チョナン派

抹殺されかけたチベットの人気宗派

                                        宮本神酒男 編訳

絶頂期、そして衰退

1 ポピュラー宗派化前夜

 チョナン派形成初期、クンパンワ(クンパン・トゥクジェ・ツォンドゥ Kun spangs thugs rje brtson ’grus)とその弟子たちによって教義が広められ、勢力が拡大した。クンパンワの弟子のなかでよく知られるのがジャンセム・ギェルワ・イェシェ(仏智 Byang sems rgyal ba ye shes)ムンメ・タクカワ・ダクパ・センゲ(名称獅子 Mun me brag kha pa grags pa seng ge)スンワ・クンガギェル(遍喜勝 Sron ba kun dga’ rgyal)の四人。なかでもジャンセム・ギェルワ・イェシェはクンパンワに継ぐ16代目のカーラチャクラ伝承者と認められた。

 ジャンセム・ギェルワ・イェシェ、短く言ってジャンセム・イェシェワは、ジャンセム・チェンポという尊称で呼ばれた。彼はドカム人(四川省カンゼからチベット自治区チャムドにかけての地域)で、火の蛇の年(1257年)に生まれ、幼年期はカルマ・パクシ(1204−1283)を師として経典を学んだ。『青史』によれば、カルマ・パクシは彼を養子として、法・財両面で育てたという。

 カルマ・パクシはカギュ派黒帽(カルマ派)の創始者であり、本名はチューキラマである。ドカム地区のディルン('Bri lung)に生まれた。ディルンとは金沙江(長江上流)の谷の意味。カンゼとチャムドの間の地域を指す。カルマ・パクシとジャンセム・イェシェワはおそらく同地域の出身である。

 ジャンセム・イェシェワは何年間もカルマ・パクシに師事し、修法と教誨のすべてを学び、修練を積んだが、悟りを開くというところまでは行かなかった。ここにおいてカルマ・パクシは、学ばないことこそ法の機縁と考え、彼に聖地や山間の静かな庵室などを遍歴させることにした。教門の偏見をなくし、より高度な教えと出会うことがあると考えたのである。

 ジャンセム・イェシェワは師のことばに従い、故郷を離れて各地を遊学し、シャルワ・ジャムヤン・チェンポ(Shar ba ’jam dbyangs chen po)の門下生となった。そこに常住し、左右に侍り、こののち名を慕ってチョナン寺を訪ね、クンパンワに拝謁した。彼は六支瑜珈などのチョナン派の諸法を学び、法に依って苦行に耐え、悟りを開き、クンパンワの信頼を得て筆頭の弟子となった。

 ジャンセム・イェシェワは学を成したあと、大徳年間(1298−1307)に師の命を受けてチョナン寺付近にデチェン寺(bDe chen dgon pa)を建立した。経典や法を講じ、僧侶たちに密修を指導した。

 彼には人を善に導く慈悲の能力があり、人々は尊敬して彼のことをジャンセム・チェンポと呼んだ。短く、ジャンセムと呼ぶこともあった。「具大菩提心者」という意味である。

 元の皇慶二年(1313)、入寂する前夜、クンパンワはチョナン寺の衣鉢を彼に渡した。これによりジャンセム・イェシェワはチョナン寺とデチェン寺の座主となり、二つの寺を8年間主持した。そして鉄の猿の年(1320)の二月十日、入寂した。享年64歳だった。

 デチェン寺以外にも、ジャンセム・イェシェワはいくつかの修法禅院を建てた可能性がある。彼がこの世を去った場所も、プクモ・チューゾン・リト(Phug mo chos rdzong ri khrod)という隠棲所だった。

 『青史』によると、ジャンセム・イェシェワは特殊な大徳だという。彼に依止(えじ)した人々は、彼の教え導きによって、生起する殊勝の悟りを開き、最後に円満の境地に至ることができた。

