英雄ケサル王物語の語り人  

宮本神酒男 

 

 チベットの英雄叙事詩「英雄ケサル王物語」が燦然と輝やいているのは、それが世界でもまれな「生きている英雄叙事詩」だからです。古代ギリシアや中世ヨーロッパにはいくつものよく知られた英雄叙事詩がありますが、それらが吟遊詩人によって歌われることはもはやなく、出版された本の活字としてしか存在しません。

 しかしこのケサル王物語は、ドゥンパ(sgrung pa)と呼ばれる「語り手」によって現在も語られているのです。いま語り手と表現しましたが、歌と語りを組み合わせた故事説唱を基本とするので、中国語では説唱芸人と呼ばれています。英語ではbardと呼ばれていて、それを日本語に訳すと吟遊詩人となります。

 チベットから伝播したと思われるモンゴルの「ゲセル王物語」と合わせると、じつに広大な地域で説唱されていることがわかります。ゲセルはモンゴル共和国や中国国内のモンゴル族および土族(土族のケサルはまた独特のものです)、ユグール族はもちろん、シベリアのモンゴル系諸民族やはるかカスピ海の向こうのカルムイク共和国にまで広がっています。(→ 土族やユグール族のケサルについて) 

 ケサルも、はるか西のほうにまで伝播していて、インド・ラダック、そしてさらに西方のパキスタン北部バルチスタンにはいまも30人以上の語り手がいます。かつてはフンザにもケサルの語り手がいました。私はネパール西部のフムラ地方で語り手に会ったことがありますが、ほとんどのチベット学者はその存在さえ知らないかもしれません。

 現在何人の語り手がいるか、おそらくだれも答えることができないでしょう。それは150巻もの独自のエピソードを語る本格的な語り手もいれば、ほんの2、3巻しか知らない、しかも独自のレパートリーを持っているわけではない「日曜語り手」もいて、その線引きがむつかしいからです。

 大雑把にいって300人くらいと答えておきますが、もしかすると千人くらいいるかもしれません。二十代の若い語り部も出てきているので、かなり数が減ったとはいえ、もう少しは命脈を保ちそうです。(→ 分布図

 

はじめてケサルの語り手に会ったアレクサンドラ・ダヴィッド=ネール 

 私は最近、19世紀から20世紀初頭にかけてチベットを探検した、あるいは滞在した人の著書を読み漁って、ケサルの語り手か、関連した文化についての記述がないか目を皿のようにして探しています。

 20世紀初頭(1904年から1922年)にカム地方に長期滞在し、チベットの神話伝説を収集した医師兼宣教師アルバート・シェルトン(不幸にも、山賊に銃で撃たれて不慮の死を遂げました)なら語り手に会っているに違いないと思って、伝記本や自伝を読んでいるのですが、なぜかケサルの名は出てきません。このあたりは昔からケサルがさかんな地域なのに、それが目に触れていないのは奇妙なことです。

 ラダック版ケサルを紹介したのは、モラビア教会の宣教師であり、チベット学の先駆的存在であるアウグスト・ヘルマン・フランケでした。1901年と1902年に、シェー・バージョンとカラツェ・バージョン(両者とも地名)の「ケサル・サーガ」を刊行したのです。この翻訳によってラダックやバルチスタン(パキスタン北部)に流布しているケサルの形態がよくわかるのですが、文献学的な成果であり、実際にどのように歌われていたか、語られていたかはよくわかりません。

 最初にケサルの語り部と会い、物語を具体的に翻訳して欧米にその存在を知らしめた功績は、アレクサンドラ・ダヴィッド=ネールに帰せられることになりそうです。

 このアレクサンドラ・ダヴィッド=ネールという偉大なる女性の伝記を読むと、波乱万丈、ジェットコースターに乗っているかのような人生で、もう滅茶苦茶面白いのです。本筋からすこし離れますが、この稀代の女性探検家の101年の人生をかいつまんで紹介して、それから彼女がケサルの語り手に会ったときのことを記した文章を読んでみたいと思います。

 アレクサンドラは元教師で、のちに革命に傾倒してジャーナリストに転向するフランス人の父と亡命先のブリュッセルで知り合った20歳年下のベルギー人の母との間に、1868年、パリで生まれました。父は1851年にナポレオン3世がクーデターを起こしたとき、文豪ヴィクトル・ユーゴー(18021885)らとともにベルギーに亡命しました。アレクサンドラはユーゴーの膝の上であやされたことがあるそうです。

 彼女の映画を作るなら、5歳のときの冒険からはじめることになるでしょう。彼女はパリ郊外のヴァンセンヌの森のなかで、乳母から脱走を試みます。学校に入ってからも、寄宿学校から何度も逃げ出しました。16歳になると、オーストエンド(ベルギーの海岸の町)に家族旅行で来ているとき、彼女はオランダへ逃げ、それからドーバー海峡を渡って英国に行き、金が尽きるまでとどまりました。17歳のとき、彼女はブリュッセルから列車でスイスに入り、ゴタール峠まで歩きました。そしてそこからアルプスを越えてイタリアのマッジョーレ湖に達しています。未来の大探検家の面目躍如といったところです。

 19歳のとき、彼女はブリュッセルの王室音楽学校に入り、声楽の勉強をします。のちに彼女はオペラ歌手デビューをすることになるのですが、きちんと声楽の訓練を受けているのです。

 翌年、彼女はロンドンに滞在し、神智学協会であのブラヴァツキー夫人に紹介されます。この結びつきには驚かれるかたも多いでしょう。ブラヴァツキー夫人はとても魅力的な存在ですが、オカルト色が強く、ややもするとトンデモの世界に行ってしまうのです。アレクサンドラがのちにブラヴァツキー夫人との交流について語りたがらなかったのは、自分のチベット体験がオカルト扱いされるのを避けたかったからでしょう。しかしブラヴァツキー夫人の『シークレット・ドクトリン』は魅力的だったはずで、神秘的な存在マハトマがアレクサンドラに影響を与えなかったはずがありません。

 彼女は23歳のとき、名付け親の遺産が入り、そのお金でインド、スリランカ方面への旅に出ました。彼女はマドラス郊外アディヤールにある神智学協会を訪ね、ここに滞在し、サンスクリットを学んでいます。女性の権利を主張するなどの社会活動で有名で、オカルトに転じ、のちに神智学協会の会長となるアニー・ベサントとはその前年にロンドンで会っています。

 アレクサンドラは1894年から1900年にかけて(26歳から32歳)いわば新米の歌手であり女優でした。1895年にはオペラ・コミック座の一員(プルミエ・シャンテューズ)として、ハノイやハイフォンで舞台に立ちました。1900年に一座とともにチュニスへ行ったとき、そこで夫となる39歳のフィリップと出会いました。

 この一年前の1899年、彼女は『アナキスト人地論』で知られるアナキズム思想の大家エリゼ・ルクリュの監修のもと、アナキズム(無政府主義)についての論文を書いています。彼女は根っから権威や惰性を嫌っていたことがよくわかります。運命の道が違っていれば、彼女は政治運動や革命活動で名を成したかもしれません。

 1904年、アレクサンドラはフィリップと正式に結婚しています。しかし彼女は喜んでいるというより、悲しんでいるようにしか見えません。普通の結婚生活や子どものいる生活を彼女は望んでいなかったのです。1911年まで、アレクサンドラはパリかロンドンにいることが多く、フィリップは北アフリカにいました。この時期に会ったのはほんの数回でした。仮面の夫婦どころか、書類上の夫婦にすぎず、婚姻関係にあるとはとうてい言い難かったのです。

 しかしそれでも40年にわたってフィリップは経済的な援助をつづけました。必要なものを彼女のためにアジアのどこかに送り、彼女も入手したものなどをフィリップあてに送りました。この夫婦関係には何かが隠されているのでしょうか。現地(アルジェリア)に愛人でもいたのでしょうか。

 1911年から1925年の旅は、1回で14年にも及ぶ長いものになりました。1911年から翌年にかけてはカルカッタに住んでサンスクリットを学び、翌年、ベナレスでもサンスクリットの学習をつづけ、哲学で名誉博士号をもらっています。

