位 首切地蔵は何人の死を目撃したのだろうか   宮本神酒男 

 家から遠くないので、ときどき延命寺の首切地蔵を訪ねます。しかしいつもどこかすっきりしない、不安な気持ちに襲われるのです。首切地蔵の目はやさしく、慈しみがあるのに、そのまわりに報われない無数の魂が浮遊しているように感じられるのです。

震災のときに破損したが、修復された首切地蔵 

 それはもともとあった小塚原刑場が分断され、回向院と延命寺に分かれていることに起因しているのかもしれません。近代化に走る日本は20万人以上も処刑した刑場跡地のどまんなかに鉄道を通しました。1896年、常磐線の前身である隅田川線が敷設されたのです。

 鈴ヶ森、八王子大和田とともに江戸三大刑場とされる小塚原の刑場は1645年(正保二年)、鳥越にあった刑場が移されて始まったものです。処刑された遺体はきちんと埋葬されることは少なく、ふつうは簡易埋葬ですましました。そのあたりをほじくれば、ざくざくと人骨が出てきたといいます。


吉田松陰の墓(松陰二十一回猛士墓)と橋本左内の墓。ふたりとも二十代の若さで処刑された 

 もっとも最後のほうに処刑された有名人として、吉田松陰を挙げたいところですが、じつは松陰が処刑されたのは伝馬町の刑場でした。執行後に小塚原に埋葬され(のちに世田谷に改葬)墓が建てられたのです。安政の大獄で松陰とともに罰せられた、福井藩の橋本左内や儒学者頼山陽の息子頼三樹三郎(らい・みきさぶろう)は小塚原で処刑されました。彼らがみな若かったことには驚かされます。橋本左内は25歳、頼三樹三郎は34歳、吉田松陰でさえ弱冠29歳だったのです。後世に残されたあのどう見ても五十代のオッサン臭い顔の絵は何なのでしょうか。

 延命寺・回向院から素盞雄(スサノオ)神社へとつながる旧日光街道はコツ通りと呼ばれています。素盞雄神社の説明書きによれば、境内の瑞光石がある塚が古塚であり、そこから小塚原の名ができたということです。もっとも、そこら中から骨(コツ)が出てくるのでコツが原といった、という説のほうが説得力をもつような気もしますが。

首切地蔵の傍らに置かれた地蔵の数々 

 コツ通りの端に延命寺があるのですが、そこから陸橋を上って線路(日比谷線)を越え、50mほど歩くと、泪橋の交差点に出ます。あしたのジョーのボクシングジムが泪橋のたもとにあるので、最近まで趣のある橋が実在するものと思っていました。ところがそれはあくまでフィクションであり、実際はとうの昔に埋められていたのです。思川(おもいかわ)という宮本輝の小説のタイトルにでもなりそうな川の上には、明治通りが走っているのです。

 江戸時代、刑場へ向かう犯罪者の家族や恋人は泪橋より先に行くことが許されませんでした。ここに斬首されたさらし首が置かれることもあったといいます。しかしこの道はもともと日光街道という幹線道路でもあったので、そこで足止めを食ったとは考えにくいのですが。

 あしたのジョーの時代になると、逆向きに泪橋は山谷(さんや)の入り口となりました。小塚原という霊気漂う地域を通って、日本有数のドヤ街へと入っていったのです。そんなときにも首切地蔵はやさしく見守ってくれたにちがいありません。


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