エゴ 

 むかし、ある賢者が川岸に坐っていた。川面の激しい流れを眺めていると、一匹のサソリが溺れまいともがきながら、なすすべなく流されているのが見えた。彼は心(ハート)をやわらげ、かがんでサソリを水から掬い取った。サソリはしかししっぽを振って彼の手に一撃を加えた。痛みに注意を取られて、彼はサソリを水に落としてしまった。それがまた溺れているのを見て、彼はもう一度掬い取ったが、またしても刺されてしまった。そしてふたたびサソリを川に落としてしまった。賢者がついに三度目になるが、水面に手を伸ばしたとき、見ていた人がたずねた。「あなたはなぜ、あなたを攻撃しつづけるこの生き物を助けようとするのですか」

 賢者がサソリを水面からサッと上げたとき、またも刺されてしまった。しかし今回はなんとか土手に放りだし、サソリの命を助けることができた。サソリがそのまま這ってどこかへ消えると、賢者は通行人ににっこりと笑って言った。「わたしたちはみな自身の本性にしたがって生きています。刺すのはサソリの本性なのです。至高のものを愛する人の本性は、思いやりです」

 これは思いやりの極端な例のように思われるが、おそらくその通りである。しかしとくに覚醒した人物の本性に光を投げかけてくれる。わたしたちの知性がこの賢者のようにスピリチュアルな実践を通して純化されれば、わたしたちもまた自身のスピリチュアルな本性に同調することができるだろう。

 

欲望やあらゆる所有欲を断念した者、偽りのエゴ(自我)を放った者は、平安を得ることができる。

             バガヴァッド・ギーター 2・71 

 

 あなたが「あなたは誰?」と聞かれたら、おそらく名前を名乗るだろう。さらなる情報を求められたら、あなたは生まれた場所や国籍、仕事、社会的役目や地位をこたえるかもしれない。「わたしはサラ、ミネソタから来ました。秘書として働く母親です」。もっと細かいことを聞かれたら、あなたは個人的なことを話すだろう。おそらく宗教や政治的な所属、音楽や芸術、ファッションなどについて。こうした描写によって他者との違いがはっきりし、区別することができるのである。

 いや、区別できるだろうか。

 ヨーギの観点からみると、これら自己像はじっさいエゴの表現である。辞書はエゴを「意識的な考える主体」とか「わたしたちに個人的なアイデンティティの感覚を与える心(マインド)の部分」と定義する。社会的相互作用のなかで、エゴは「自尊心の感覚」に関連するかもしれず、他人を犠牲にして彼あるいは彼女の自尊心を表現する人は、「利己的」と呼ばれる。

 思想のさまざまな学派は異なるやりかたでエゴについて説明する。たとえばドイツの哲学者イマヌエル・カントはつぎのように書く。「超越的なエゴは、われわれの思考、すなわちわれわれの体験の主体の考え手であり、われわれの行動の意志を持つ者であり、わたしたちが体験する世界を構成する統合体のさまざまな活動の主体者である」。

 ヴェーダは同様に真のエゴを(間違ったエゴと区別するために)永遠の自我、アートマ、わたしたちの内の意識的な生きている力と定義している。純粋な自我、あるいは純粋なエゴは、至高の存在と関連した自然の、内在的なアイデンティティを持っている。その関係を否定し、否認したとき、わたしたちは表面的な名ばかりの存在になってしまう。わたしたちはたんなるアメリカ人、中国人、男、女になってしまう。このエゴは偽りのエゴだ。それを維持するために、偽りのエゴはわたしたちに精神的なアイデンティティを忘れ、かわりに自分自身の二次的な、物質的な側面を認識するよう要求する。この側面は、この身体におけるこの人生を超えてつづくものではないのだ。それはわたしたちに「わたしはこの身体だ。そしてこの身体とつながるものはすべてわたしのものだ」と考えさせるのである。

 わたしたちはこの世界で生きていかねばならないので、社会的なレッテルにアイデンティティを固定するのは簡単なことである。男、女、若者、老人、インディアン、アメリカ人、黒人、白人、イスラム教徒、ユダヤ教徒――さもなければ、持っているもの、知っていること、感じていることの上にアイデンティティの基礎を置けるだろうか。このように、表面的なレッテルに自己同一しすぎると、そこが苦悩の発生源になる。

 誤認がもたらした苦悩をわたしたちは乗り越えるかもしれないが、偽りのエゴを持って行動していた人々は、周囲の人々にかなりの影響を与えている。文字通り表面上のレッテルは他者との違いをはっきりとさせる。それによってわたしたちはグループや種類に分類されるのだ。さらに悪いことに、一部の人たちはほかの人よりも重要だと仮定するようになっている。偽りのエゴはパワフルなのだ。それは利己主義、傲慢、支配欲、他者の搾取へと導き、いかなることも正当化しようとする。こうした傾向になればなるほど、自分たち自身を違いによって区別することになる。そして互いに距離を置くようになるのである。

 しかし偽りのエゴは徐々に影響をもたらし、アートマはくたくたに弱まってしまうだろう。世俗的なエゴが手に負えなくなったとき、アートマは夢のようなうつろな状態で心に入ってくるのである。聖なる本性について知らないまま、わたしたちは生まれたときから死ぬときまで、悩んだり楽しんだりする。しかしわたしたちはけっして平安を見つけることはないだろう。

 馬車に乗る通行人のように、真のエゴ、あるいは自我がフルに目覚めたなら、それは身体、心(マインド)、知性に命じてわたしたちが覚醒した生活を送れるよう手助けしてくれるだろう。

 

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