 この年、シッキムに行き、アレクサンドリアはこの地方をすごく好きになります。ここでシッキム王国の王子と親しくなり、中国軍の侵攻を避けて逃げてきたダライラマ13世と会っています。また洞窟に住むひとりのチベット人のゴムチェン(修行僧)と知り合いました。このゴムチェンのかっこうはおぞましく、手に呪術用の短剣(ヴァジュラ・キーラヤあるいはドルジェ・プルバ)をもち、108のドクロのネックレスをかけ、人の骨で作った前掛けをつけていました。彼女はゴムチェンのもと、2年間いろいろなことを教わります。そのなかにはテレパシー術やトゥモ(体内に熱を発生させる術)が含まれていました。

 そして1914年、シッキムで少年僧ヨンデンに出会います。死がふたりを分かつまで、なんと40年もふたりは苦楽をともに過ごすことになったのです。夫のフィリップとはほとんど会わない一方で、30歳年下のヨンデンとはどこに行くにも、過酷な状況下でも、つねにいっしょなのです。のちには正式に養子とします。実際のところ、ふたりの関係はどういうものだったのでしょうか。

 アレクサンドラは1916年にシガツェに行き、タシルンポ僧院でパンチェンラマに面会しています。しかし許可なしにチベットに入国したため、シッキムから放逐されてしまいます。これで事実上、南からラサに入ることは不可能になりました。

彼女は大回りをしてラサをめざす決心をしました。ビルマ、フランス領インドシナを経て、アレクサンドラとヨンデンはなんと日本にやってきたのです。当時の日本は、日露戦争の勝利の酔いからまだ覚めてなくて、富国強兵路線をまっしぐらという時期でしたが、日本のそうした風潮にたいし彼女はそれほど悪くは言っていません。

 たとえば彼女は著書のなかでつぎのような話を書いています。

私は日本で知られている逸話を紹介したい。偉大なる国民的ヒーローのマサシゲ(楠木正成)は、彼の部隊をはるかにしのぐ敵軍と英雄的な戦いをして敗れたあと、7回生まれ変わることを願った。生まれ変わるたびに、彼はミカドの敵と戦いたいと考えたのである。この希望を強く述べて、彼は武将たちとともに自らの命を絶った。

 1905年の日露戦争で死んだ兵士や官吏を追悼した葬式が行われたとき、日本の有名な僧である釈宗演師は正成の願いと広瀬大佐の同様の願いについて想起されていた。この願いはチベットの神秘思想と類似していたのである。

「この英雄たちが転生するのは、7回だけではありません。数千回、転生するのです。人類がつづくかぎり、彼らは転生するでしょう。過去、あるいはこの戦争において、日本の栄光のために命を捧げた人々は、その願いゆえ、また転生することになるでしょう。彼らは正成その人と言っても過言ではありません」

 このようなお話をされたあと、釈宗演師は、転生の実例を挙げ、その教義や、東洋では思考の集中として認識されている神秘的な力に言及された

 このようにアレクサンドラの口から楠木正成や広瀬大佐、釈宗演禅師の名が出てくるのには驚かされます。日本の武士道や禅に少なからぬ興味をいだいていたのでしょう。

 日本では河口慧海とも会いました。ラサに行きたいと願っている彼女の身からすれば、尊敬すべき存在であるとともに、うらやましい存在であったでしょう。公言できぬラサの情報を伝授したかもしれません。ダージリンやカリンポンは二人ともよく知っているはずですし、共通の知人もいたことでしょう。ダライラマ13世に面会したと聞いて慧海はびっくりしたはずです。

 アレクサンドラは日本を去ったあと、朝鮮半島をへて北京に移動し、しばらく滞在しました。彼女は雍和宮でないあるラマ寺に行ってはじめてケサル像を見ます。ケサルがいわば武神として崇拝されていることをはじめて知ったのです。ケサル像と呼ばれながら関羽像であることも多いのですが、これはどうでしょうか。

 そのあと1918年から1920年にかけての3年近く、ツォンカパの生地としても知られるクンブム(タール寺)に滞在します。彼女は仏教についてのストレートな著作も多いのですが、チベット仏教の基礎はこのゲルク派の大寺院で学んだのでしょう。

 1921年から翌年にかけての旅はきわめて重要です。彼女は蘭州から成都に出て、ターチェンルー(康定)からジェクンド(玉樹)に入っているのです。彼女ははじめてケサルの語り部と会い、物語を筆録しています。のちに、彼女は物語を翻訳し、フランス語、そして英語で『超人 リンのケサル』を出版することになります。はじめてケサルの語り部(説唱芸人)に会ったときのことはまた少しあとで述べることにしましょう。

 1922年から翌年にかけての旅で、彼女はまずデルゲ地区を回り、リンの王様の子孫の家も訪ねています。リンといっても、おそらく実在したリン・ツァンのことでしょう。もちろんリンとリン・ツァンは同一の可能性があります。

 そして彼女はクンブムに戻り、そこから甘州へと足をのばしました。

 1923年から翌年にかけての旅は、たいへん長く、困難な旅でした。甘州からゴビ砂漠を超えて蘭州、さらには四川省成都、雲南省麗江を経てサルウィン川までまっすぐ進みます。サルウィン川(怒江)を遡上すると(このあたりは昔マウンテンバイクに乗って旅したことがあります)そのまま現在のチベット自治区の東南隅に出ます。そこからラサへと向かったのです。

 こうしてチベット文化圏を旅する時、アレクサンドリアとヨンデンはしばしば乞食に扮しました。もしかすると巡礼僧という意味なのかもしれませんが、いずれにしても彼女の生き方は、女性としてオシャレをしたり身なりをきちんとしたりする、といった凡庸な世界とはまったくかけ離れていました。年齢も50代半ばであり、通常なら隠居して安穏とした生活を考えてもおかしくありません。ただし膝の関節炎には苦しんでいたようです。

 ラサ滞在は2か月ほどでした。アレクサンドラはギャンツェをへて、ヒマラヤを超えてインドのカルカッタに到達しました。この最後のラサまでの苦難の旅については『パリジェンヌのラサ旅行』に描かれています。この本は1927年に出版され、大反響を呼びました。

 アレクサンドラは帰国したあと、フランス南部のディーニュにサムテン・ゾンを建て、そこで過ごしながら、執筆に励みました。しかしひと段落すると、ふたたびヨンデンとともに、チベットに入るべく中国へと向かいます。1937年のことで、彼女は70歳になろうとしていました。

彼女が重慶のホテルのバルコニーから外を眺めていると、日本の戦闘機がやってきて、空港を爆撃しているのが見えました。いわゆる重慶爆撃です。中国政府はすべての外国人をスパイではないかと疑ってかかったので、身動きがしづらくなりました。このあとターチェンルー(康定)に移動するのですが、落ち着いて研究をするような状況ではありませんでした。

 1940年代前半(おそらく42年)英国軍の将校だった著名な道教および中国仏教の専門家ジョン・ブロフェルドが成都のホテルでアレクサンドラと遭遇しています。彼女は強盗の被害に遭って仕方なく安楽なホテルに滞在していると説明したそうです。(ブロフェルドは黄檗宗の『伝心法要』の英訳でも知られている。ちなみに河口慧海は黄檗宗の僧侶だった)

 ターチェンルーにいたとき、彼女は夫フィリップが死去したという知らせを受け取ります。この時点でも彼女はフィリップあてにこまめに手紙を書いていたので、ほとんど夫婦生活を送っていないとはいえ、ショックだったでしょう。

 もっとショックだったのは、フランスに戻ってから十余年の1955年、40年もともに過ごしたヨンデンに先立たれたことです。アレクサンドラは87歳になっていました。

 彼女は100歳になったとき、パスポートを更新しました。担当官は最年長記録だと感嘆したそうですが、もしかするともう一度チベットへ行こうと考えていたのかもしれません。しかし翌年の1969年、彼女は101歳でこの世を去りました。

