チョナン派
抹殺されかけたチベットの人気宗派
絶頂期、そして衰退
2 絶頂期:ドルポパと弟子たち
元の至元年間にクンパンワがチョナン派を形成してから、泰定三年(1326)ドルポパ(トゥルプパ)がチョナン寺の座主を継ぐまで、40余年。この期間にチョナン派は発展し、ツァン地方に多くの寺院や禅院が建てられ、一定の勢力を形成し、その他の教派にも影響を与えるようになった。チョナン派の少なからぬ僧侶が、もともとニンマ派、カギュ派、サキャ派を信仰していたのだ。ドルポパの時代、チベットの重要な宗派のひとつといえるまでに成長していた。
ドルポパ(1292−1361 智幢)、法名シェラブ・ギェルツェンは、元の至元二十九年(1292)、チベット・ンガリ(現在ネパール)のドルポのパンツァン家族(Pan tshang)のもとに生まれた。
父の名はイェシェ・ワンチュク(Ye shes dbang phyug)、母の名はツルティムギャン(Tshul khrims rgyan)だった。家族は代々ニンマ派を奉じた。ドルポパは、幼い頃は故郷でキテンパ(sKyi stengs pa *叔父にあたる)を師とし、ニンマ派の教法とナーガールジュナの中観理集六論を学んだ。
11歳のときケンポ・ツルティム・ニンポ(mKhan po Tshul khrims snying po)から沙弥戒を授かり、シェラブ・ギェルツェンの名を取った。
16歳のとき、サキャ寺高僧キトゥン・ジャムヤン・ダクパ(sKyi ston ’jam dbyangs grags pa)は、ンガリのヤツェ寺(Ya rtse dgon)へ行き、その帰り道にドルポに立ち寄った。
ドルポパはキトゥン・ジャムヤン・ダクパに拝謁し、弟子となり、『現観荘厳論』『入中論』『倶舎論』『量決定論』などの顕教の経典と『金剛鬘灌頂法』やラ系の伝えるカーラチャクラの70余種の密法などを学んだ。
この時期、ドルポパはすでに沙弥戒を受けていたが、出家したわけではなく、在家の居士にすぎなかった。元の皇慶元年(1312)、ドルポパ21才のとき、家出をして、ふたたび師のキトゥン・ジャムヤン・ダクパを拝謁し、般若、因明、倶舎などの諸学のほか、『入行論』および密法などを学び、サキャ寺で出家した。
22歳のとき、ドルポパはケンチェン・ソナム・ダクパ(mKhan chen bsod nams grags pa)によって比丘戒を受けた。
王森『チベット仏教発展史略』によると、ドルポパがサキャ寺で顕教四大論、すなわち『現観荘厳論』『入中論』『倶舎論』『量決定論』を講義したとき、ほかの人の非難を気にせず、サキャ寺で教えるのが禁止されている『入中論』も講義した。それによりサキャ派の僧として罰せられてしまった。
こののち、ドルポパはチベット各地の大寺院などを遊歴するようになり、さまざまな弁論い参加し、多くの師から顕密の教えを学んだ。こうして当代一の大学者が誕生したのである。仏教学のすべてに通じていたので、人々はドルポパのことをクンケン(Kun mkhyen)すなわち「遍知一切」と呼んだ。現在もチョナン派の僧はドルポパをクンケン、あるいはクンケン・チェンポと呼んでいるという。
史書によると、ドルポパはツァンのタナク(rTa nag)で、リンチェン・イェシェ大師から薬石を借りて、寿命が延びる摂生術を学んだ。そして『弥勒の五法』、三種の『般若経』を学んだ。彼は『般若十万頌』をすべて、そらで読むことができたという。
元の至治二年(1322)、ドルポパ31歳のとき、チョナン寺へ行き、チョナン派に改宗した。当時の座主ケツン・ヨンテン・ギャツォから数年間、カーラチャクラに関するすべての義釈、経論、密法を学んだ。法に依って修持し、ついに悟りを得たという。
これにより、一般には、ドルポパにとってもっとも重要な師は、キトゥン・ジャムヤン・ダクパとケツン・ヨンテン・ギャツォのふたりだとされる。
ドルポパの顕教の基礎はキトゥン・ジャムヤン・ダクパから与えられた。サキャ派の特徴が顕著である。一方、密教の基礎はケツン・ヨンテン・ギャツォから与えられた。こちらはチョナン派の伝統である。
元の泰定三年(1326)、35歳のドルポパはケツン・ヨンテン・ギャツォの後を継いでチョナン寺の座主となった。またチョナン派の18代目と認められた。
座主として35年務め、元の至正二十一年(1361)、ドルポパは70歳で入寂した。
在職期間中も、ドルポパは日夜苦労し、チョナン派の理論体系をまとめ、教派の発展に貢献した。彼の弘法事業はつぎの三つに分類される。
1)寺院、仏塔建設