 彼はチョナン寺の座主を継いだあと、ラマ・クンソパ(bLa ma kun bsod pa)ら善知識、およびジャンドゥやヨンズン(Yon btsun)の部族長といった大物がみなやってきて依止した。これらの記述から、ジャンセム・イェシェワは当時すでに名声を得ていて、ラトゥジャン地区でも布教活動が行われ、地方勢力の支持を得ていた。

 ラトゥパ・ワンギェル(La stod pa dbang rgyal)はチョナン寺のあるラトゥ地方の出身で、チョナン寺で出家し、クンパンワに師事した。修練に励んで徹底的な悟りを習得し、名を成したあとゲワ(dGe ba)下部地区で布教し、チョナン派の教法を広めた。クンパンワの叙述を書き留めた『修学指導』をもとに僧らを指導し、それによって多くの人が「修障」を取り除くことができた。

 ムンメ・タクカワ・ダクパ・センゲ(Mun me brags kha pa grags pa seng ge)はクンパンワの弟子のなかでも博識ぶりでは抜きん出ていた。出身地は古代「四ル」のひとつ「イェ・ル」北部のタンカル(Thang dkar)だった。

イェ・ルは、ナムリン(rNam gling)を中心とし、東はランマクルプ(gLang ma gur phub)、南はニェラム(gNya’ nang)、西はジェマラク(Bye ma la dgu)、北はミティ・チュナク(sMri ti chu nag)を境界とした。タンカルはあきらかに現在のラツェ県のタンカである。

 ムンメ・タクカワ・ダクパ・センゲは幼少のころ、ツァン地方のトプ寺(Khro phu dgon)のトプ活仏ソナム・センゲのもとで出家した。成年後は比丘戒を受け、トプ・カギュ派に所属した。

 またサキャ寺において、チャルワ・センゲペ(Phya ru ba seng ge dpal)から法称の『釈量論』などの因明の著作を学び、マイトレーヤの『弥勒五法』や竜樹(ナーガールジュナ)の『理集六論』など多くの密教経典で通暁していないものはなかった。

 サキャ寺で仏教の基本理論を学んだのち、仏教の重要な部分は修証であると考え、チョナン寺へ赴き、クンパンワのもとに身を投じた。『六支加行導釈』を学び、チョナン派に改宗した。

 のち彼はロン(Rong)地方へ行き、ガ翻訳官の幼子アガロ・センディから『時輪根本タントラ釈』やその他カーラチャクラ関係の論著を学んだ。隠棲所ヤールン・リト(gYa’ lung ri khro)では修練に励み、あいた時間で時輪経や六支加行修法を教えた。

 元の大徳六年(1302)、彼は現在のラツェ県タクカ(Brag kha)に定住し、長期間カーラチャクラ教法を修練した。そして六巡目の水の羊の年(1343)、89歳で世を去った。

 伝説によれば、彼はタクカで修行しているとき、毎日護摩を焼く儀軌を行い、瑜珈六支と生円二次第をつねに修していた。夏には閉じこもって外に出ず、寄付や献納を楽しみ、神通を得ると未来の予言ができるようになった。

 自分の身をもって修練を積み、六支加行、直感導修、能断法、五釘秘法を四大教導と呼び、自身の法門とした。彼の弟子はチュージェ・ラマ・タムパ(Chos rje bla ma dam pa 聖者法王上師)十難論師シュンヌ・センゲ・ロト(dKa’ bcu ba gzhon nu seng ge blo gros 童獅子慧)ワンヌシュワ・シュンヌペ(Ban mo zhu ba gzhon nu dpal 童祥)らである。

 スンワ・クンガギェル(Sron ba kun dga' rgyal)は、『青冊史』によればもともとモンゴル王室に委任された官吏で、パスパの命を受けて出家し、三蔵を学んだ。パスパは元の至元十七年(1280)に世を去り、スンワ・クンガギェルは南宋淳祐年間(1241−52)か宝祐年間(1253−58)に生まれたので、クンパンワと基本的に同世代である。

 スンワ・クンガギェルはサキャ派で出家して学び、のちチョナン派に入った。クンパンワを師としてチョナン派に改宗し、チョナン派の各種教法を学び、修練法を会得した。伝えるところによると、禅定中に観自在菩薩や古代インドの成就者シャバリ(Sha ba ri)を見ることができた。これによりいくつかの異なる教法を自分のものとした。