 彼女が逝去すると、アレクサンドラの本があまりにも面白すぎて、これが本当の話であるはずはない、と多くの人が唱え始めました。ペテン師というのはけっこういるものです。たとえば(舞台はオーストラリアですが)ルイ・ド・ルージュモンという偽冒険家がいました。1898年に雑誌に掲載され世界的な話題になった冒険譚が、嘘っぱちであったことが判明したことがあるのです。

チベットを舞台にした「事実である」と主張した神秘的な冒険物語は、当時たくさん書かれていました。その代表的な作品は、チベットの亡命ラマに扮したロブサン・ランパ(英国人で本名シリル・ヘンリー・ホスキン)の『第三の眼』(1956)でしょう。ちなみにこのペテンを見破ったのは、『セブン・イヤーズ・イン・チベット』の著者ハインリッヒ・ハラーでした。彼はこの作品があやしげだと思い、私立探偵を雇って正体を突き止めたのです。

 そんな風潮の中で、ジャンヌ・デニという人が『チベットのアレクサンドラ・ダヴィッド=ネール』(1972)という著書の中で「アレクサンドラはチベットへ行ったことがない」と主張し、話題になったのです。

 そういう噂はまもなく収束しますが、アレクサンドラが書いた体験談は、本当のこととは思えないほど面白かったのです。

 

 さて話を戻しましょう。アレクサンドラがはじめてケサル物語と遭遇したときの話を書いています。

 

 ある日、村の中を散歩していると、突然近くで騒動が勃発した。手に刀を持った大男が家から飛び出してきて、通りを疾走し、そのあとを20人ばかりの男たちが追いかけていたのだ。女たちもおなじ家から飛び出してきたが、ある者は泣きわめき、ある者は笑っているというありさまだった。みな興奮していて、甲高い声で叫んでいた。

 私はそのなかのひとりに近づいた。

「何が起きたの?」と私はたずねた。「だれか殺されたり、傷つけられたりしたのかしら? 走っていった男は頭がおかしいの? それとも酔っぱらっているの?」

「そんなんじゃないわ」と善良そうな女は答えた。「彼はディクチェン・シェンパなのよ」

 ディクチェンとは、チベット語で大罪人という意味である。この狂乱者はちらりと見ただけだが、見かけ上は聖人というわけではなさそうだった。いったいどういった理由で並外れた罪人という烙印が押されたのだろうか。

 彼の名前の一部はシェンパ、つまり屠殺人という意味である。このことから私は彼が職業を実践しているのではなかろうかと考えた。チベット人は彼を罪人とみなすのだ。肉食を忌み嫌うチベット人はほとんどいなかったが。

「なるほどね」と私は言った。「走っていた男は屠殺人だったのね。でもどうして手に刀を持って走っていたの?」

「屠殺人じゃありません!」と女たちは唱和した。「彼はディクチェン・シェンパ、ケサル王の大臣です。彼はホル戦争の一節を歌っているのです。そしてケサルの敵であるクルカル王が少年としてこの村に転生したのです。先の戦争の記憶がよみがえったので、彼は刀を抜き、王の敵を殺そうと考えたのです」

「こんなのはいつものことですよ。お酒を飲みすぎるとすぐに暴れ出すのです」と女のひとりが笑いながら付け加えた。「恐れを知らない男たちが彼を取り押さえてくれるでしょう。彼は子供に触ることもできないはずです」

 彼女らはホル王の転生について、一斉にわめくように声を上げて説明しようとした。ばらばらに何かを主張するので、混乱して、何を言っているのかよくわからなかったが、このキルク(ジェクンド)にひとりの男の子がいて、噂によれば、数多くの前世のひとりがケサル王の敵であったという点は理解できた。そして近隣にリンの英雄の物語を歌うことのできる語り手がいることもわかった。

 男が刃物を持ってだれかを追いかけているわけですから、アレクサンドラが殺傷事件かと思うのも無理はありません。この酔っ払いにはディクチェン・シェンパの霊が降りていたようなのです。ディクチェンとは、大悪人、シェンパとは屠殺人という意味です。

彼がケサル物語の中のシェンパ・メルツェであることは、村人のだれもが知っていました。シェンパ・メルツェはもともとホル国の大臣であり武将でした。ケサル王は自分が不在のあいだにリンの国に侵攻し、王妃を奪ったホル国を倒します。ケサル王はホル国のクルカル王を殺し、王妃を奪い返しますが、シェンパ・メルツェは腕が立ち、民衆からの支持もあったので、殺すかわりに味方に引き入れたのでした。ふだんメルツェはホルの王(あるいは総督)としてホル国を統治し、他国(たとえばモン)を攻めるとき、ホル軍の兵士とともに ケサル率いるリン・ホル・ジャン大連合軍に参加するのです。

 この翌日、アレクサンドラはケサル王物語を見に行きます。

 

語り手は、彼が逃げ出したその家で「独演会」を開いた。彼が私の前にさっそうと姿を現した日の数日後、彼の歌と語りを聴くために集まった女たちの間をすり抜けて、彼の面前に出た。

 固められた地面の上に座布団や絨毯の端切れを置き、その上に人々は座った。部屋の半分以上は敷物によって埋められていた。地面の上にも直接男たちが座り、敷物に坐った人々と向かい合った。この聴衆の中央で、先日怒りまくっていた男がときどき仕草を交えながら、歌っていた。そして彼は頻繁に、目の前の低いテーブルの上に置いた紙に視線を当てていた。

 存分に彼を見ることができるいま、カムで流行している、巨体でかつ、スポーツ選手のようであるという美的基準からいって、彼がいい男であることがわかった。この語り手は必要とされる基準に達しているどころか、ハンサムな男だったのだ。彼の誇り高い、力強い顔立ち、輝く大きな茶色の目。それはときおり激しく、傲慢にひらめいた。そしてときどき驚異の幻像の世界を映しだし、そのことが信じられないほどの表現力を与えていたのである。

 彼のメロディアスな節回しはときおり擬音によって中断した。彼はそれを強調しながら歌い、ケサル王物語の主要人物が登場するときは、トランペットが華々しく吹奏されるシーンで擬音を使った。

 ル・タ・ラ・ラ! アッラ・ラ・ラ! タ・ラ・ラ! 

 それからイーリアスの英雄たちのように、登場人物はひとりずつ称号を名乗り、功績をあげて自己紹介をする。

「もしあなたが私のことを知らないなら、私がいかに華々しい人物であり、その刀は雷光よりも速く、百万の敵兵の首を斬ることができることを学ぶべきだろう」

 そういった大言壮語が等しく並ぶのである。

 私にとっては不幸なことに、語り手はカム方言で物語を歌った。

 このことは、つまり、歌われた内容を理解し、追うのが困難であるということだ。それは省略が多く、たんに節を長くするために母音を加えることもあった。さらには聴衆が何度も「オム・マニ・ペメ・フーム」というマントラの合いの手を入れ、流れが中断するため、筋を失うこともあった。

 この「独演会」は興味深いことばかりで、激しい郷土色もついて、魅力が尽きることはなかった。しかしもし本格的にケサル王伝説を研究するのなら、もっとほかの方法があるはずだ。第一に、幸運の星が、ケサルの語り手を私の手の届くところに運んできたのである。それならば、私の家に来てもらって、歌ってもらおうではないか。さらにはケサル王物語のテクストをもっと手に入れられるはずだ。そしてのちには、もっとたくさんの語り手を探し、彼らが順繰りに歌うのを聴くべきだろう。

 刀を振り回していた男にはディクチェン・シェンパが憑依していたわけですが、翌日ケサル王物語を見に行くと、なんとこの男自身が語り手であったというのです。ケサルの語り手の多くはシャーマンでもありますから、神霊が憑依するこのディクチェンが語り手であっても不思議ではないのです。

 この語り手(ドゥンパ)は真っ白の紙を見ながら語り、歌います。物語をどこに見るかは語り手によって異なります。鏡(多くは銅鏡)を見ながら語り歌う人は、かつてはけっこういました。現在もこの手の語り手がいると聞いたことがあります。

