チョナン派

抹殺されかけたチベットの人気宗派
                           宮本神酒男 編訳
                                               

チョナン派の成立

2 他性空の確立
 チベットにおけるチョナン派のカーラチャクラの実質的な創立者はユモ・ミキュ・ドルジェ(Yu mo Mi bskyod rdo rje)である。彼は11世紀のチベット・ユモ地方の出身で、俗名をタクパ・ギェルポと言い、ミキュ・ドルジェ(不動金剛)という法名を得た。在家の行者で、修行を積んで名を馳せた。『如意宝樹史』は彼のことを「マハー・ムドラーの修道者にして、カイラス山の大修行者」と称している。

 彼はかつてカチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポにカーラチャクラ(時輪)の伝授をお願いした。カチェ・パンチェンは彼の真剣度を試すため、風呂敷を取り出し、まずネパールへ行きなさい、そのあとに伝授しましょうとこたえたという。しかしこのふたりは、直接面会した形跡がない。実際法縁を結んだだけで、子弟の関係はなかったと思われる。

 ユモ・ミキュ・ドルジェはほかの人の推挙によってドトゥン・ナムゼ(sGro ston gnam brtsegs)に法を求めた。ドトゥン・ナムゼは彼を心伝弟子と認定し、およそ五年にわたって、『時輪根本タントラ』およびその注釈と秘訣、『明灯論』の教誡を伝授した。

 教えを授かったあと、彼はウユク('U yug)のギャネ(rGyal gnas)に行って修行をし、最後には成就をとげ、ド系のカーラチャクラ伝承者の8代目と認定された。没したときは82歳だった。

 チョナン派はユモ・ミキュ・ドルジェをチベット密教の他空説の創始者とみなしている。彼は名を成したあと、著述に専念し、多くの経文を写した。

彼は事物の本体自体に関して空とは認めなかった。一切の事物は永久不変な真性体を持つ。それは絶対的な存在で、至高無上の仏である。本体を空としたのは、人間の認識の錯誤によるものだった。それゆえ事物の空性は「他性空」であって「自性空」ではない。

事物の本体は真性の空であることを認識すべきであり、時輪金剛法を学び、長期にわたってヨーガ修行に励み、微細な身体を会得し、正誤の認識をよくし、事物の表面の迷霧を払い、真性体を洞察しなければならない。

こうして彼は中観他性空と時輪金剛法を結合させ、チョナン派の基礎を作ったのである。一般にはユモ・ミキュ・ドルジェがチョナン派の始祖と考えられている。

 

 ユモ・ミキュ・ドルジェにはたくさんの弟子があったが、なかでもワダク・カルワ(Wa brag dkar ba)ニャルパド(gNyal pa gro)ニョギ・クンワ(gNyos skyi khung ba)チューキ・チャンチュブ(Chos khi byang chub / Dharma bodhi)チューキ・ワンチュク(Chos kyi dbang phyug / Dharma shva ra)らが知られている。

 そのなかでもワダク・カルワとニャルパドは、はじめカダム派に学び、泥で封じ込めた庵室に長期間閉じこもって修行をした。その後ユモ・ミキョ・ドルジェに師事し、カーラチャクラの教えを伝授された。ふたりともまたたく間に「勝義を獲得し、深く理解し、究竟成就を遂げて広大なる神通を会得した」という。

 ニャルパドは70歳のときユモ・ミキキュ・ドルジェに拝し、カーラチャクラを学び、のちンゴルジェ(Ngor rje)に伝え、ンゴルジェはまたドルワ・ガルトゥン・ワンチュクトゥブ(Dol ba ’gar ston dbang phyug grub)に伝えた。

 チューキ・チャンチュブ、梵名ダルマ・ボーディは、ユモ・ミキョ・ドルジェに学んだあとデウォ・ゴンポ(Dre bo mgon po)に法を伝えた。デウォ・ゴンポは学んだあと弟子をたくさん取り、これらの弟子からカーラチャクラが広がった。

 ユモ・ミキュ・ドルジェの弟子のなかでもっとも有名なのはチューキ・ワンチュクで、ド系のカーラチャクラ伝承者の9代目と目されている。チューキ・ワンチュク、梵名ダルマ・シャラ(法自在)は、ユモ・ミキョ・ドルジェ50歳のときの子であり、12歳にして父から灌頂法門を受け、16歳のときからカーラチャクラに関する経典や釈論を父から学び、修行や秘訣の伝授を受けた。20歳になる頃には、カーラチャクラの法要のすべてを熟知し、修練を積んだ。弁才にも秀で、当時名の知れ渡った仏教学者ギャリンパ(rGya gling pa)を弁論において打ち負かしたほどである。