チョナン寺に「見者皆得解脱大仏塔」を建てる。これはチョナン派のもっとも有名な仏塔で、『チョナン派教法史』によれば、ドルポパはこの仏塔の建造工程に数年間を費やした。完成したとき、天には虹が輝き、谷には渓流が流れ始め、暴風が突然やむなどの奇跡が起きたという。チョナン派の僧は後世までこの仏塔を誉れとし、四川アバ地区ではこれを模倣して多くの仏塔が作られた。
ドルポパはチョモナンにいながら、プクモ・チューゾン(Phug mo chos rdzong)やジワルプク(sPyi bar phug)などの岩山に多くの仏塔や仏堂を建てた。それらの一部はなお残存している。
このほかンガムリン寺(Ngam ring
dgon)を創建し、その寺付属の講経院も創始した。
2)チョナン派教義の伝道
ドルポパがチョナン寺で講義をするとき、少なくとも二千人、多い場合数え切れないほどの弟子が集まった。どれだけの信徒に灌頂、授戒、伝法を賜ったか、想像することすらできないほどである。
またラサ、チュールン(Chos lung)、ウユク(’U yug)、ニェモ(sNye mo)、トゥルン(sTod lung)、ヤンドク(Yar ’brog)などに足を伸ばし、法を広めたときも、毎日数百人が集まったという。
元の至元五年、ドルポパは弟子のロドペ(Lo tsa ba bLo gros dpal)に座主の職務を任せ、自身はウー地方(中央チベット)に長期滞在し、布教活動を行った。ラサで時輪金剛六支加行を十一ヶ月行うかたわら、『時輪根本続釈』『般若十万頌』『灌頂総示』『ナーロー六法広釈』『中観賛頌集』『心経』『山法了義海論』などを教えた。
その講義を聴く者は、上は上師(ラマ)や善知識、地方首領から下は一般民衆、はては乞食まで、多いときには1800人も集まったという。同時にドルポパに護符を求めて来る者も後を絶たず、日に百人にも達した。このようにドルポパの布教活動はツァン地方からウー地方にまで及び、宗派ができて以来最初の全盛期を迎えたのである。
その名は遠くにまでとどろき、モンゴル王室は中国への布教を促したほどだった。ただしドルポパは修練に忙しく、実現することはなかった。ドルポパはこのようにチベットだけでなく、中国の上層階級への影響力をも持っていた。
3)チョナン派の教義と理論の確立
ドルポパはチョナン派了義と中観学の集大成者だった。クンパンワ(クンパン・トゥクジェ・ツォンドゥ)によって中観他性空説が切り開かれたとはいえ、その中心となるのは六支加行法の整理とまとめであり、顕教方面の理論は十分とはいえず、サキャ派の四大理論をその基本としていた。
ここからチョナン派の開祖をだれとすべきかという論争が生じることになる。根本道場であるチョナン寺を創建したことから、クンパンワを開祖に推す声がある一方、チョナン派の根本教義である中観他空説という理論体系を生み出したことからドルポパを支持する声が大きいのである。
ドルポパは顕密に通じたことで世に広く知られた。彼が教え説いた顕教経典は、竜樹の「理集六論」や弥勒の「慈氏五論」のほか、『賛頌集』『教戒集』『般若十万頌』『般若波羅密多心経』『心釈三類』『入行論』などだった。
一方密教経典は、『時輪経』『灌頂総示』『喜金剛三続』『喜金剛続ナーローパ大疏』『空行海論』『金剛鬘』『密集明灯』『紅黒怖畏三閻曼徳迦タントラ』などだった。
弟子たちに授けた灌頂は、時輪、金剛鬘、勝楽、喜金剛、密集、閻摩敵、金剛界、馬頭明王、金剛厥など本尊法だった。
チベット暦六巡目の木の犬の年(元至順四年、1333年)、ドルポパは弟子のマデ・パンチェンと訳経師ロドペ(Lo tsva ba bLo gro dpal)に『時輪経』を改訳するよう要請した。この改訳をもとにしてドルポパは『時輪金剛無垢光大疏偈頌釈』『吉祥時輪経智慧函深奥了義集要』『時輪意壇現証広論』などを著し、時輪金剛灌頂や儀軌、修練方法などについての文章を書いた。
ドルポパが著した『山法了義海論』『山法海論科判』『第四結集』など他空説の基本教義を解説したものは、チョナン派の根本経典となった。
このほか『般若経』『現観荘厳論』『究境一乗宝性論』などの解釈本も著した。
『チョナン派教法史』によると、ドルポパは一生涯に『山法了義海論』などチョナン派の教義に関する著作が16編、『時輪科判』などカーラチャクラに関する著作が18編、祈祷経文3部25種、大悲観音法23種、賛頌14種、『金剛鬘灌頂』など灌頂法3種、書信8種、そのほか『般若釈』『四吉祥経』などを著した。
ザムタン(四川アバ州)のツァンワ寺(Dzam thang gTsang ba dgon)が保有する『ドルポパ全集』は、7函74種3289ページにも及ぶという。チベットの経典の木刻には両面があり、1ページは実質2ページなので、6578ページの大著ということになる。チョナン派の各寺院が供奉するこれら著作は、学ぶ僧らにとってよき教材でもある。