 夢の中で物語をもらうケサルの語り手もけっこういます。あとで詳しく述べるツェラン・ワンドゥもそうです。神がかったり、夢の中で物語をもらったりするタイプの語り手を神授型語り手(バプトゥン)と呼ぶことがあります。注目すべきは、彼らの語り手のなりかたが、シャーマンのなりかたに酷似していることです。

 

 さてアレクサンドラはケサルについてもっと調べるべきだと感じ、語り手(ディクチェン)に、個人的に会ってもらえないかと申し込みます。そしてなんとかパフォーマンスを見せてもらえることになりました。

 

 ついに「独演会」がはじまった。催眠術にかかり(そう見えた)白い紙を前にした偽ディクチェンは、無尽蔵の情熱をこめて詠唱をはじめた。私と息子のラマは懸命に内容を書き留めた。このようにして、日々の独演会は6週間以上にわたっておこなわれた。

 語り手は普通の人ではなかった。彼の人生は、社会的に見ればつつましやかなものだったが、神秘的な面を持っていた。村人たちが言うには、彼はときおり長い期間、姿を消してしまうことがあったという。彼がどこに行ったか、だれにもわからなかった。キルク(玉樹)は広大な荒野に囲まれていたので、人目につかないようにするのは難しいことではないだろう。しかし語り手はどうしてそのように消えてしまうのだろうか? 私はこの質問をぶつけてみた。

 最初彼は話そうとしなかった。ようやく重い口を開き、精霊、あるいは神々に会いに行くのだとこたえた。彼は慎重にウソをついているのだろうか? 私は絶対にウソではないと思っている。彼は幻覚の世界のなかにいて、歩き、どことも知れぬところへ行き、おそらく数々の冒険を夢に見て、戻ってきたときにそれを思い出す。こういった現象はチベットの地域によっては頻繁に起こるのだ。

 あるいは、おそらくキルクから離れた山中に隠れた庵があり、そこへ行っているのかもしれない。そして彼の想像の世界の中で神に近い聖人が現れるのかもしれない。たくさんの推定が成り立つだろう。偉大なるチャンタン高原は神秘の地なのだ。

 

 この語り手(ディクチェン)に関する不思議な話はつづきます。

 アレクサンドラが中国人の作った紙の花をプレゼントすると、ディクチェンは国王(ケサル)に贈るとこたえました。その数日後、どこかから戻ってきたディクチェンは、国王からの素敵なお返しをアレクサンドラに渡しました。

 

数日後、ケサルの宮殿を訪ねてきたという語り手は、私に青い花を手渡しながら、厳粛にこう言った。

「これはあなたの捧げものに対する国王からの感謝のしるしである」

 それは新鮮な花だった。季節は真冬だった。キルク周辺の谷間では、温度計は零下20度から30度を指していた。地面は地中深くまで凍り、山は深い雪に覆われていた。ディチュ川(揚子江上流)は2メートルの厚い氷に下敷きになっていた。

 青い花は7月頃沼地に咲く種類のものだったが、その季節でさえ、キルク近隣では見られなかった。彼はいったいどこでこの花を手に入れたのだろうか? 私の従者が「神聖なるケサル王が(私に)花を贈った」と話すと、チベット人たちはぞろぞろとやってきて、この青い花を崇めていった。この花がどこからやってきたか、ついに謎のまま終わってしまった。

 『パリジェンヌのラサ旅行』のなかでも述べられているので、有名なエピソードといえます。このマジックの種はわかりませんが、シャーマンのなかにはマジシャンのような人がいるのはたしかで、私も何人か会ったことがあります。

(たとえば水木しげる氏を連れて行ったミャンマーの治療師や、ネパールのタマン族の葉っぱをトカゲに変えるシャーマンなど)

 

 

悲運の天才学者、ケサルの語り手に出くわす 

 ひとりの天才学者がいました。彼はできうるかぎり、チベット中の精霊や神々の名を集めてきました。おそらく千以上の名前が集まりました。彼以前にも、彼以降も、それだけの情報を集めたチベット学者はいません。その著書<Oracles and Demons of Tibet>はチベット学における金字塔として燦然と輝いています。

 彼の名はレネ・デ・ネベスキ=ヴォイコヴィツ。チェコ東部の生まれのチベット学者です。惜しむらくは、若干36才で亡くなってしまったことです。1923年に生まれ、スタンの『ケサル詩人を探して』が上梓された1959年に亡くなったのです。夭折の詩人はありえても、夭折の学者はありえません。

 彼はエッセイの中で、ケサルの語り手と会ったことについて記しています。「最後のケサル詩人」という小題をつけているので、ケサルの伝統はそう長くはつづかないだろうとみていたことがわかります。

 カリンポン(インド北部)に滞在していた11月のある冷えた日、私は馬に乗って出かけた。そこはチベットへとつながる道である。重い荷を背負った騾馬の長い隊列が、チリンチリンと鈴を鳴らしながらすれ違って行った。背中に荷物を載せ、ぜいぜいと息を切らしながらやってくるチベット人の一団とも出会った。商人もいれば、巡礼者も、乞食もいた。私にとってそれらはすっかり見慣れた風景になっていた。

 しかしそのあと出会った人物はほかの人々とはまったく異なっていた。その老人は擦り切れた羊毛の上着を羽織り、とてつもなく奇妙なかぶりものを頭にのせていたのだ。それは司教の冠のような皮の帽子で、前面には太陽と月のシンボルが、そして鞍や弓矢、盾、槍を表わす装飾が縫い付けられていた。このかぶりものはプロフェッショナルであることを示す目印だった。男はチベットの巡回する芸人だった。村から村へ、遊牧民の野営地から別の野営地へ、伝説的なケサル王の英雄的な活躍の物語を歌いながら巡っていくのである。

 カリンポンという小さな町は、近くのダージリン以上にチベット本土からやってきた(ときには亡命してきた)人々が集まりやすいところです。カリンポンに長く滞在していたネベスキ=ヴォイコヴィツがケサルの語り手(ドゥンパ)と会ってもなんら不思議ではありません。

 注目すべきは、会った男が典型的なケサルの語り手であることです。彼がかぶっている「奇妙なかぶりもの」はまさにケサルの語り手であることを示しています。それをかぶっていないとき、彼は普通の人ですが、かぶった途端、聖なる「説唱芸人」になるのです。文化大革命当時、当局はこの帽子をすべて焼き払おうとしました。なかなか焼けず、川に投げ捨てられることもありました。帽子をかぶったケサルの語り手は聖なる存在であり、転生ラマなみに力をもつことを彼らはよく知っていたのです。

 ネベスキ=ヴォイコヴィツはしばらくして別のケサルの語り手と遭遇しました。

 

数週間後、私はほかのケサル詩人と出会った。こちらは中年の男で、チャンパ・サンダと名乗った。「神秘の主人である未来仏」といった意味である。チャンパ・サンダはかつて摂政レティン・リンポチェのおかかえ芸人だったという。

若い摂政は音楽が好きで、毎晩チャンパ・サンダは摂政のために、ケサル王物語から数節を歌ってあげなければならなかった。ちなみに彼はいまも、チベットで随一のケサル詩人である。摂政が非業の死を遂げたとき、生命の危険を感じた彼はカリンポンに逃げ出したのである。

この私の新しい知り合いはおしゃべり好きで、亡くなった師匠のこととなると、疲れを知らずしゃべりまくった。私と話をしていると、古い記憶が呼び覚まされるようで、話を途中で切って突然摂政が好きだったケサルの一節を歌い出すこともあった。

 

 このチャンパ・サンダというケサルの語り手は、じつはスタンが著わしたケサル研究の決定版であり、金字塔の『ケサル詩人を探して』の最大のインフォーマントなのです。ネベスキ=ヴォイコヴィツがもう少し生きていれば、スタンと並ぶ研究成果をものにできたのではないかとくやまれます。

 このチャンパ・サンダはかつてレティン・リンポチェのおかかえ芸人であったと述べられています。レティン・リンポチェは転生ラマですが、1930年代、チベット政府の摂政として大きな権力を持っていました。ダライラマ14世の転生の選定にも責任者として当たったといわれます。

