第2位 三囲(みめぐり)神社ファンタジー
三囲神社をはじめて訪ねたのは何年も前のことです。稲荷神社を見たあと、目の前に三柱鳥居が現れたときは、会いたくてたまらなかった人に不意に出会ったかのような驚きを覚えました。三柱鳥居についてはどこかで読んだ記憶があったのですが、それがここにあることを知らなかったのです。
公式の「三囲神社史」とはまったく違った「ファンタジー三囲神社史」とでも呼びたくなるような歴史があります。人々の想像をかきたてるのはまさにこの三柱鳥居なのです。鳥居と銘打ってはいるものの、通常の鳥居とはあきらかに目的も役割も異なります。
いまから20年以上も前に、私は雲南省南部のシーサンパンナのアイニ族(ハニ族)の村の入り口で、素朴な村門を見ました。鳥居の上には木彫りの鳥が置いてあり、「ああこれぞ鳥居だ」と感服しました。たまたまこの場合は鳥の木彫りだったのかもしれませんが(なにしろ木彫りのブタも置いてあったので)鳥居の原型は村の門として最初に作られ、それから進化して聖域の門となったのではないかと推測できます。
このあたりの家は(少なくとも貯蔵倉庫は)高床式、千木・かつお木という日本の神社とおなじ様式をもっていて、古代においてあきらかにつながりがあるのです。
同地区のタイ族の村の門は、コの字を地面に伏せたような、よりシンプルなものでしたが、やはりこれが鳥居の原型ではないかとの確信を強めました。よく言われるように、インドのトラナや中国の牌楼も鳥居の原型候補です。
そうして発展した鳥居と比べると、三囲神社やそのもととなった京都太秦(うずまさ)の木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社の三柱鳥居は特異で、他とまったく異なるものです。三囲神社の三柱鳥居のなかに井戸があるのも、いっそうミステリアスです。太秦のいさらいの井戸のように「いさらい」という名前でもついていたら、それはイスラエルの井戸ということになってしまうかもしれません。
いま現在よりも江戸時代のほうが三囲神社は有名でした。有名なのに、その起源や由来(木嶋神社から来たのはまちがいないのですが)がはっきりしていないところに、さまざまな説(ときにはトンデモ説)の入る余地があったのかもしれません。
三囲神社をめぐる最大の異端説は、木嶋神社を氏社とした秦氏のユダヤ人起源説でしょう。より細かく言えばたんなるユダヤ人ではなく、ユダヤ人景教徒(ネストリウス派キリスト教徒)ということです。
混乱をもたらしているのは、秦氏が何者なのか、はっきりしていないからです。秦氏の伝承によれば、日本書紀に名が見える弓月君(ゆつきのきみ)は秦氏の先祖です。応神天皇の14年、弓月君は120県の民を率いて帰化しようとしますが、新羅の妨害にあい、二年後にようやく(移住が)実現しました。
『新撰姓氏録』によれば、弓月君は秦始皇帝の三世孫の子孫ということです。もっともそれに疑義をはさむ声は多く、秦韓(辰韓)の渡来系説、新羅系帰化人説などさまざまな説が唱えられています。
景教研究の権威である佐伯好郎(1871−1965)は、弓月君を中央アジア(現在の新疆とカザフスタンの国境付近)の弓月の国と関連づけました。たしかに弓月という名称は特徴的であり、偶然として切り捨てることはできないような気がします。
ただし弓月は普通に考えればテュルク系の遊牧部族でしょう。弓月(現代音でgong yue)という名も漢人の呼び名にすぎず、テュルク語の発音は当然それとは違っていたでしょう。「百事」の原音がわかりにくいように(答えはペプシ)弓月のもとのテュルク語を知るのは容易ではありません。
秦氏がユダヤ人であったり、キリスト教徒であったりする可能性はあるのでしょうか。
帰化した秦氏が定住した場所のひとつは京都太秦でした。なぜ太秦をうずまさと読むのでしょうか。一説には、ウズマサはヘブライ語でウズ(光、力)マシアッハ(救世主)という意味だということです。しかしマサが救世主(メシア)なら、日本中のマサオやマサコなどはみな救世主願望の賜物と言うことになってしまいます。
うずまさ(太秦)の語源についてはたしかに万人を納得させるだけの説はありません。絹をうずたかく積み上げたから、うずまさ、という説明はたんなる語呂合わせにすぎません。定説がない以上、ヘブライ語説もまだ可能性が残されているかもしれません。
三柱鳥居もまた不思議な形をしています。俯瞰すると、三角形に見えます。これは三位一体を表現しているという説があります。三つ穴灯篭など、三囲神社を作った人々が3という数字にこだわっていたことは事実です。三井家がこの3のこだわりを気に入り、三囲神社を守護社として崇めるようになったことはよく知られています。
横から見ると、三角形が二つ見えます。これらをずらせば、ユダヤの六芒星になっていたのにと、残念に思います。逆に言うなら、三柱鳥居はキリスト教の三位一体を表わすとしても、ユダヤ教は表していないということです。
佐伯好郎は、秦氏が建てた大避神社(おおさけじんじゃ 兵庫県赤穂市)の大避がダビデだとして、もともとキリスト教ネストリウス派(景教)の寺院であったと示唆しました。これも語呂合わせ以上の根拠はありませんが、ただ、唐で大秦寺(景教の寺)が各地に建てられ、国のすみずみまで布教活動が行われたのに、日本にまったく届かなかったとするのも無理があります。ユダヤ人でないにしても、だれかが景教を伝えようとしたかもしれません。それが秦氏であっても不思議ではないのです。聖徳太子が厩戸の前で生まれたといわれるのも、景教のイエス誕生の話の影響を受けたという説があります。
日ユ同祖論やイスラエル失われた十氏族といった定番のトンデモ理論はここでは触れません。12の部族のうち10部族が行方不明になったのは2600年も前のことであり、彼らがたとえ日本にたどりついたとしても、日本人のなかに溶け込んでその痕跡すら見つけ出せないでしょう。
ここまで三囲神社とユダヤ人やネストリウス派との関わりについて述べてきました。
しかし江戸時代の三囲神社といえば、だれもが知る三囲稲荷だったのです。(イナリのもとはイエスを表わすINRIという説もそういえばありました)
隅田川を描いた浮世絵を見ると、三囲稲荷が描き添えられていることが多いのです。トンデモ説はさておき、白狐神たちを見てください。彼らこそとてつもないパワーを秘めているのです。
三囲稲荷の縁起によると、文和年間(1352−1355年)、近江三井寺の僧源慶が巡礼の旅をしているとき、ここ牛嶋にやってきました。荒れ果てた寺や祠が多いことに胸を痛めた源慶は、祠のひとつが空海の建てた寺だと知らされます。
自ら寺を再建しようと地面を掘ると、白狐にまたがった老翁(宇迦之御魂命)の神像が入った壺が出てきました。すると白狐があらわれ、像のまわりを三周まわってどこかへ消えました。そのことから源慶は再建した寺を三囲稲荷と呼ぶようになったのです。
この種の縁起はどうもわかりにくいものです。寺を再興しようとした源慶というお坊さんは三井寺の僧侶でした。もしかすると三井であるからこそ三囲という名前になったのかもしれません。三柱鳥居の井戸も重要だったので、「囲」という文字によって象徴しようとしたのかもしれません。しかものちに三井家の守護社となります。ミイ、ミメグリ、ミツイと読み方は違っても、どれも三井(三囲)なのです。しかも白狐は像のまわりを三周(みめぐり)します。この縁起はくどいといっていいほど三井について説明しているのです。