沢地を漂ったあと、ふたたび草原を通った。

 氏族の首領シャワ・プン・ガム・モンは言った。

「兄弟たちよ、われらは苦労してこの平地にやってきた。われらはここで継続して間ジェン・ジェ・ラ・ラ・サガ・アイ(Majen je la ra saga ai)、すなわちこの荒野、草原を開墾し、新しい国家を建てよう。われらはここをナンジェ・パ(Nanje pa)、すなわち新知識、新開墾、新創建の国と呼ぼう。

 ジンポー族の祖先であるシンギム・マシャ人がナンジェ・パ草原にいた時期は、中国では隋(581−618)唐代(618−907)に相当する。

 かつて官人や尚書(長官)はナンジェ・パ草原にいるシンギム・カシャ人をチェソ、ジソなどと呼んだ。「恥部を物で隠す」「体を葉で隠す」民族という意味である。

 シンギム・マシャ人はナンジェ・パにおいて川を埋め立てて開墾し、穀物を植え、荘園を造り、生産を高めて発展した。ナンジェ・パはジンポー族の二番目の橋頭堡である。

 シンギム・マシャ人はナンジェ・パに長く定住し、生産を高め、繁栄した。しかし彼らはまたも移動を開始した。

 シンギム・マシャ人はカバト・ダン(Kabat Dan)、ガイン・ドムバト・コム・カウ(Gayin dumbat hkom kau)を過ぎて道を失い、おなじところをくるくる回ったあと、パンカイ・ガ(Pang hkai Ga)に着いた。ここは広々とした草原で、しばらく居住し、開墾して穀物を植えた。

 そのあとロク・クム・ダン(Lok hkum Dan)、すなわち乾燥した窪んだ草地、それからムン・ラン・ダン(Mung Lang Dan)、すなわち豊かで美しい草地へ移動した。ここにみなで大きな村を建てた。

 それからクラウ・ブム山(Hkrau Bum)、すなわち山がぐるりと取り囲んだような山脈に着いた。そしてコン・カ(Hkong hka)、すなわち窪んだ溝を流れる川の地域を渡った。ここはまたンコン・カ(Nhkong hka)とも称せられる。

 最後にンコン・ヤン(Nhkong Yang)にたどりついた。ンコン・カ川がマリカ川に交わる草原地帯に村を建て、ここに長く暮らした。

 ンコン・ヤンは豊かで美しい土地だった。ジンポー族の祖先はここに長く住んだ。別名トン・ヤン・ガ(Htomg yang Ga)と言った。一年中常春という意味である。トン・ヤン・ガはジンポー族の第三の橋頭堡といえる。

 ジンポー族祖先シンギム・マシャ人はトン・ヤン・ガにいた頃、マリカ川に石板を渡し、石板の大橋ルンパ・マタン(Lungpa mahtan)、すなわち竜宮天橋を架けた。シンギム・マシャ人は自分が架けた橋を渡り、東方の山岳地帯へ向かって移動した。

 シンギム・マシャ人は蛇のように蛇行する川をゆっくりとさかのぼっていった。山は高く道は厳しく、ある老婦人は疲れ果て、朝から晩までぐちをこぼした。これにより移動途中の高山はグムガイ・サン・マロン(Gumgai Sang maron)、すなわち老婦人がぶつぶつとぐちをこぼす峠と呼ばれる。

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