興味深いのは、聖職者ながらも、政治という俗世間で権威をもつと、王様のようにケサルの語り手をかこいこむことができたということです。摂政でさえこんな調子ですから、各地方の権力者はみなパトロンとして語り手を持っていたかもしれません。

* レティン・リンポチェ  第5世レティン・リンポチェ、トゥブテン・ジャンペル・イェシェ・ギャルツェン(19111947)のこと。摂政として、現在のダライラマ14世選定の責任者を務めたことで知られる。親中派であり、その俗な性格も非難を浴び、反中派の突き上げもあって1941年に職を辞し、清廉な僧であるタクタ・リンポチェにその座を譲った。1947年、ラサの獄中で死亡するが、毒殺されたと多くの人は考えている。
 余談になるが、1994年にはじめてレティン・ゴンパを訪ねたとき、修復工事が遅れていて、見たなかでももっとも徹底的に破壊された廃墟同然の状態だった。瓦礫のなかに壁画でも残っていないかと探し回った。その間ずっと灰白色の猫がついて回った。この寺には100匹以上の犬がいたが(食事は参拝者の糞尿だった)猫も2匹いた。
 このように徹底的に破壊されたのは、ダライラマ14世の選定に当たるなど、チベット政府のなかで中心的な役割を果たしていたからである。親中派ではあったが、その「中」は中華民国のことだった。他の寺院よりひどく破壊されたのにはそうした事情があったのだ。

 

 

夢の中で物語を授かるケサルの語り手 

 私がケサル物語に興味を持つようになったきっかけは、ツェリン・ワンディと会ったことです。私は当時、いまもですが、シャーマニズムに興味があり、シャーマンについての本を読んだり、シャーマンに会ったりしていました。

 典型的なシャーマンの姿があります。それは若い頃(多くは十代半ば)、病気になったり精神的な危機を迎えたりしたあと、師匠(グル)や守護神からイニシエーションを受けることによって、狂気の道に進むことなく、トランス状態をうまくコントロールできるようになるのです。

 ツェリン・ワンディもまったくおなじコースを歩んだのです。シャーマンになるように、彼は神授型の語り手(バプドゥン)になったのです。直接聞いた彼の生涯についてまとめてみましょう。

 彼は1936年頃、チベット自治区安多(アムド)県内の大草原の遊牧民の村に生まれました。8歳のとき、カザフ族の匪賊によってテント村(野営地)が襲撃され、父や兄弟ら家族、親族の多数が殺されました。母も内臓が出るほどの大怪我をし、すぐにではありませんでしたが、息を引き取りました。死ぬ前に母は息子に、チベット各地の聖地を巡礼するように言いました。家族を失ったツェリン少年は8歳にして放浪の旅に出ることになったのです。

 なぜカザフ族なのだろうかと、私は長年疑問に思ってきました。当時いろいろと調べて、カザフ族が南下してきたという記述をどこかで見たのですが、いまひとつピンときませんでした。しかしこのこと(カザフ族の移動)について詳しく書かれた本が出たのです。それは松原正毅著『カザフ遊牧民の移動 アルタイ山脈からトルコへ 19341953』という本で、アルタイ地方のカザフ族が難民となって長期間移動しつづけ、ついにはトルコにたどりつくというドキュメント的な本です。

まず驚いたのは、ツェリン・ワンディに会う寸前(1997年)、私はたまたまアルタイのカザフ族の地域を訪ねていたことです。カザフスタンとの国境に近い地域に大シャーマンがいたのですが、亡くなったことがわかったため、かわりにアルタイのハナス湖に行きました。この時期に立ち寄ったアルタイ市では、カザフ族の歴史学の教授に会ってカザフの歴史について教えてもらっていたのですが……。

 この本を読みますと、たしかにこの時期(1944年)に彼らは安多に来ているのです。しかし彼らが遊牧民を襲撃したとか、現地の人と戦ったとか、そういった記述はありません。むしろどこに行っても煙たがられ、歓迎されず、迫害される様子が描かれているのです。だれかがウソを言っているのでしょうか。(ウルドゥー語の権威である麻田豊氏によると、ウルドゥー語の「カザク」にはゴロツキとか悪党といった意味があるそうです。パキスタン国内も通過しているので、その間にトラブルを起こしたのかもしれません)

 13歳のとき、ツェリン少年は聖なるナムツォ湖を歩いて回っていました。チベット人は聖なる山、聖なる湖のまわりを五体投地しながら、あるいはマニ車を回しつつ真言を唱えながら回ります。これも巡礼なのです。たまたま3人の巡礼中の若い娘たちといっしょになりました。

 突然、湖上に馬に乗った武将の姿が見えました。そしてしばらくすると彼は昏倒してしまったのです。七日七晩、うわごとをつぶやきながらも、目が覚めませんでした。少女たちが介抱してくれたおかげで、なんとか命をつなぐことはできました。

 少しよくなったところで、娘たちは順繰りに少年を背負い、大きな寺(レティン寺ということです)の活仏のもとにつれていきました。少年は依然としてブツブツと訳の分からないことを口にしていました。

 活仏はいわゆる脈管の浄化の儀礼を施しました。私は長年レコン(青海省同仁県)に通い、シャーマンであるハワ(lhapa)の選定の様子を見てきました。ハワの候補が絞られたあと、最終的に活仏が選び出し、最終候補者のために同様の「脈管を開く」(ツァゴチェ)浄化の儀礼をおこないます。つまり似ているだけでなく、シャーマンになる過程と語り部(パプドゥン)になる過程は、一部重なるのです。

 この儀礼がおこなわれたあと、少年の混沌としたつぶやきは次第に話として形を整えるようになりました。そのうち少年が話しているのは物語であることがわかってきました。それはケサル物語だったのです。ケサルの語り手の誕生です。最初に語ったのは、「カチェ・ユゾン」(カシミールのトルコ石城)だったといいます。夢の中にこの物語が出てきたのです。

 それから毎晩のようにツェリン少年は夢の中で物語を授かりました。物語は小説家が筋を考えるようにして作られるのではなく、できあがったものが夢の中で与えられるのです。まるで「眠れる予言者」エドガー・ケイシーのようです。しかしいったいだれから物語をもらうのでしょうか。神? 神であるならそれはどんな神なのでしょうか。

 だれが与えるのかについては、曖昧模糊としています。神(lha)だとしても、それは一神教の神ほどには力をもっているわけではありません。梵天(ブラフマー)かもしれません。この梵天はヒンドゥー教起源で、天界では最上位に位置しますが、絶対的な力を持っているわけではありません。チベット人独特の言い回しの「自ら生まれた」物語と言ったほうがいいかもしれません。

 楊恩洪氏によると、夢の中で物語をもらうタイプでみると、はじめて神授されたのは、ツェリン・ワンドィの13歳のほかは、9歳、16歳、15歳、13歳などとなっているそうです。16歳になるまでに、みなツェラン少年のような体験をしているのです。これは、シャーマンになるときの精神的危機の段階である巫病(shamanic sickness)とほぼ同一の現象と言えるでしょう。(たとえばネパールのタマン族のボンボと呼ばれるシャーマンのひとりは、十代の頃精神的に錯乱し、一か月以上野山を駆け巡った。そのあとグル・ボンボという森の精霊の手ほどきを受け、トランスをコントロールできるようになり、ちゃんとしたボンボになった)

 ケサルは前代未聞の危機的状況に追い込まれたことがあります。それは文化大革命です。先に述べたように、ツェリンはケサル帽をとられてしまいました。そればかりか、拷問を受けたといいます。「おまえはリンポチェ(高位のラマ僧)とおなじだ」と言われたそうです。彼の身体にはいまも拷問を受けたあとが生々しく残っていました。

 彼のような主流の語り手はほとんどが文盲です。もともと遊牧民は文盲が多いので、寺に入るのでなければ文字が読めないのは当然でしょう。どの民族も儀礼をつかさどるプリーストは字が読め、シャーマンが字を読めないものです。そのぶんシャーマンは記憶力がすぐれているのです。(プリーストである僧侶は、毎年何百枚分もの経典を覚えなければならないので、あくまで一般論)