 ド系のカーラチャクラ伝承者10代目は、チューキ・ワンチュクの有名な弟子、ナムカ・オセル(Nam mkha’ ’od gsal 虚空光)である。『青冊史』は彼をカンサワと称し、顕密に通じ、カーラチャクラの経論注釈とナーガールジュナの中観理集六論に精通し、『光鬘論』などの論著を多数著したとする。修行もよくし、「究竟三昧の功徳を具えた大徳」と評した。

 ド系のカーラチャクラ伝承者11代目はチョブム(Jo 'bum)、12代目はセモチェワ・ナムカ・ギェルツェン(Se mo che ba Nam mkha’ rgyal mtshan)である。このふたりは姉と弟で、チューキ・ワンチュクと妾のあいだに生まれた二女一男の長女と長男という。

チョナン派の伝承によると、チョブムはウッディヤーナ国インドラボーディ王の妃リカシャンカラ(Likashakara)の化身だという。母の指示によって幼少の頃から呪詛法を学び、敵をしばしば降伏させた。のち父からカーラチャクラを学び、経典および各種注釈を系統的に理解した。父の教授のもと、無上瑜珈時輪金剛六支加行法を修し、すみやかに悟ることができた。「一日で究竟十種を悟り、七日目には風息を中脈に入れることができるようになっていた」という。こうして成就者となった。

 仏教史のなかでこの女性修行者に対する評価は高い。たとえば「彼女の福徳は自ら成就した瑜珈母と等しい」と評し、聖母とみなしている。

 セモチェワ・ナムカ・オセル(ギェルツェン。チョブムの弟)、こと虚空幢は、幼い頃から耳と舌が不自由であったというから、聾唖者と思われる。彼は障害という困難を乗り越えて生きた。長じてカンサワ・ナムカ・オセル(虚空光)から『時輪タントラ』およびその注釈を学び、六支加行とナーロー六法を習得し、肉体の障害を乗り越えて「清浄サマディーに至る能力と宿縁に通ずる能力、自身の前世を思い起こす能力」を獲得した。

 カーラチャクラを学ぶ過程で彼は姉のチョブムに師事した。姉はインドのナーローパが著したカーラチャクラ灌頂に関する『灌頂略示』や『灌頂略示蓮華疏』などを教えた。その後ツァン地方のドンチュン寺(Grong chung dgon)の住持となり、名声は高まった。晩年、オルン谷('O lung)にセモチェ寺(Se mo che dgon)を建てた。セモチェワの名はここに由来している。また修行者としても名を馳せ、大修行者セモチェワ、略称セチェンと呼ばれた。

 セモチェ寺建立は、ド系カーラチャクラのチベットにおける伝播の基盤となった。信仰者は日増しに増え、チョナン派は独立した教派を成していった。

 『青史』は当時のカーラチャクラの流布について記している。もっとも有名だったのはボトン・リンポチェ(Bo dong rin po che)の一派だった。

 ボトン・リンポチェはツァン地方ボトンの出身で、法名をリンチェン・ツェモ(Rin chen rtse mo)と言った。宝頂という意味である。彼はセモチェワ・ナムカ・ギェルツェンからカーラチャクラの解釈と修持密法を学んだ。ツァン地方でボトン・リンチェンが時輪金剛像を塑像したとき、弟子たちに向かって『時輪タントラ』を講義し、修行のしかたを指導し、「立てた傘の下」の18の成就者の弟子を育てた。立てた傘とは、法座の後ろに立つ傘のことであり、高い地位の宗教者の権威を高めるためのものである。

 ボトン・リンポチェにはたくさんの弟子がいたが、パリルン(Pha ri lung)出身のタクテバ・センゲ・ギェルツェン(sTag sde pa seng ge rgyal mtshan 1152-1234)が知られている。彼はボトン・リンポチェからカーラチャクラを学んだあと、ロドン(Log grong)など各地に広め、「立てた傘の下」の弟子を13人持っていた。同時にチョブムとセモチェワから学び、のちのチョナン派の「仏性本具」「衆生平等」の思想へと向かう一歩目を踏み出したといえよう。

