チョナン派

抹殺されかけたチベットの人気宗派

                             宮本神酒男 編訳


チョナン派の成立

3 チョナン寺の建立とチョナン派の形成

 カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポがチベットに来た時代から、チューク・オセルの弟子クンパン・トゥジェ・ツォンドゥの時代まで、ド系の伝承者でいえば10代、およそ250年にも及ぶ。この期間中、歴代の伝承者や弟子たちの主な活動場所はツァン地方のニャンチュ川流域だった。ドンチュンやキャンドゥルなどのニャンドゥ地方の各寺院に影響があり、時輪禅院や時輪学院が建立された。とくに8代目のユモ・ミキュ・ドルジェは他性空に関する著作を数多く発表し、セモチェ寺を建立し、密教の他性空の源流となった。

 師から弟子への伝授によってカーラチャクラは伝播していったが、世俗勢力の支持はかならずしも大きくはなかった。その原因は、影響力のある根本的な法要が確立されていなかったことが挙げられる。クンパン・トゥジェ・ツォンドゥのときになってチョナン寺が建立され、独立したひとつの宗派を成していくと、この寺の名からチョナン派と呼ばれるようになった。

 クンパン・トゥクジェ・ツォンドゥ(1243−1313)、訳して「悲精進」は、ツァン・ラトゥジャン(La stod byang)のサキャに近いンガチャル・パンガン村(Ngab phyar spang sgang)の出身で、はじめサキャ寺に学び、ツァン地方の各寺院を遊学し、顕密に通じ、当時著名であった学者チュミパ・センゲペ(Chu mig pa Seng ge dpal)らをも討論において打ち負かしたという。

 のちカーラチャクラに集中的に取り組むようになり、ラ系(Rva)のカーラチャクラの灌頂、修行、秘訣などを学び、チューク・オセルに師事してからは、ド系('Bro)の灌頂、経典義釈を学んだ。彼の学んだ6つの加行(ヨーガ)による修行法は17種にも及んだという。

それらを学んだあと、彼はキャンドゥル寺のチュベンに任命された。チュベンはのちのチョナン寺経院の講義ケンポ(住持)にあたり、一般には各種経論に通じたゲシェ(博士)が担当し、経院の経文講義の責任者である。

 クンパン・トゥクジェ・ツォンドゥがキャンドゥル寺のチュベンを担当した時期に、社会活動能力が高いことを示した。ツァン地方の有力な勢力と接触し、さらにウー地方のラサやイェルパなどに行って、精力的に布教活動を行った。

 三十歳をすぎて、彼は「命厄を除く」ため、俗を離れ遁世し、修行に専念したため、クンパンワ、すなわち「離一切事務者」と呼ばれた。

 チョナン派の伝えるところによると、クンパンワは修練によって成就を遂げた大徳である。クンパンワは、カーラチャクラの6つの加行の修法に精通し、その修練によって運気を高め、五大の風を起こすその力は無比であり、十人が力を合わせても彼の手を動かすことすらできなかった。ひとつの部屋のなかで、ある人は寒さに耐え切れず、ある人は暑さに耐え切れなかったという。部屋のなかでも場所によって運気が異なっていたのだ。

 さらにクンパンワは壁の小さな穴を通り抜ける能力があった。またつねに瞑想しているときに十一面観音などの本尊を見ることができた。すべての仏典に通じ、修練によって神通力を得たので、その名声はおおいに広まった。

 11世紀中葉以来、チベットの社会は発展し、地方封建勢力が統治を強固にし、経済力を強めるために、相互に争奪しあうなかで宗教は無視できなかった。とくに影響力のある宗教人をどう取り入れるかは、統治のために重要だった。宗教勢力側からしても、世俗政権の支持は不可欠だった。政治のサポートを得て、経済的にも支えられることは、宗教の発展につながった。このような状況下で、各勢力の支持を得た宗教的人物はそれぞれの特色を鮮明にし、布教を進めながら変化していった。聖跡の伝説があれば、そのまわりに影響の及ぶ場所に根本道場を建てた。これによってさらに影響力を周囲に与え、あらたに宗派を形成することになる。チョナン派はこのようにして独立した宗派としてチベットに出現したのである。

 クンパンワは名を成したあと、ラトゥジャンの首領によってチョナンの地に布教をするよう要請された。その首領は、『チョナン教法史』によればナクメン・ギェルモ(Nags sman rgyal mo)、すなわちナクメン女王である。『青史』によればチョモ・ナクギェル(Jo mo nags rgyal)、すなわち女首領ナクギェルである。ナクギェルはナクメン・ギェルモの略。ナクメンはラトゥジャン地方の女首領の名。チョモナン、縮めてチョナンは、シガツェ地区ラツェ県内のナクギェル・ペルギ山(Nags rgyal dpal gyi ri)のこと。この山は険しく、溝と谷が縦横にあり、洞窟がふんだん、風景は美しく、静かで、僧侶たちにとっては古来より理想的な修行地だった。修行のための庵室も少なくなかった。

