知性の三つのタイプ、さらにそれを超えて 

 バクティの伝統的な見方では、知性には4つのタイプがある。一つ目は、単純に、聞いたり、観察したりして学び、情報を吸収し、結論を導き出す能力。たとえばこの種の知性を持った男が盗みは違法だと教えられ、盗みによって泥棒が刑務所に送られると聞けば、彼は盗みを働くことはない。その機会が目の前に訪れても、盗みをしたりはしない。

 二番目は、経験を通して学ぶ能力。この種の知性を持つ者は、盗みは違法を聞くが、盗みたいという誘惑に勝てないタイプ。この行為のあと彼らは後悔し、将来順番により賢い選択をするようになる。この種の知性を持つ者は失敗から学ぶが、最初にミスを犯す前に、認識で学ぶこと以上に試行錯誤に頼るのは危険である。ベンジャミン・フランクリンいわく、「経験は大切な学校である。しかし愚者はそれ以上のことを学ばない」。あるいはローマのことわざいわく、「愚者のみが経験から学ぶ――賢者は他人の経験から学ぶ」。

 三番目は、方向性の間違った知性。その知性のなかで、わたしたちは自身の利益に反し、経験しているにもかかわらず、学ぶことを拒み、慢性的に行動する。この種の知性を持つ人々は、盗みは悪いことだと聞くが、捕まり、罰される。しかし何度も盗む。なぜなら彼らはシステムを破ることができ、盗んでいるものが十分重要で、ほかに選択肢はないと信じているからである。わたしたちはいつも知性が適切な認識をしているとみなしがちである。この種の知性は自己の関心の誤解をもとに考えていることが多い。彼らはよい選択をして、悪い選択を避ける能力を鈍らせている。

 わたしが述べた三つの知性を超える知性の状態がある。知性を魂に調和させたとき、自身の内側にそれを見いだすことができる。聖典のガイドと覚醒した人々の手助けによって、この調和は可能になる。戦争、テロ、殺人といったひどいニュースと毎日接しているにもかかわらず、自身によって覚醒した男女の心(ハート)の深いところには、利他的な愛に根ざした健康生活のための空間がある。彼らは理解できる生活を送ろうとしている。ゆえに自然と、他者を傷つけたり、他者から奪ったりすることがないように気をつけている。愛の受容能力はすべての生きるものに内在している。それが知性のもっとも純粋な表現である。

 

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