 セモチェワ・ナムカ・ギェルツェンの弟子のなかでもっとも知られるのは、ド系の13代目ジャムサワ('Jam gsar ba)である。またの名をチュージェ・ジャムヤン・サルマといった。新文殊法王という意味である。本名はシェラブ・オセル、すなわち智光、ツァン地方のニャンド(Myang stod)の人。年少期は故郷でニャシク(gNya' zhig)などの師のもとに学んだ。伝記などによると、彼は善行によって身を清め、厳しく持戒し、長年にわたって閉じこもり、金剛手法の修行をし、成就して、ついには一切の鬼神を使役する能力を得た。またツァン地方ニャンドのキャンドゥル寺(rKyang 'dur dgon)で法を教えたこともある。

 のち文殊菩薩の授記を得て、ニャンドのドンチュン寺(Grong chung dgon)に行き、セモチェワ・ナムカ・ギェルツェンに拝し、カーラチャクラ灌頂を受け、『時輪経』や各種釈論を学び、法の修持によって究竟を証し、瑜珈自在を成し、学ぶのにも教えるのにも優れていた。彼は深く一切の教誡を信じ、定力が深く、つねに経律論の三蔵を教えた。

 彼は名を成したあと、山中に禅修院を建て、ならびにキャンドゥル寺の時輪学院を創建した。学院を主持しながら、修法・教誡について教え、禅修を指導した。彼によって時輪教法はツァン地方全体に広まった。

 ジャムサルワ・シェラブ・オセルの弟子のなかでもっとも知られたのが、14代目伝承者とされるチューク・オセル(Chos sku 'od zer)である。チューク・オセル(法身光)は代々仏教を信じ、仏教文化の影響下にある家庭に育った。父はセディンパ・ションヌ・オキペーパ(gSer sdings pa gZhon nu 'od kyi dpal pa 童隠光)という名の有名な学識のある居士だった。

チューク・オセルは幼いときから聡明で、タクパ・リンチェンダク(sTag pa rin chen grags 宝称)から秘密集会(グヒヤサマジャ)金剛法を学んだ。タクパはグヒヤサマジャの教えの代表的な伝承者だった。家庭環境に恵まれ、仏教諸理論に通暁し、クンチェン(一切智)と呼ばれた。名を成したあと、『秘密集会タントラ釈』の講義に時間を費やし、ラマ・パクオ('Phags 'od 聖光)などの弟子を輩出した。

 のち父親の指示によってジャムサルワ・シェラブ・オセルに拝謁し、大威徳(ヤマンタカ)金剛灌頂を受け、『時輪灌頂』などの教法を聞き、智慧曼荼羅灌頂を受け、一切の心を散漫にさせる障害物を取り除いた。そして隠棲所室に長期こもって修行し、悟りの心が起きるようになり、「楽空双運」のサマディーの境地に達した。

 彼はまたジャムサルワの師セモチェワからも学び、『時輪タントラ』などカーラチャクラの解釈をよく聞いた。

中年になって以降、カーラチャクラの本タントラ、釈論、灌頂、修法教誡などを教え、カーラチャクラの主要な継承者および伝播者となった。その主要な弟子のひとりは、伝承者15代目のクンパン・トジェ・ツォンドゥ(Kun spang thogs rje brtson 'grus)である。

 チューク・オセルの没年はわからないが、生年はカチェ・パンチェン・シャーキャ・シュリ(Kha che pan chen shakya shri)がカシミールに帰国した二年目、すなわちチベット暦の木の犬の年である。

 カチェ・パンチェン・シャーキャ・シュリとは、チベット仏教史上よく知られたインド・ナーランダ寺の最後の座主を務めたカシミール・パンディタ(1127−1225年)のことである。1204年、トプ訳経師(Khro phu lo tsa ba)の招請に応じてチベットにやってきた。サパン・クンガ・ギェルツェンの師であり、1208年にはサパンに比丘戒を授けた。

 ツェテン・シャブドゥン(Tshe tan zhabs drung)の『チベット族歴史年鑑』によると、カチェ・パンチェン・シャーキャ・シュリがカシミールに帰国したのは1214年である。『年鑑』には「この年セディンパ・ションヌ・オキペーパの子チューク・オセルが生まれた」と記されているのである。この年はチベット暦第四巡の木の犬の年だった。

 

⇒ 3 チャナン寺の建立とチョナン派の形成