 伝承によると、吐蕃期のヌプチェン・ナムカイ・ニンポ(sNubs chen Nam mkha'i snying po)こと虚空蔵、ダムデ・ルイギェルツェン(Dam 'bre klu'i rgyal mtshan)こと竜幢、ナナムパ・ツルティム・チュンネ(sNa nam pa Tshul khrims ’byung gnas)こと戒生および後世のドクミ訳経師('Brog mi lo tsa ba)の女弟子コンチョク(dKon mchog)ら名僧都はみなここに長期間滞在し、修行した。

このなかでコンチョクは唯一の女ヨーガ行者であり、この地で(解脱して)虹身となったという。コンチョク虹化(入寂)の80年後、マチク・サンギェ(ma cig sans rgyas)がこの地にやってきて、長期間修行し、禅院を建立、自身住持を務めた。ここではカダム派の三士道次第のほかニンマ派のゾクチェンもまた学ぶことができ、両者を融合させた。

 この後、有名なグゲの大翻訳官リンチェン・サンポ(958−1055)も来て修練したという。瞑想中、リンチェン・サンポは吉祥天女(パルチェン・ラモ)や勝楽金剛(サムヴァラ)、パドマ・サンバヴァらを見ることができた。『チョナン教法史』によれば、リンチェン・サンポはここに密教金剛禅院を建立した。

 クンパンワがはじめてチョモナンに来たとき、30人以上の僧がここで修練していた。それを基礎に、ナクメン女王の支持のもと、チョモナン寺、のちの通称チョナン寺を建立した。クンパンワはここで耳伝の収摂、禅定、運気、持風、随念、三摩地など、無上瑜珈無二のカーラチャクラ六支加行の修練方法を記し、『タントラ部要義本釈』と名づけた。これはチョナン派の主要法門となった。

 クンパンワは、サキャ派のいわゆる「はじめ福ならざるを捨て、中に我執を断ち、後に一切の見を除く」という道果(ラムデ)三次第および「境の二諦」学説など、より深い学習・研究に入った。そしてサンスクリットの清濁音などによって道果の法門を編集し、サキャ派が崇拝するドクミ訳経師の道果法理論の解説を行った。

 これによりスムパ・ケンポ(Sum pa mkhan po)は著書『如意宝樹史』の中で「クンパンワの見はドクミの道果法とギチョ訳経師(Gyi co lo tsa ba)のカーラチャクラを混合させた。サキャ派に属する」と評されることになる。

 チョモナンにいたとき、クンパンワは周囲の地方豪族・勢力からたびたび招待された。クンパンワはセンゾン(Seng rdzong)キョクポ('Khyog po)キプクデデン(sKyid phug bde ldan)などに呼ばれ、伝教活動を行った。

 彼は衆生を前に経典を義釈し、新旧の密教について講じた。なかでも重視していたのが「楽空双運」の六支加行法と『時輪根本タントラ』および各種釈論の伝授だった。著書『タントラ部要義本釈』の講座は、毎年二度寺の中で設けられ、毎回600人以上の聴講者が参加したという。

 チョナン寺を基礎として、チョナン派は発展した。もとからあったドンチュン寺、キャンドゥル寺、セモチェ寺などの寺院は、他性空を宗見とするチョナン派寺院となった。

 クンパンワの生没年に関する記載はないが、伝記などをもとに、チベット暦水のウサギの年に生まれ、水の牛の年、春二月二十五日に71歳で入寂したとされる。

 クンパンワが没したとき、サキャ五祖のパスパ(1235−1280)は人生のなかばを折り返したばかりだった。クンパンワの弟子ジャンセム・ギェルワ・イェシェ(Byang sems rgyal ba ye shes)はカルマ・カギュ派開祖カルマ・パクシ(1204−1283)の法を受けた弟子でもあった。このことから、クンパンワは1243年に生まれ、1313年に没したと断定されよう。

 『チョナン教法史』によれば、クンパンワはチョナン寺建立後21年間、寺の住持を務めた。その後弟子のジャンセム・チェンポに付法し、数ヵ月後の水の牛の二月二十五日に入寂した。チョナン寺の正式な建立は、しかし、1293年ということになっている。


⇒ チョナン派の伝播
   1 ポピュラー宗派化前夜