 こうして彼はクンパンワのチョナン派六支加行などの修練法に独自のものを加えて統合し、スンワ系と称されるチョナン派の一派を形成した。

 その教法の継承者は、スンワ・チューペ(Sron ba chos dpal 法祥)とケンチェン・ソダクパ(mKhan chen bsod grags pa)の二大弟子である。当時はスンワ系の教法を学ぶ人がきわめて多かった。パデン・ラマ(dPal ldan bla ma)という僧の師もスンワ・クンガギェルと二大弟子からスンワ系の教法を学び、タナパ・チュジャンペ(法護祥)の師はスンワ・チューペからスンワ系の教法を学んだ。タナパ・チュジャンペはのち、ムンメ・タクカワ・ダクパ・センゲの弟子十難論師シュンヌ・センゲ・ロトゥに伝えた。

 ジャンセム・ギェルワ・イェシェがチョナン寺とデチェン寺の座主を務めているあいだ、チョナン派の社会的影響力は日増しに強くなっていった。ツァン地方のラトゥジャン一帯の地方勢力の支持を得ただけでなく、サキャ派やカギュ派の僧らを吸引していた。彼自身、もともとカルマ・カギュ派からチョナン派に改宗していたのだ。その法は深遠で、カギュ派への影響は大きかった。没後、カルマ・カギュ派三世活仏ランジュン・ドルジェ(1284−1339)は彼の伝記を書いたほどだった。

 元の延祐七年(1320)、ジャンセム・ギェルワ・イェシェ入寂後、その弟子ケツン・ヨンテン・ギャツォ(mKhas btsun yon tan rgya mtsho 徳海)はチョナン寺の座主を引き継ぎ、17代目のカーラチャクラ継承人となった。

 ケツン・ヨンテン・ギャツォはジャンセム・ギェルワ・イェシェより3つ年下にすぎず、チベット暦の鉄の猿の年(1260)、ツァン地方のド(mDog)のカルニン(mKhar rnying)ベンパ村(sBen pa)のニンマ派を奉じる家庭に生まれた。

彼は少年期、当地のダルタツァン(mDar gra tshang)などの経院で経典を学んだ。青年期になってサキャ寺に入り、高僧シャルワ・ジャムヤン・チェンポ(Shar ba ’jam dbyangs chen po)短く言ってジャムヤンパに師事した。サキャ派の各種経典をよく読み、ジャムヤンパから認められた。

元の至元年間、彼はジャムヤンパについてモンゴルの上都へ行った。その後ジャムヤンパの許可を得てチベットに戻る。元の皇慶年間(1312−13)彼はチョナン寺に行き、チョナン派に改宗した。ジャンセム・ギェルワ・イェシェとは師友の間柄で、ともにクンパンワからチョナン派の密教灌頂を受けた。

 しばらくしてクンパンワが世を去り、ジャンセム・ギェルワ・イェシェが座主となった。彼もまたギェルワ・イェシェに師事し、密法灌頂を受けた。チョナン派の秘密の経典や密法、修練法などを伝授された。

 『チョナン派教法史』によると、彼は修練をきわめてよくし、成就を遂げた。瑜珈修行を21日間行い、十種の証相の円満を得た。また昼間、瑜珈の修練によって空を飛ぶことができた。ひとたび矢の届かない外部に出ると、七日間、チョナン地方の山や川を遊覧したという。こうして無碍の神通力を会得し、各種法や経典で通じざるものはなく、信徒のあいだではますます声望が高くなった。

 元の延祐七年、ジャンセム・ギェルワ・イェシェが逝去したとき、彼は齢61でチョナン寺の座主を継いだ。正統なチョナン派の法主であった。座主を務めること7年、チベット暦5巡目の火の虎の年(1326)、弟子のドルポパに付法した。その後二年もたたない火の兎の年(1327)八月五日、入寂した。享年68歳。

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    2 絶頂期:ドルポパと弟子たち