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 つぎの規範はシャウチャム、すなわち肉体の、メンタルの清浄さ。わたしたちが肉体でなく魂であることに気づくのは、身体を無視したりいじめたりする口実にはならない。人間の形態で生まれたことはまれなる天の恵みである。何百万もの種のなかで、人類は自己実現ができ、他者すべてのために注意を払い、また守ることができる唯一の存在である。このプロセスを維持するために、最適の肉体的、メンタル的条件のもとに自身を保つよう求められる。内的な、かつ外的な清浄さが出発点である。日々の沐浴、清潔な衣服を着ることがメンタルの純粋さを保つのに役立っている。わが師のプラブパダは弟子に、身体、家、所有物はわたしたちの心配りに託された聖なる項目だということを想起させた。「清浄さは神聖なるもののつぎに神聖であるだけでない」と師は言った。「信心をもってやるなら、それこそが神聖なるものである」

 サントーシュは安堵という意味である。人生の不安のかわりに安心を感じるためには、ポジティブな考え方を要するだろう。外的な状況はつねに変化し、ときにはわたしたちの手に負えなくなる。しかしわたしたちは対応しながら状況をコントロールしなくてはならないのだ。生活を向上させることに全力を尽くしながら、思うようにいかなくても、誠実に努力することを学ぶ必要がある。一定の内なる満足を得ないかぎり、もっとも大きな成功を収めたとしても、むなしいものである。

 幸福とは心の状態である。すべての二項対立――名誉と不名誉、成功と失敗、愉悦と苦痛――は、「冬と夏のように行き来する」(バガヴァッド・ギーター2.14)。安堵は感謝の気持ちを抱く者の心にのみ存在する。よい時期や悪い時期に与えられた機会や贈り物に感謝するとき、わたしたちは神の愛を引き寄せることができる。

 農民と隣人の物語は安堵のことをよく描いている。ある日、農民の唯一の馬が家畜小屋から飛び出し、走り去った。これを見た隣人は大声で叫んだ。「なんて運が悪いんだ! あんたは一頭しか馬を持っていないのに、それに逃げられるとは」

 農民は肩をすくめた。「運が悪いか、いいか、さあどうだろうね」

 二、三日後、馬は山中で出会った野生の雌馬を連れて戻ってきた。隣人は困惑してしまった。

「どうやら馬が逃げて幸運が転がりこんだようだな」

 農民は肩をすくめた。「運が悪いか、いいか、さあどうだろう」

 翌日、農民の息子は野生の雌馬をなだめようとした。雌馬は彼を投げ飛ばし、彼の足の骨が折れた。

「なんて運が悪いんだ」隣人は嘆いた。「あなたの一人息子が足の骨を折るなんて。あんたの仕事をだれが手伝ってくれるんだ」

 農民は肩をすくめた。「運が悪いか、いいか、さあどうだろうね」

 まもなくして国が戦争を始めた。すべての若者が戦地に送られた。全員が殺された――農民の息子を除いて。彼は軍隊に入らずにすんだ。というのも足の骨を折っていたからである。

 この頃には隣人は状況をどう考えるか以前よりわかっていた。いつもと違って彼はこう質問した。「これは運がよかったのかね、悪かったのかね」

 空の雲を見上げながら、農民はあごをなで、こたえた。「何年もの間に、物事というのは、その表面だけでは判断できないことをおれは発見した。白い雲と黒い雲の両方の背後に太陽は隠れているんだ。お日様が照っているときも、雲に隠れて暗いときも、おれたちが感謝の念を持ち、忍耐強く、信心深ければ、神様の愛の光がいずれおれたちを照らしてくれるのさ」

 ヨーガはこのさわやかな農民のように、忍耐を学ぶのを手助けしてくれる。コップの水は半分満たされているのか、半分からっぽなのか。ヨーギは半分満たされている方に投票するだろう。太陽は真っ黒の雲の向こうで輝いていると彼らは考えている。人生の二項対立の向こう側に神の愛の手がある。神の手がわたしたちに触れたとき、宇宙は慈悲深く、十分に生きていく価値があることを理解する。ギーターはつぎのように教える。

 

完全なるヨーギーは内なる幸福を味わい 

内なる世界で活動し、喜び楽しむ 

内に興味を持つその人こそ 

解脱を得、最高の境地に達する 

    バガヴァッド・ギーター 5.24

 

 タパスは、実際にはむつかしいが、精神的進歩のために好ましいものを受け入れ、好ましくないものを避けることである。簡単かむつかしいかは、最重要なことではない。より当を得た質問は「これはすべき正しいことか」だろう。そのような質問への答えに対し真実を生きていくためには、修業が必要とされる。修業なしに達成できるものは人生にほとんどない。