ドルポパは仏学の造詣が深いだけでなく、密教の修練を集中して行った。法を学ぶのに、かならず実践した。晩年にも講義を与えるほか、修練の仕方も伝授した。
伝記によると、彼は禅定のとき、観音、文殊、金剛手、ターラ、薬師仏、弥勒などの仏、菩薩のほか、空行海、幻網、金剛亥母、金剛界などの曼荼羅を観想した。また怙主ならびに毘沙門天護法を自在に使用し、呪符を記して魔の侵入を防ぎ、幻影を自ら作り出した。逝去する前の五年間は、辟穀し、二便を断ち、トゥモ(臍輪火)で起こし、気(プラーナ)の統制をすることができた。
チョナン派の信徒はドルポパに対し無限の尊敬の念を抱き、はなはだしくは、シャムバラ王の白蓮法王の転生ではないかと考えるにいたった。
ドルポパには多数の弟子があった。そのなかでも知られるのが、クンパン・トゥジェ・ツォンドゥ(Kun spangs thugs rje brtson ’grugs)、訳経師ロドゥペ(Lo tsva ba bLo gros dpal)、ササン・マティ・パンチェン(Sa bzang ma ti pan chen)、ディグン訳経師マニカシュリ(’Bri gung Lo tsva ba Ma ni ka shri)、シャントゥン・ギャウォ・ソナムダク(Zhang ston rgya bo bsod names grags)、タンポチェ・クンガブム(Thang po che kun dga’ ’bum)、メンチュ・カワ・ロドゥ・ギェルツェン(sMan chu kha ba bLo grogs rgyal mtshan)、チュージェ・リンチェン・ツルティム(Chos rje rin chen tshul khrims)、ガルンパ・ライギャルツェン(Gha rung pa Lha’i rgyal mtshan)、チュージェ・プンツォク(Chos rje phun tshogs)、タントゥン・チュンワ・ロドゥペ(Thang ston chung ba blo gros dpal)、チョレー・ナムギェル(Phyogs las rnam rgyal)、ニャブンパ・クンガペ(Nya dbon pa kun dga’ dpal)の13人である。
このなかでもチョレー・ナムギェルとニャウンパ・クンガペはチョナン寺の座主を務めたことがあり、チョナン派19代目と20代目の伝承者とみなされる。この13人に加え、孫弟子のツェ・ミンパ・ソナム・サンポ(mTshal min pa bsod names bzang po)とあわせて14人がドルポパの重要な継承者と考えられる。現在に至るまでチョナン派信徒は彼らを尊敬していて、寺院にはかならず彼らの肖像や彫像が置かれている。
いまもチョナン派各寺院の壁には、遍知三世真実仏、すなわちドルポパを中心に据え、14人の弟子に囲まれた「ドルポパ師徒弘法図」が見られる。
14人の弟子のプロフィールを詳しく示そう。
*詳細は次章。
1)クンパン・チューダクペ(Kun spangs Chos grags dpal 1283-1363)
2)訳経師ロドゥペ(Lo tsva ba bLo gros dpal 1299-1353)
3)ササン・マティ・パンチェン(Sa bzang
ma ti pan chen 1294-1376)
4)ディグン訳経師マニカシュリ(’Bri
gung Lo tsva ba Ma ni ka shri 1289-1363)
5)シャントゥン・ギャウォ・ソナムダク(Zhang
ston rgya bo bsod names grags 1280-1358)
6)タンポチェ・クンガブム(Thang po
che kun dga’ ’bum 1331-1402)
7)メンチュ・カワ・ロドゥ・ギェルツェン(sMan chu kha ba bLo grogs
rgyal mtshan 1339-1413)
8)チュージェ・リンチェン・ツルティム(Chos rje rin chen tshul
khrims 1345-1416)
9)ガルンパ・ライギャルツェン(Gha rung pa Lha’i rgyal mtshan
1319-1401)
10) チュージェ・プンツォク(Chos
rje phun tshogs 1304-1377)
11) タントゥン・チュンワ・ロドゥペ(Thang
ston chung ba blo gros dpal 1313-1391)
12) チョレー・ナムギェル(Phyogs
las rnam rgyal 1306-1386)
13) ニャブンパ・クンガペ(Nya
dbon pa kun dga’ dpal 1345-1439)
14)ツェ・ミンパ・ソナム・サンポ(mTshal
min pa bsod names bzang po 1341-1433)