 ツェリン・ワンドィは90年代の時点で148巻のケサル物語を記憶し、歌い語ることができました。1巻あたり吟唱するのに数時間かかりますから、つづけて歌い語ればゆうに1000時間を超えることになります。

 私は彼の話を聞いてただ驚くばかりでしたが、その湧き出るような物語創出力の秘密を知りたいと思い、日常生活について尋ねました。すると睡眠時間はわずか3時間だというのです。毛沢東だって4時間眠るのに、3時間は少なすぎないか、そう疑問を呈しました。すると睡眠時間以外に、瞑想の時間があるというのです。もしかするとこの瞑想時間は半覚醒時間であり、そのおぼろげな時間のなかで物語が生まれるのではないかと思いました。もちろんそれは想像に過ぎず、実際に、熟睡している時なのか、半覚醒の瞑想時間なのかはわかりません。

 私が彼と会ったとき、彼は毎日のように「ケサル救済室」のスタジオに入り、ケサルを歌い語っていました。それは録音され、資料室に保管されました。こうして何人かの有名な語り手は協力を求められ、彼らも喜んでマイクを前にケサル物語を歌い語ったのです。テープの数はすでに厖大なものになっていました。そのほんの一部が活字に起こされ、本となって出版されました。ほんの一部とはいえ、その数は相当のものになります。しかしケサルの語り手の数ほどバリエーションがあるといっても過言ではないので、ツェリン・ワンディのような「大ドゥンパ」がいるかぎり、記録され、保存されるべきでしょう。録音されただけで活字化されていないテープは依然として手つかずのまま、山積みになって倉庫に眠っているのです。

 最近全50巻のチベット文のケサル・シリーズが完成しました。これは国家プロジェクトなのかもしれません。しかしこれで手つかずのテープが忘れ去られてしまうと、チベット人にとって取り返しのつかない大きな損失となってしまうでしょう。

 

ダクパはシャーマンか 

 もっともシャーマン的であり、多くの録音テープを残したという点ではもっとも役に立ったケサルの語り手は、昌都(チャムド)の郊外に住んでいたダクパ(Grags pa)でしょう。

 彼は8歳のとき行方不明になりました。両親は探し回りますが、七日たっても手掛かりが得られず、心配はあせりに、あせりは次第に絶望に変わろうとしていました。お坊さんを呼んで読経してもらい、弔ってもらおうとしたちょうどそのとき、子どもは発見されました。家からそれほど遠くない岩の後ろで、昏睡状態の彼が見つかったのです。見つかったとき、彼の身体は土まみれで、しきりにあくびをしていました。彼は家族が七日も探していたことをまったく知りませんでした。

 彼はずっと夢を見ていました。夢の中で、リン国の将軍テンマが彼のおなかをあけ、内臓を取り出し、ケサル王物語をつめこんだというのです。

タクパ少年は家に戻されると、何かぶつぶつとつぶやきはじめました。村の古老は、魔物がこの子の魂を持ち去ったので、すっかり頭がおかしくなったのだと言いました。しかしある人は、この子がつぶやいているのはケサル王物語にちがいないと思いました。

 それから三日たっても好転したようには見えなかったので、父親は近くのパンバル寺(dPal ’bar)に連れていきました。ここのリンポチェに診てもらったのです。

 その日活仏は予感のようなものを覚えていました。そのため弟子たちに、今日は正門を開けておくように、そしてだれが来ても入れるようにと命じました。

 そうして待ちかまえていると、阿呆にしか見えない子どもとその父親が門から入ってきたのです。父親は懸命に状況を説明しようとしました。活仏は「心配しないでください。この子は大丈夫ですよ」と勇気づけるように言いました。

 この活仏は、じつはテンマ将軍の転生だと信じられていました。ケサルのことは当然よく知っていて、ケサルを崇拝していたのです。タクパ少年の様子を見ると、痴呆の子どもにしか見えませんでしたが、ぶつぶつつぶやいているのがケサル王物語のように思われたので、開啓門(ツァゴチェ)の儀礼をおこなうことにしました。

 彼は弟子に命じて巨大な鍋を持ってこさせました。そして鍋の中に水と牛乳を入れ、そこにタクパ少年を入れ、沐浴させます。それから羊毛の織物で少年をくるみ、小部屋の柱にくくりつけます。弟子たちには部屋に入らぬよう命じました。活仏はずっと経文を唱えています。しかしタクパ少年のつぶやきは依然としてとまりません。三日後、活仏は少年にもう一度沐浴させ、経文を読み続けました。そしてゆっくりとですが、状態はよくなってきたのです。

 ついには目が覚め、少年は自己をコントロールし、英雄物語を歌うことができるようになったのです。

 ダクパ少年が家に戻ってからしばらくのこと、五台山巡礼から帰路についていたチベット人僧侶が立ち寄りました。僧侶は少年のことを聞いて、この子は宝物だからけっして汚いもの、けがれたものに近づかせてはだめだと言いました。

 僧侶が言ったことが正しかったことがわかりました。寺から戻ってきた少年は、以前の少年と別人物といっていいほど変わっていたのです。少年が口を開くと、ケサル王物語が出てきました。何も学ばずとも、準備しなくとも、流れるように物語が生まれてくるのです。

こうしてダクパの説唱芸人としての生涯がはじまりました。故郷での活動だけでなく、外に出て、いろいろな場所、機会に歌い、語りながら、漂泊の旅をつづけました。

 

典型的なのに個性的な流浪の吟遊詩人 

 英雄ケサル王物語は、語り手の数ほど物語があるといわれます。ケサル王物語が誕生してから今日まで、数千人、あるいは数万人の語り手がいたでしょうから、何万もの物語が存在したことになります。

 そのなかでも上述のツェリン・ワンディやタクパのような、神から物語を授かり、各地を巡りながら物語を語り、歌う(おそらく古代ギリシアのホメロスのような)吟遊詩人にはロマンが駆り立てられます。

 テンチェン(西蔵自治区丁青県。ラサの東800キロ、チャムドの西200キロ)生まれのサンドゥプはまさにそのような英雄叙事詩を語り、歌う漂泊の吟遊詩人でした。典型的なケサルの語り手だったのですが、物語の骨組みは標準的とは言い難いものでした。(標準的な骨組みは「4大エピソードと18遠征」を見てください)

 サンドゥプのケサルのエピソードには、54巻の名が挙がっています。それは「18大ゾン」「18中ゾン」「ジョル(ケサル)誕生前の18ゾン」から成っています。このゾンというのは城、要塞、ときには国のことを指します。ブータンにいけば現在も日常的に使われています。ケサルはひとつの巻で、ひとつのゾンと戦っているのです。

 18大ゾンの最初の4巻は「北の魔王ルツェン」「ホルの白テント(クルカル)王」「(ジャンの)サタム王」「(モンの)シンティ王」という四大魔王との戦いの物語です。そのあとにタジク、シャンシュン、アタク、ジェリ、カチェなどとの戦いがつづいています。

 ケサルの語り手はいつも物語のはじめから終わりまで、通しで語るわけではありません。客からのリクエストに答えて語ることが多いので、むしろ語られる物語には偏りがあるのです。人気が高いのはやはりこの四大魔王との戦いの4巻、とくにホルとの戦いが人気がありました。

 サンドゥプはまた、「ジョル(ケサル)誕生前の18ゾン」を得意のエピソードとしていました。ケサル王物語だというのにケサル王が出てこないのも奇妙ですが、もしかすると、もともとチベットにはケサル以外にも英雄叙事詩があり、これらはその名残なのかもしれません。

 さて、サンドゥプ自身のことに話を戻しましょう。彼は1922年、テンチェン(丁青県)の半農半牧の村に生まれました。チベットには、純粋な遊牧民よりも、農地を持ちながら放牧をしている人たちのほうがはるかに多いのです。

