夢は古代を駆けめぐる
古代シャンシュン国の都、キュンルン銀城。前述のように、夏の都と冬の都があったのではないかと、私は考えるようになった。夏の都の候補地は、この天然の要塞というべき巨大な岩山、カルドンである。
カルドンのすぐ南にグルギャム寺院がある。グルギャム寺院は古いボン教寺院だが、仏教のニンマ派やカギュ派も習合していて、複雑な形態を呈している。
グルギャム寺院から少し歩いて、岩山の急勾配の石段を登ると、石窟寺院がある。その石窟のなかで修行を積んでいたのが、アムチ(医師)でもあったボン教高僧デンジン・ワンダ師(bsTan ’dzin dbang grags 1922〜2007)だった。
じつはこの石窟を訪問する一週間前、阿里県でテンジン・ワンダ師と面会する機会があった。阿里県の人民第二病院創立20周年を記念した、地方政府主催の式典が開かれ、我々も出席したのである。テンジン・ワンダ師は病院創立の発起人であり、式典の主役のひとりだった。偉大なる修行者が人民のために奉仕し、役立っているのは、驚きであるとともに、感動的なことでもあった。
話を戻すが、グルギャム寺院および石窟、またこの岩山も、複合的にキュンルン銀城の一部であったかもしれない。それゆえボン教の高僧が石窟に住み、そのすぐ下にボン教寺院があるのだ。
カルドンの北東数キロの平原には、大規模な集落址の遺跡がある。その先には巨大墳墓らしき遺跡もあった。もしカルドンがキュンルン銀城なら、王族や兵士はこの周辺に住み、シャンシュン国の民衆は集落址に居を構えていたことになる。彼らの家は石積みのシンプルな家屋で、それぞれ数百の羊やヤクを飼っていただろう。そして巨大墳墓の主はシャンシュン国王ということになる。
これまで見てきた遺跡と比べても、カルドンの城砦は大規模で、しかもかなり古い。写真のように土のブロックは二千年以上の時の隔たりを感じさせる。グゲ王宮や他の岩窟群のように、岩山の内部に石窟を造っていたなら、そのまま要塞兼王宮として使うことができただろう。岩山の平坦な頂上の中央部に大きな窪みがある。巨大な内部の岩窟が崩落したために窪みができたのではないかと私は想像してしまう。
岩山の平坦な頂上にはまた、ラカン(祀堂)があった。そこに祀られているのはテンパ・ナムカだった。こう言うと叱られてしまいそうだが、この像は宇宙人みたいで、キモかわいく、一目で気に入った。テンパ・ナムカははるか古代のボン教聖人とも言われるが、8世紀のボン教弾圧期に生きた実在性の強いボン教聖者ともされる。一説には、仏教徒への転向を強要された。テンパ・ナムカおよびその子ツェワン・リグズィンはキュンルン銀城に滞在したといわれ、ここにテンパ・ナムカ伝説があるなら、カルドンは銀城の有力候補といえる。
阿里寺廟歴史明鏡(sTod mnga’ ris kyi dgon sde’i lo rgyus dag gsal mthong ba’i me long)によるとキュンルン銀城は「5城砦4ゾン」の中心部にあった。南のキュンルンよりもカルドンのほうがふさわしいように思える。しかしグゲとキュンルンのあいだにあるいくつもの岩窟城砦を加えるなら、やはり南のキュンルンのほうが中心部となり、合致するのではないだろうか。
カルドンのテンパ・ナムカ祀堂のすぐ近くで、最近四川大学の考古学チームが謎めいた小さな青銅の像を発掘した。これが何の像なのか、いまのところはっきりしない。紀元前のものではないかともされるが、それではあまりに古すぎる。古代ボン教に偶像崇拝があった形跡はいまのところ確認できず、古代のヒンドゥー教徒かペルシア系の大乗仏教徒あたりがもたらしたのではないかと考えられるが、決め手はない。
カルドンの10キロほど東にはティルタプリがある。おそらく古い名はプレタプリ(餓鬼の地)であったが、11世紀はじめチベットにやってきた高僧アティーシャがティルタプリ(巡礼の地)に改名した。
改名されたが、ここはおそらく死者の魂を送ることと何か関係がある。ティルタプリに関しては他の場所で詳しく論じたいが、インド人やチベット人だけでなく、とくにシャンシュン国の人々にとって重要な聖地であったように思われる。いわばキュンルン・コンプレックス(複合体)の一翼を成していたのである。
石窟内のテンジン・ワンダ師。
石窟内には水瓶や神像が所狭しと並ぶ。
石窟寺院からグルギャム寺を臨む。
カルドンは巨大な岩山。崖上には石窟も多数見られる。
別角度のカルドン。天然の要塞だが、石塁を築いてさらに堅固に。
ボン教の聖人テンパ・ナムカの像。
グルギャムの石窟寺院。(写真上下)