 スピリチュアルな道においてとくにこうしたことは真実である。怠惰、臆病、利己主義は精神的進歩の妨げになる。そしてそれらを克服することによって性格が強くなる。バガヴァッド・ギーター(2.41)は言う。「この道にある者は、目的に向かって意志の固い者である。彼らの目的は一つである。優柔不断の知性は多くのものに気がそがれてしまう」と。だれもが威厳をもって行動する能力を持っている。人々に欠けているのは、そうしようとする意志である。

 一部の人は、苦行は自らに課した忍耐、ときには極端すぎるほどの苦難を意味すると考える。しかしそのような苦行は間違ったエゴを助長させるだけである。わたしはヒマラヤの森の木の洞(ほら)に住むひとりのヨーギーを知っていた。彼は持ち物を何も持たず、着るものは褌(ふんどし)だけで、毎朝早く起きて、厳しいヨーガのエクササイズをおこなった。彼は実質的に何も食べず、ほとんど眠らなかった。しかし彼はいつも自分の偉大さを自慢し、他人をばかにした。彼の胃袋は食べ物を絶っていたが、彼の自我は他人の明らかな過ちを肴にして饗宴を開いた。実際彼は裸だったが、高慢という衣服を着ていた。彼は朝早く目覚め、身体を起していたかもしれないが、昼と夜、魂の必要に応じて睡眠をとっていた。

 それゆえタパスの心は謙虚さを培うことであり、厳格な肉体の修業ではなかった。感謝の気持ちのように、謙虚さは妨げになるもの、とくにもっともむつかしいもの、エゴに打ち勝つために必要な神の愛へと導いてくれる。つつましくなるためにエゴを殺す必要はない。間違ったエゴから真のエゴを解放し、自分自身に対しありのままであるために、わたしたちは真のエゴ、あるいは自我というものを理解しなければならない。それは深遠なるパラドックスだ。意識を拡張すればするほどわたしたちは小さく感じる。というのも、真実の自分自身、すなわち定義通りの謙虚さを見るとき、わたしたちは創造全体と互いに結びついた、ただの小さな、神の愛する一部であり、すべての生きる者の下僕(しもべ)であることを理解することになる。無限の意識を知ることによって、わたしたちはいっそう小さく感じるのだ。謙虚さによって、真正のスピリチュアルな人物の真の姿がわかるものだ。それはすべての物質的なもの、スピリチュアルなものを超越しているのである。

 スヴァーディアーヤは自己研究、あるいは内省を意味する。バクティの伝統では、二つの重要な知識の源泉がある。つまり聖典とそれらの実例を示した人々である。聖典の一般的な研究とまじめな修行者によってわたしたちは育まれ、自我の本性について熟考するようになり、無限の智慧のレンズを通して人生のあらゆる面を見るようになったのである。

 

 そして最後にイーシュヴァラ・プラニダーナ、あるいは至高なる者への降伏。これは人の行為、言葉、思考を捧げること、つまり究極的に人のプラーナ、あるいは本質を聖なるものの意志に捧げることを意味する。バクティの道における降伏とは、わたしたちの能力、資源、家族を――わたしたちが持っているもの何でも―― 愛をこめて、至高の存在に捧げる技術のことである。

 ギーターのなかで、クリシュナはこの意識の状態についてつぎのように語る。

 

森羅万象いかなるところにも私を見 

私の中に森羅万象を見る人を 

私も必ず見ていて 

彼は常に私と同行(とも)にある

    バガヴァッド・ギーター 630 

 

バクティ・ヨーガの観点から見て、ヨーガのすべての様式はイーシュヴァラ・プラニダーナにおいて最高峰に達する。至高なるものの意志に降伏するのは、究極の勝利である。この解放された状態で、人は自分をもっとも高いパワー、すなわち無条件の愛の道具として自身の全体を提供する。賢者パタンジャリは語る。「Samadhi siddhi isvara pranidhanat(サマーディ、つまり三昧の完成は至高なる者への降伏である)」。尊敬すべきサンスクリット語の教授であり学者のグレアム・シュワイグはイーシュヴァラ・プラニダーナを訳し、つぎのように記す。イーシャ(isa)は「聖なる中心」、ヴァラ(vara)は「すべての現実の」、プラ(pra)は「動きに発見された」、ニ(ni)は「深く」、ダナ(dhana)は「人の存在あるいは心(ハート)の核の中で」といった意味である。愛される至高なるものへの誠実な、正直な捧げものによって、すべての宗教、すべてのヨーガの過程、すべての人生は受け取ったのである。



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