サンドゥプに強い影響を与えたのは、商売に手を出しながら失敗した母方の祖父の存在です。サンドゥプが幼少の頃、祖父はチャン(大麦の酒)を飲みながら、よくケサル王物語を語って聞かせました。

 サンドゥプは11歳のとき、いつものように山で放牧をしていました。雨が降ってきたので、彼は洞窟に避難しました。ここで岩壁に体を預けてうとうとしていると、突然借金取りがやってきて、つかみかかってきたのです。そこにケサル王があらわれ、少年を助けました。少年は感謝の言葉を伝えようとするのですが、声がでません。なんとか声を出そうともだえているうちに目が覚めました。それにしてもこの借金取りの借金とは、祖父が作ったものにちがいありません。借金苦の生活は11歳の孫にまで暗い影を落としていました。

 このあと家に戻ってから、少年は恍惚とした表情のまま、ぼんやりと過ごすようになりました。夢の中のできごとがそのまま頭の中でつづいていたのです。心配した両親は、少年を近くの寺の活仏のもとに連れていきました。この活仏によって「扉を開く儀礼」がおこなわれたのでしょうか、少年は平静を取り戻し、物語を語ることができるようになりました。このときに少年は「英雄誕生」(キュンリン・メトク・ラワ)を語ったといいます。先に挙げた「18大ゾン」よりも前の重要なケサル誕生の場面です。

 彼は典型的な神授型のケサルの語り手となるのですが、夢の中でもらうのではなく、トランス状態のなかでストーリーをもらいました。毎回説唱する前に目をつむり、神経を集中し、数珠をたぐりながら、物語がやってくるのを待つのが彼のスタイルでした。

 家が貧しかったので、彼は家を出て、ケサル物語を吟唱しながら各地を巡るようになりました。隣県のソク(索県)に滞在する頃には、「天界編」や「競馬称王」もレパートリーに加わってきました。ここのロンポ寺で歌い語ったとき、著名な語り手であるロタクと出会いました。

 彼はナチュをはじめ各地をまわり(よくお寺で歌い語っています)、ついに聖なるカイラース山にたどり着き、この聖山を三周しました。

 かつてはこのように、現在でいえば路上ライブのようにケサル王物語を道行く人々に聞いてもらい、お金を得るということがよくおこなわれていました。そういうことはつい最近まで見ることができたのです。芸能を見せるのですから、乞食というよりは大道芸人に近いといえるでしょう。もちろん外でばかりでやるとはかぎらず、アレクサンドラ・ダヴィッド=ネールが目撃したように、どこかの広い部屋を演芸ホールのように使い、壇上で歌い語ることもありました。祭りや縁日のような人が集まるのはいい機会でした。それが寺院の敷地内であることもありました。またレティン・リンポチェのような実力者が有名なケサルの語り手を囲うこともありました。

 サンドゥプもまたソンツェン・ガムポ王の末裔を称するギャリ・チチェンという名門貴族のお気に入りとなり、その評判を聞いたほかの貴族からも呼ばれるようになりました。当時貴族たちは文化サロンを催していました。ケサルの語り手としても、このようなスポンサーを得ることは重要なことでした。

 ここに挙げた3人のケサルの語り手に共通するのは、文革の時代が終わり、社会が落ち着いてきた頃から、レパートリーの物語をテープに録音するようになったことです。私自身、スタジオのマイクの前でケサルの語り手が吟唱するのを見たことがあります。膨大なテープがたまっているはずですが(録音されたのは5千時間以上にも及びます)、活字に起こされ出版されたのは、百数十冊にすぎません。百数十冊でも十分たくさん活字になったといえるのでしょうが。

 またサンドゥプは1985年にラサ市の政治協商委員に任命されました。政協委員というのは名誉職のようなものですが、悪い気はしなかったでしょう。

 

テルドゥン(テルトンのケサルの語り手) 

 テルマ(埋蔵宝典)を発見するテルトン(埋蔵宝典発掘師)は、チベット仏教のなかでも(基本的にはニンマ派とボン教の伝統なのですが)もっともミステリアスな部分といえます。それでは、テルトンがケサル王物語を発掘することがあるのでしょうか。

 答えはイエスです。ケサルを発掘する人々はテルドゥンと呼ばれているのです。ほとんどの場合テルマとしてのケサル王物語は心の中に見出されます。これはゴンテル(dgongs gter)と呼ばれます。物質として発見されたものはゼテル(rdzas gter)と呼ばれます。ゴロク州が収集した「コンテウラン山羊(ラ)ゾン」は、マチェンの石の中からグンサン・ニマというテルトンによって発見されたといわれています。

 格日堅参(おそらくガラプ・ギェルツェン)という(執筆当時若かった)テルトンを楊恩洪氏が紹介しています。1987年の段階で、もっともすぐれたテルトン・タイプのケサルの語り手と認定されました。

 彼は青海省甘徳県のニンマ派ルンゴン寺(lung sngon)に属する在家の僧侶になりました。しかし16歳の冬、彼は寺院に滞在し、ツァ・ルン・ティクレ(rtsa rlung thig le)の修練を積みました。字義通り訳すと、脈風精液ということになります。脈は住宅のごとく、精は財宝のごとく、風心は主人のごとく、という説明がなされています。「微細な身体」という何となくかっこいい説明もされます。

 おじさんは活仏でありながら有名なケサルの語り手であり、父親もケサルの語り手でありながら呪術師(ンガクパ)でした。彼はいい血筋を持っていたのです。この活仏のおじさんと寺主が「もし成就を遂げたいなら、神仏が派遣した女性と会わなければならない。片方は方便で、片方は智慧である。両者が結合すれば天空を舞う大鵬のようになるであろう」と予言していました。

 彼はダルギャという女性と出会い、彼女がその運命の女性だと確信します。彼女の目はとても変わっていました。普通は、まぶたは上から閉じます。彼女の場合、まぶたが下から閉じるというのです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

 ともかくこのとき以来、彼は心の中から大量に物語を発見するようになるのです。まるで筆に何かが乗り移ったかのように、勝手に動き、物語を記し始めたのです。「自動書記」に似ています。私は台湾やミャンマーで「自動書記」をするシャーマンと会ったことがあります。彼の物語リストは、あっという間に120巻に達しました。そのなかには「ミミン銀ゾン」のような彼だけが知っている物語が多数含まれています。

 楊恩洪氏はテルトンにインタビューをしています。

:ケサルは神と考えていますか、それとも人だと思っていますか。

テルトン:ケサルはパドマサンバヴァの化身です。生まれ変わりではありません。私たちの信仰ではもっとも重要なことなのです。彼は神ですから、永遠に存在するのです。ケサル王物語は人が作ったものであることはたしかです。でもそれは宇宙や霊魂世界のどこかに隠されているのです。ありうるのは、パドマサンバヴァかその弟子がどこかに隠していえるのでしょう。いま、われわれによってそれらは取り出すことができます。私は北伝のテルトンに属しています。

:あなたが書いたケサルが本物であると、どうやったらわかるのですか。

テルトン:なぜなら私はケサル王物語中の将軍ガデ(ガデ・チューキョン・ベルナク)の息子ジクジェ・ナムカ・ドルジェの化身だからです。彼はタジクとの戦いのなかで、ツェンラ・ドルジェに殺されました。たしかにタジクによって殺されましたが、だからといって彼らが強大とはいえません。主な原因は武器である矛の長さの違いです。

 テルトン・タイプのケサルの語り手は、語り手全体のなかではごくわずかにすぎず、主流とはとうてい言えません。しかしこのタイプの語り手を生み出したニンマ派およびリメ(超宗派運動)のケサルから、欧米人が好むケサル王物語が生まれ出ました。それはたとえば、ダグラス・ペニックの『ケサル王 勇者の歌』に寄せられたトンドゥプ・リンポチェの序文によく表れています。伝統芸能の面でみると物足りませんが、そのぶん宗教哲学が文学的に表現されていて、それはそれで充分面白いのです。

 

パキスタンのケサル王 

 2007年秋、黄色く色づいたポプラに覆われた岩の多い谷の村で、半盲の80歳の老吟遊詩人に会ったときは、うれしさのあまり涙が出そうでした。

パキスタンに英雄ケサル王の語り手がいることを聞いたのは、そのときから十年以上も前のことでした。でも写真も映像も見たことがなかったので、姿を想像することすらむつかしかったのです。語り手は仏教徒なのでしょうか。もしイスラム教徒だとしたら、仏教の守護者であるはずのケサル王は何をもってして英雄と呼ばれるのでしょうか。もしかすると、「アッラー・アクバル」とか「ジハード」などと叫んでいるのでしょうか。

 老吟遊詩人ムハンマド・チョーは、二日間にわたって「ホルとの戦い」を吟じてくれました。このパートはもっとも人気があり、またもっとも長いので6時間以上を要しますが、じつはラマザーン(ラマダーン)の期間中であり、信仰心の篤いムハンマドは一日5度の礼拝(サラート)を欠かさなかったのです。

 そもそも外観がチベット人の語り手とまったく異なっています。あの特殊な、神聖なケサル帽の出番などあろうはずがありません。節回しやリズムも違いますし、合いの手の入れ方も異なります。先に述べたように、東チベットでは聴衆が「オン・マニ・ペメ・フム」とマントラを入れるのです。

 それでも言葉がチベット語であるのはたしかです。東チベットの人はすぐには理解できないかもしれませんが、耳をすませば知っているチベット語の単語を聞き分けることができるでしょう。しかし王妃ドゥクモの名が、東ではジュクモと発音されますが、こちらではブルクモです。それは訛ったのではなく、むしろ古代音に近いのです。古い音とされるチベット北東部のアムド語よりも古いのです。

 

 なぜ彼らの言語、バルチスタン語は古いチベット語の一種なのでしょうか。

 まずわれわれは歴史の常識を一度取り払うべきです。中国に唐という王朝があった時代、チベットにも強大な国家が誕生していました。西欧の一部の歴史家はそれを「チベット帝国」と呼んでいます。中国の歴史書には吐蕃という名で登場します。現在の音では「tufan」ですが、古代においては日本語の「とばん」に近かったかもしれません。

ただしチベット人の学者のなかには「tubo」と読んでいたのではないかと言う人もいます。伝播(chuanbo)の播(bo)のように「番」を「bo」と読んだかもしれません。なぜなら古来よりチベットの自称は「bod」だからです。(*中国の「百度百科」を見ると吐蕃の読み方は「tubo」になっていました)

 7世紀から9世紀にかけてのチベットは、帝国という肩書がふさわしいほど領土を拡大しました。チベットがいつ頃国家という形を成したかについては諸説ありますが、ソンツェンガムポ王(?〜649)の時代に急速に大国化したのはまちがいありません。インド、ネパールという隣国からは文化がつねに流入していたはずで、チベット文字が創られたのはこの時期とされています。唐から嫁いできた文成公主は、さまざまな中国文化をもたらしたと考えられています。

 763年、チベット軍は安史の乱が平定されたばかりの長安を占領します。チベット軍はすぐに引き上げているので、混乱に乗じて唐の都を奪取したにすぎないと考えられがちですが、長安を長期治めるということは唐全土を治めることを意味し、割が合わないうえ、無理をすればかえって国の滅亡につながると考えたのでしょう。

 チベット軍はシルクロードに向かいます。敦煌やトルファンをはじめ、甘粛省から新疆ウイグル自治区のおもな国や地域をつぎつぎと傘下に収めていきます。敦煌文書に膨大なチベット語文献が含まれるのはそのためです。私はホータンから北へ200キロほどのタクラマカン砂漠のなかの要塞跡を訪ねたことがありますが、ここはチベットの軍事拠点のひとつでした。

 一方でチベットは、中央チベットから西方へも勢力を伸ばしました。彼らは大勃律(ボロール)であるここバルチスタンと、小勃律であるギルギット地区を版図に入れます。これらの地域は、現在パキスタンの北部なのです。チベットはアフガニスタン東部に侵入し、さらには、中央アジアへと進出しようとしました。地図で見ると、チベットが大帝国になったことがわかります。もっとも、ハビタブル(居住可能)でない地域が相当に含まれますが。

 このヤルルン朝チベットは9世紀半ばまでには滅んでしまいますが、バルチスタンなどでは、チベットから来た支配者層がしばらくは権力を維持することができました。バルチスタンの一部の王さまがチベット語のマクポン(将軍)という称号を持っているのはそのためです。ギャルポ(王)ではないのです。実際、彼らがいつ頃までチベット人という意識を持っていたかはさだかではありません。12世紀頃までには、バルチスタン人の多くがイスラム教徒になったのですが、近年まで仏教徒も存在していました。隣接しているラダックではつねに仏教徒がイスラム教徒を凌駕していましたから、仏教的な英雄ケサル王が流布しても不思議ではありません。

 しかしラダックやバルチスタンのケサルの物語は民話的で、仏教的な要素はきわめて少ないのです。こうした筋書きであれば、聴衆が仏教徒であろうとイスラム教徒であろうと受け入れやすかったのでしょう。

 

 二日目の朝、半盲の老吟遊詩人は私を連れてK2(世界第二の高峰)へとつながる岩だらけの巨大な峡谷を半時間ほど歩いていきました。しばらく探し回ってようやく大きな岩を見つけました。岩の面には白い帯状の模様が入っていました。

「これじゃ、これ。これはドゥクモの乳房から流れ落ちた乳じゃよ」

 「ホルとの戦い」の終わりに有名な場面があります。ケサルが北の魔王と戦い、策略にはまって6年間もとらわれている間に(酒池肉林の状態なので、とらわれているという感じではないのですが)ケサルの国であるリン国はホル軍に侵略され、王妃ドゥクモもさらわれてしまいます。ドゥクモは頑強に拒みますが、最終的にはホル王の妻となり、それなりに幸せを得ます。

 しかし戻ってきたケサル王は憤怒のかたまりとなってホル国を滅ぼし、王妃ドゥクモを取り返しました。じつはホル王とドゥクモの間には子どもが生まれていました。まだ乳飲み子だったので、当然乳房は張り、お乳が出やすい状態でした。

 ケサル王にとってその子は自分の子ではないし、将来自分を倒そうとする存在になるかもしれません。ケサルはドゥクモを先に帰させて、ひそかに子どもを殺しました。

 ドゥクモは、愛するわが子が殺されたことに気がついていました。もう子どもはいないのに、乳だけは無駄に出てくるのです。お乳が流れ出て地上に落ちると、涙もとめどなく流れてきました。その乳が岩の模様になったのです。

「でもどうしてここにドゥクモがいるのですか」と私はバカな質問をしました。

「ここで起きたことなのじゃ」と老吟遊詩人はきっぱりと言いました。「ケサルは天からここに降りてきたのじゃ。リンという国はここにあった。リンとホルの戦いはここで行われたのじゃ」









シェルトンは20世紀初頭、チベット東部に滞在し民話を収集した。
しかしケサルと接したという話は聞かない。





フランケが著わしたラダックのケサル 




若い頃の(歌手の?)アレクサンドラ・ダヴィッド=ネール 




夫のフィリップ。結婚したが、同居したことはなかった 




40年間いっしょに過ごしたヨンデンと 




「超人 英雄ケサル王物語」 





































































































































































































































































































































































































































































夢の中で物語を授かるツェリン・ワンディ 






























































































































































































































































































































































80歳の吟遊詩人ムハンマド・チョー。ラマザーンの時期にもかかわらず「ホルとの戦い」を熱唱してもらった。


幼少の頃重い病気にかかったことが、吟遊詩人になるきっかけとなった。いま、遠くの崖に見えるドゥクモの花飾りについて説明している。



K2へとつながる谷間に「伝説の岩」があった。リンの国はここにあり、ホルとの戦いの現場もこの谷間である。



ドゥクモの胸から流れ落ちたお乳が岩の模様になった。お乳をやりたいホル王との間にできた乳飲み子はケサルに殺されてしまった。